白室桃布顔面真っ赤
室内のほとんどが清潔感のある白色をしている保健室に囁くような声がこだまする。聞かれてマズい相手は居ないので小声になる必要は特にないのだが、一応佐敏の秘密に関わる話のため不要と分かっていてもつい声を潜めてしまう。
「とりあえず、確定じゃないけど御門さんの依頼は受けようと思う」
「本当ですか!あの……今更ですけど迷惑じゃないですか?」
喜色を表し片手をベッドについてこちらに身を乗り出してくる。が、すぐに身を引いて上目がちに反応を伺ってきた。
一度近づいた距離が離れた事に心なしかがっかりするが、きちんとこちらの都合を確認してくれる礼儀正しさに好印象を積もらせる。
「全然迷惑なんかじゃないよ。むしろ感謝してるぐらいだ」
「感謝?なんでですか?」
こうして和奈と話ができるから、などとは口が裂けてもいえないのでそれとは別の理由を口にする。
「実は、デュアル・マウスのことはクラスメートにも秘密だったんだ。でも今回の依頼でようやく踏ん切りがついて、今日みんなにバラして来たんだ」
「そうなんですか、でもそれじゃあやっぱり迷惑だったんじゃないですか?だって私がこんな事を頼まなかったらわざわざバラさなくてすんだんですから……」
「そんなことないよ。うちのクラスの連中さ、みんな凄く良いヤツばっかりなんだ。だからあいつらを騙してたみたいで心苦しかったんだけど、今はこれでもかってぐらいすっきりしてる」
大本命の理由ではないが、それは嘘偽りのない佐敏の本音だった。和奈もそれならばと納得したようで、もう無用の謝罪をしようとはしなくなる。
「そういう訳だから、遠慮なくこき使ってくれればいいよ」
「いえ、そんなこき使うなんて……」
「冗談だよ」
そこで一旦言葉を切り、我ながらよくこうもすらすらと舌が回るものだと感心しつつ本題へと移る。
「ところで護衛の話を受けるって言ったけど、具体的にはどうすればいいのかな?」
「えっと、私の代わりに挑戦者の方と対戦してもらえれば」
「あ、いやそれは分かってる。俺が聞きたいのはリアルのほうでどうやって挑戦者とマッチングするかってこと」
「あっ……」
マッチングとは対戦相手を選んで対戦を組む行為全体を指してそう呼ぶのだが、今の反応を見るかぎりマッチングに関して何も考えていなかったようだ。
「すみません、全然考えてませんでした。どうしたらいいでしょうか」
「えっ?う、うーん……ちょっとすぐには思い付かないなぁ」
顔をうつむかせているせいで若干上目遣いになりながら向けられる視線を直視できず、耳を真っ赤にして正面に目をそらす。それをどう捉えたのか、和奈もすぐに正面に向き直る。
「そうですよね。基本的に生徒間で何かしらの報酬を用意した対戦は禁止されてますから、あまり大々的には告知でしませんし」
「そうだね、個人レベルでの賭けバトルなんかは見て見ぬふりだけど、今回みたいな大人数相手だとさすがに先生達も黙ってないだろうね。しかも内容がその……こ、告白の権利を賭けて、なんて正直言って不純すぎる」
「せめて参考にできる前例でもあれば良かったんですけど……」
「前例ならあるだろ」
和奈ははっとして隣を見るが、佐敏は首をブンブンと降って自分ではないと主張する。そもそも口調からして違っているし、佐敏の声はこんなに野太くない。となると消去法で今の言葉を放ったのが誰なのかも分かってくる。
「前例があるって、本当ですか?先生」
いつからそうしていたのか、ローラーの付いた椅子に逆さに座って背もたれに両腕と顎を乗せた姿勢でこちらを覗いている。覗くと言うよりは観察と言った方がしっくりくるだろうか。驚きと期待のこもった二人の顔を視線だけを動かして交互に見て、保険医の男は不意に呆れたように鼻で笑ってきた。
「なんというか、しっかりしてそうで案外抜けてるみたいだな。前例なら超有名なのがあるだろうに」
「超有名な前例?」
反芻して、そんなものがあったかと記憶をたぐってみると、あっさりとそれは見つかった。すぐに言葉にしようと隣を向くと、ちょうど和奈も思い至っていたようだ。
「御門先輩!」
「お姉ちゃん!」
二人が同時に声をあげると共に、確認のために振り向くと保険医の男はしたり顔で頷いていた。
「そっか、去年の末に御門先輩はほとんど同じ事をやってたんだ。そもそも、突き詰めれば今回の件もそれが原因なんだから、同じ方法が使えるかも知れない!」
「そうですね!私、今日帰ったらすぐにお姉ちゃんに聞いてみます!」
わずかながら確かな光明を見いだして舞い上がる二人をなだめるように、ピンポンパンという機械的な音が学内に響いた。そして、続いてスピーカーから聞こえてきたのは正にたった今話題にのぼった人物、御門欧華の声であった。
「一年A組御門和奈、至急生徒会室まで来なさい。繰り返します」
スピーカーから同じ文句が繰り返されるのを聞いているうちに、ようやく佐敏の頭も放送の内容を理解した。
「もしかして今日って生徒会のある日?」
佐敏の問いに答えもせず、顔を真っ青にして慌てて立ち上がる。と、足をもつれさせてその場でたたらを踏み、小さな悲鳴を上げたかと思うと対面にあったベッドに正面から倒れ込んだ。
「きゃふっ!」
「み、御門さん!?」
うつ伏せに倒れた和奈を見て一瞬にして顔面が沸騰した。正確には倒れた拍子にめくれたスカートから覗く、薄いピンク色の布地を見た瞬間である。
「あぅ……あっ、きゃあっ!」
本人もすぐに気づいたらしく、すぐさま両手でスカートを押さえて立ち上がる。さっきまで真っ青だった顔を一転して真っ赤に染め、今にも泣き出しそうな表情で佐敏の様子を伺ってくる。ここでポーカーフェイスの一つでもできれば良かったのだが、当然佐敏にそんな技能はない。仮にあったとしても今の状況で発揮できるほど佐敏の精神は強靭には出来ていない。神はニ物を与えないのだ。もっとも佐敏は両方持っていないが。
「ご、ごめんなさい……」
その一言で和奈も理解したようだ。その瞳にはもはや涙が滲み始め、何度も口をパクパクとさせながらようやく言葉を紡いだ。
「し……」
「し?」
「失礼します!」
言うや否や凄まじい勢いで保健室から飛び出そうとし、鍵がかかったドアに一度激突してから鍵を開けて逃げるように走り去った。取り残された佐敏はひたすらに呆然として、何か弁明をと開きかけた口を閉じる事さえ忘れていた。
ただ一人、腹を抱えて身を捩らせながら爆笑する保険医の男を見て、佐敏はようやくこの男に対する親近感の正体を知った。
(あぁ、この人……隼人に似てるんだ)
空は朱色に染まり道行く人々の多くは家路についている。最終下校時刻を三十分後に控え、校内は慌ただしさとわずかに混じった哀愁で静かにざわめき始める。
そんな中、佐敏は生徒会室の前で一人悶々としていた。
「はぁ……」
保健室を出てから数え切れないほど重ねてきたため息をさらに一つ積み上げる。憂鬱そうに自分の左手に視線を落とすと、そこにはほとんど汚れもなく綺麗な学生鞄が握られている。佐敏自身の鞄は反対の手に持っているので自分の物ではない。鞄の片隅には白糸で刺繍された「御門和奈」の四文字。そう、これは和奈が保健室に忘れていった鞄なのである。
和奈が保健室を飛び出した後しばらくして、ようやくまともな思考能力を取り戻した佐敏はひとまず保健室を出ようと鞄に手をのばした。そこで初めて鞄が二つ置いてあることに気が付いた。その様子を見ていた保険医は一瞬だけ明後日の方向を見て何事か考え、直後に意地の悪そうな笑顔を浮かべて言い放った。
「おっと、もうこんな時間か!じゃあ俺は帰るから、お前も早く出ろ」
「えっ?いや、でもこれ……」
「おうおう忘れ物か?いやぁ参ったな!届けてやりたいのはやまやまだが俺はもう帰るしなぁ」
あからさまにわざとらしく驚いてみせ、口では困った風をしているが内心では確実に面白がっているだろう。
「そうだ、お前が届けてやればいい。これで万事解決だ」
「ちょっ、待って下さいよ!さっきの見てたでしょ!?気まずくてとてもじゃないけど無理ですよ……」
「とてもじゃないなら頑張ってみろよ。はい退勤メール送信っと、さぁてあと十分以内に帰らないと虚偽申請になっちまう」
卓上のノートパソコンをこれ見よがしにこちらに向けて送信完了の画面を見せてくる。どうやら本気で佐敏に丸投げして帰るつもりらしい。もっとも、本来保健室に常駐すべき人間に届け物を頼むのも筋違いなのだが、これで鞄を保健室に置いたままにして和奈が取りに戻るのを待つ、という手段も使えなくなってしまった。
「まぁなんだ。見ちまったもんは仕方ないし、今回はどちらかと言えばあっちの過失だ。それでも気になるならさっさと謝るか知らん顔でなかったことにしちまえよ」
「先生……」
不真面目に見える態度や小馬鹿にしたような物言いをしているが、やはり教員と言うべきかちゃんと生徒のことを考えてくれているようだ。
「分かりました。ありがとうございます」
「しっかし良いもん見たわ、眼福眼福」
前言撤回。即刻PTA、いや警察に通報した方が良いかも知れない。
そんなやりとりを経て、結局佐敏が和奈の鞄を届けることになった。
正直に言えば嫌ではない。好きな女子に違和感のない理由を付けて会えるのだから、男子として嬉しくないはずがない。ただ、今だけは時期が悪いとしか思えない。佐敏に一切過失のない不意の事故とは言え、相手の下着をバッチリ見てしまったのだから。 ふと頭に薄桃色の下着がフラッシュバックしそうになり、とっさに自分の鞄を落として空いた手で頭にガツガツとゲンコツを叩き込む。
「……最低だ」
どうにか妄想を打ち消してがっくりとうなだれ、やつれた表情を隠すように体育座りで顔をうずめる。
保健室を出て生徒会室前で待つこと二時間、幾度となく同じ一人問答を繰り返しているのだが、問題が解決されなければそろそろ本当に頭がおかしくなりそうだ。
せめてさっきの事故がなければ、または一日だけでもインターバルを挟むことができれば、ここまで切迫することはなかったのに。そんな詮無いことを考えていると、遂に生徒会室のドアからガラガラという音が聞こえた。中からぞろぞろと生徒会のメンバーが出て来て一様に佐敏に奇異の視線をよこすが、佐敏の手にしている和奈の鞄を見て納得しているようだった。
「それ、御門さんの鞄だよね?まだ中にいるから渡してあげなよ」
声をかけられたことに驚いて顔をあげると、縁無しで楕円形のメガネをかけた女子が目に入った。胸章によれば三年生、その隣に書記章があるところを見ると、どうやら生徒会の幹部のようだ。
保健室での話をどこまで知っているかは分からないが、和奈が鞄を忘れたことは知っているらしい。軽く会釈をすると書記の女子は去って行き、佐敏も覚悟を決めて生徒会室のドアに手をかけようとする。が、その前に反対側から勢いよくドアが開かれ、中から伸びてきた腕に胸倉を掴まれると同時に一気に引きずり込まれた。
「うひぁ!?」
情けない悲鳴を漏らしながら勢い余ってつんのめっていると、佐敏の背後でガチャリという音が聞こえた。恐る恐る振り向いてみると、にっこりと底冷えのする笑みを浮かべた欧華がドアの鍵に手をかけていた。
「あ、どうも……」
佐敏も頬を引きつらせながら笑顔を作り、どうにか挨拶をする。
「佐敏君?」
「はい!」
反射的に姿勢を正して返事をすると、欧華は相変わらず笑みを浮かべたままでゆっくりと佐敏の隣まで歩み寄る。
「和奈がね、保健室から戻って来てから様子が変なの」
たった今まで失念していたが、部屋にはもう一人和奈がいたのだ。二人で佐敏を挟む位置、すなわち背後に立ち、うつむいて両手の指をせわしなく絡ませている。
「他の子に聞いた話だと、あなたと一緒に保健室へ行ったそうじゃない。保健室で一体何をしたのかしら?」
「い、いえ別に何も……」
「何もなかったのなら何故あの子は顔を真っ赤にして泣きそうになってたのかしら、ね?」
季節は夏に近づきつつあり、気の早い生徒の中には半袖で登校する者も出始めている。しかし佐敏は今、間違いなく凍えるような寒気を感じていた。下手な嘘をつけば一体どうなることか、かといって馬鹿正直に「妹さんの下着を見ました」と言えば最悪の場合命が危ない。
「あら、どうして黙るの?それにすごい汗よ……一体、可愛い和奈に何をしてくれたのかしら?」
「それは……その……」
いっそ洗いざらい白状してしまおうかという思考がよぎり始め、見計らったように一歩、威圧感を増しながら欧華が歩み寄ってきた。
いよいよ進退極まった時、助け舟を出したのは今まで一言喋らなかった和奈であった。
「待ってお姉ちゃん、違うの!」
「み、御門さん」
欧華から目をそらすように振り返ると、涙目ながらも毅然として意思のこもった態度を取り戻し、再び口を開いた和奈と目が合った。その視線からは、固い決意のようなものが感じられた。
おそらく、和奈はこう考えているのだろう。「自分のせいで先輩が困っている」と。和奈と過ごした時間は短いが、その予想には確信に近いものがあった。
そしてその予想が正しかったことは、和奈自身の言葉で証明されることとなる。
「先輩は悪くないの……私がドジだったのがいけないの」
「和奈、何があったのか話してくれる?」
「……うん」
それからしばらく、佐敏が和奈の依頼を受けることと、その話をするために保健室を利用していたこと、そこで起きたハプニングについての説明のために時間が費やされた。最初から最後まで静聴していた欧華だが、和奈が話終えると同時にとんでもないことを言ってのけた。
「えっ、それだけ?」
「え?」
「はい?」
和奈だけでなく、説明の補足以外は黙っていた佐敏も思わず聞きかえした。
「それだけ、って?」
「いえ、その、佐敏君と一緒に保健室に行って何かあったみたいだから、私てっきり……な、なぁんだ!パンツ見られたぐらい良いじゃない!」
「よ、良くないよ!お姉ちゃん一体何を考えてたのよ!」
全くである。先ほどまで絶対零度の冷笑を保っていた顔も、今や逆転してほのかに赤みがさしている。本当に何を考えていたのやら。
破廉恥だの不潔だのと喚く和奈とおろおろと言い訳を漏らす欧華、タイプは違えど間違いない美少女の姉妹喧嘩を、平々凡々たる一般男子の佐敏はどこか遠い世界を切り抜きで見ているような気分で眺めた。