第5章:千枚田の改革
水軍を「天の雷」で追い払った夜から数日。中山の村には、平穏とはほど遠い、熱に浮かされたような空気が漂っていた。
農民たちは、虎丸が水車小屋に籠もって何かを「造り続けている」ことを知っている。そしてその「何か」が、自分たちの田に注がれることも。
「若殿、本当にこれで米が増えるんですかい?」
嘉平が、おそるおそる導水路の脇に置かれた巨大な木桶を覗き込んだ。
桶の中には、水車小屋から引かれた二本の漆塗り銅線が浸かっている。
水車が回るたび、水中でパチパチと小さな青い火花が散り、鼻を突く「雨上がりのような、焦げた匂い」が漂っていた。
「嘉平、お前は雷が多い年は豊作になると聞いたことはないか?」
虎丸は、電圧計代わりの「金箔の開き具合」を確認しながら問いかけた。
「へぇ、古くから『稲妻は稲の夫』と申しまして、雷が走れば稲が孕むと言い伝えられておりますが……まさか、それを人の手でやろうってんですか?」
「そうだ。空を走る雷は、空気の中にある『目に見えぬ栄養』を、雨の中に溶かし込む。私はこの水車で、その雷を再現しているのだ」
現代知識で言う「放電による窒素固定」である。
空気中の窒素をプラズマ放電で酸化させ、水に溶かして硝酸態窒素(肥料成分)を作り出す。戦国時代の貧弱な土壌にとって、それはまさに「神の劇薬」に等しい。
虎丸は、その「雷を浴びた水」を、中山の千枚田のうち、最も日当たりが悪く収穫が望めない一角に流し込ませた。
「右衛門尉、嘉平。ここからの三ヶ月、誰にもこの田を触らせるな。雑草だけは抜け。だが、他の肥え(下肥や灰)は一切やるな」
一族の重臣たちは冷ややかだった。
「若殿はついに、田んぼに呪い(まじない)をかけ始めたか」
「水に火花を散らして米が実るなら、苦労はせぬ」
だが、一ヶ月が過ぎた頃、中山の景色は一変した。
「な……なんだ、ありゃあ……」
嘉平が絶句した。
「雷の水」を注がれた区画だけが、他の田と比べて明らかに色が濃い。茎は太く、葉は天に向かって鋭く伸び、まるで意思を持っているかのように猛々しく成長していた。
農民たちがざわめき始めた。
「あそこの稲だけ、化け物みたいだ!」
「若殿は本当に、雷の精霊を土に閉じ込めたんだ!」
秋。収穫の季節。
虎丸は約束通り、中山のすべての農民を千枚田に集めた。
「刈り取れ。そして、秤にかけろ」
結果は、残酷なほど明白だった。
「雷の水」を与えた田の収穫量は、例年の一.五倍。
それも、本来なら収穫が見込めない痩せた土地での結果である。
嘉平をはじめとする農民たちは、その場に泣き崩れた。
戦国時代、収穫の一.五倍は、家族が飢えずに済むどころか、村全体が「富」を得ることを意味する。
「若殿……いや、雷神様! 疑って申し訳ございませんでした!」
「俺たちの命、すべて若殿に預けますだ!」
農民たちの支持は、もはや「領主への忠誠」を越え、狂信的な「信仰」へと変わっていた。虎丸は、ひざまずく彼らを見下ろし、確かな手応えを感じていた。
(よし。これで食糧基盤と、絶対的なマンパワーが手に入った)
だが、虎丸の「改革」はこれだけでは終わらない。
「嘉平、立て。喜ぶのはまだ早い。この水車には、もう一つの役目がある」
虎丸は水車小屋の裏側へ彼らを案内した。
そこには、木製の長いクランクとピストンが組み合わされた、奇妙な機械が置かれていた。
「これは『自動揚水機』だ。水車の回転を使い、下流から上流へ水を押し上げる。お前たちはもう、重い天秤棒を担いで坂を上り下りしなくていい。その時間は、すべて開墾と、……そして『軍練』に充ててもらう」
農民たちは絶句した。
労働からの解放。そして、与えられた「余剰時間」。
虎丸は、彼らをただの農夫から、高度な技術を理解し、一族のために命を懸ける「特殊兵」へと変貌させようとしていた。
城へ戻る道すがら、右衛門尉が震える声で尋ねた。
「若殿。これで中山の民は完全にあなたの虜です。……ですが、この奇跡、あまりに早すぎはしませぬか? 噂を聞きつけた他領の欲深き者たちが、黙ってはおりますまい」
虎丸は、伝法川の向こうに広がる瀬戸内海を見つめた。
「ああ。だからこそ、次は『外』へ出る。挨拶が必要だ」
虎丸は懐から、一通の招待状(あるいは宣戦布告)を取り出した。
相手は、豊島を拠点とする国人衆。
小豆島の変革を「妖術」と切り捨て、軍勢を整え始めているという。
「右衛門尉、源太。船を出せ。豊島と直島の連中に、小豆島の『新しい理』を教えに行ってやる」
冬、虎丸の「雷神」としての威名は、ついに小豆島の防波堤を越え、瀬戸内の島々へと波及していく。




