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4. げんこつ革命(約九千字)

「ほら、早く言えよ。どこを間違えたか、まだ分からないのか?」


 右斜め前から落ちてくる、もう聞き慣れてしまったその響き。

 島型に並んだデスクの一角、俺の席のすぐ横に、上司が腕を組んで立っている。モニターには、止めたままの進捗管理表の画面。

 背中には空調の風と、汗で張りついたワイシャツの布の感触。


 ……どこを間違えたのか言え、と言われても。

 頭の中でさっきまでの作業を巻き戻しても、はっきり「ここだ」と言える場面が出てこない。書類のチェックか、メールの文面か、電話対応か──候補はいくらでもあるのに、特定できない。


「す、すみません……わ、分かんなくて……」


 自分でも情けないと思うほど薄い声しか出なかった。

 上司はすぐさまその言葉を切り捨てる。


「言い訳はいらない!」


 上司の声が耳から脳天に突き刺さるように響く。

 だが上司は"そんなこと"構わず、そして続ける。


「分かるまで考えろ。考え続けろ!そんで"ようやく"分かったら、俺のところに来い。それまで他の仕事はしなくていい。」


 「他の仕事はしなくていい」という言い方に、喉のあたりがじわっと熱くなる。

 それは「他の仕事は誰かがやっておく」という意味ではない。誰も代わってはくれない。この時間は、そのまま俺の残業時間として積み上がるだけだ。


「いいな!?」


 上司はそれだけ言うと、踵を返して自分の席に戻っていった。

 俺は椅子に沈み込む。モニターの白い光が、やけにまぶしく感じられる。


 フロアのあちこちから、キーボードを叩く音と、マウスを滑らせる音が続いている。誰もこちらをまともには見ない。けれど、すぐ後ろのデスクから、ぎりぎり聞き取れるくらいの声が漏れてきた。


「あー、――さん、またミスしたんだ」

「ちょっと多いよね、最近」

「まだ理由わかってないみたいなんですよ」


 ギリギリ聞き取れる音量で、しかしこちらに届くような距離と角度で交わされる会話。モニターの光に照らされた自分の手を見ると、甲の部分に小さな震えがあり、掌には汗が溜まっていた。胸の奥で鼓動が早くなり、喉の奥がきゅっと狭くなる。


 眉間を親指と人差し指で押さえ、もう一度たどる。今日はイレギュラーな案件が続いた。テンプレートで流せる仕事はほとんど回ってこず、数字の形式が微妙に違う資料を統一したり、過去案件を引っ張り出して照合したり、とにかく手間のかかる作業ばかりだった。


 何で俺ばかり、こういうのが回ってくるんだろう。

 ミスが多いとされている人間に、ミスしたら会社の痛手になる仕事を"集中させる"意味があるのか――そんな疑問が頭の隅に浮かび、同時に、ここ最近ずっと仕事量が自分だけ明らかに周りと比べて不合理に多いという実感が、重しのように胃のあたりに乗ってくる。


 視界の端がじわりと滲み、まぶたの裏が熱くなった。

 頬の内側に歯を立てて、なんとか涙をこらえようとするが、目の縁まで水分がせり上がってくる感覚は止められない。


 あぁ、なんで俺はこんなに仕事が多いんだ。なんでミスばっかりする俺に、よりによってこういう仕事が回してくるんだ。

 こんなに回されたらそりゃミスだって増えるし、何より手が空いてるやつなんて、俺以外に、周りにいくらでもいるじゃないか。


 ......理由は何となく分かる。入社直後、俺がなんとか評価されようと仕事をたくさん引き受けたんだ。

 そしたら偶然その時に視察に来た部長にえらく評価されて......それから、上司や周囲から任せられる仕事の量がもっと増えて......

 初めはただ単に期待されてるだけだと思った。俺が有能ながら任されてるんだと。

 でも、今は、本来周りから手取り足取り教えてもらいながら徐々にこなしていくような仕事を、「過去資料を参考に」とだけ伝えられて任されることばかり。


 .......もう期待の域をとうに超えてるだろ。

 これはもう......

 

 ......頑張って生きているつもりなのに、いつもどうしてこうなるんだ。



 ――そう思った瞬間。


 椅子の座面から、太ももが引き剝がされるようにしてすっと持ち上がった。

 座り続けようとする意志とは逆向きに、膝が自然に伸び、立ち上がる姿勢が完成していた。自分で「立とう」と決めた感覚がないまま、視線の高さだけが一段上がる。


 ――は?なんだ、これ。


 心の中でそう言葉を投げたのに、体は応えない。足が勝手に一歩、前に出る。

 蹴飛ばされた椅子が後ろへ滑り、キャスターが床を擦る音がするが、それが耳に入った瞬間には既に次の一歩が出ている。


 驚いて声を出そうとしたが、喉が動かない。息はできるし、肺に空気は出入りしているのに、「やめろ」と声にするための筋肉だけが、まるで他人のもののように反応しない。


 気づいたときには、手がデスクトップPCの本体をつかんでいた。片側を持ち上げると、コードが引き延ばされ、差込口から抜ける感触が指先に伝わる。

 そのまま腕が振り上がり、床へ向けて放り投げられた。金属とプラスチックがぶつかる硬い音と、内部の部品が揺れる鈍い衝撃音が、オフィス全体に響く。


 リアクションが普段から大きい隣の机の同僚が、「きゃぁ」とデスクの向こう側で肩をすくめて甲高い声を上げた。周囲の視線が一斉にこちらへ集中する気配を見ずとも感じる。


 俺の腕はそのまま机の上に向き直ると、積んであった書類の束を横から薙ぐように払った。クリップで留められた紙がばらけて、床いっぱいに散らばる。白い紙面が、黒い椅子の脚や靴の間に斑点のように広がっていく。


 ――お、おい。何やってんだ俺。


 頭の中でははっきりとそう言っているのに、今度は脚がどんどん上司の席のほうへ進んでいく。足首から膝、腰、肩まで、すべての動きがひとつの目的に向かって連動しているのを、内側から見せつけられているようだった。


 上司は椅子に座ったまま、唖然とした表情でこちらを見ていた。目だけが大きく開かれ、口元は半開きのまま固まっている。

 俺の体がデスクの角まで近づいたところで、ようやく危険を察知したのか、奴は椅子のキャスターを使って後ろに下がろうとした。


「ま、待て」


 そこで、俺の口が勝手に開いた。


 「自分のミス、分かっちゃいました」


 言葉の内容も、声の出し方も、完全に自分の操作から切り離されていた。耳には自分の声が届いているのに、それが自分の意思の結果ではないという事実だけが、異様にくっきりしている。

 上司は何かを悟ったように、腰をおろしている椅子を後ろへ押し、俺から逃れようとする。


「な、何を」


「今までお前を殴らなかったことだよ!」


 そう続けた瞬間、俺の拳が振り抜かれた。

 拳が頬骨に当たる鈍い衝撃が手首から腕に伝わる。上司の顔が横に弾かれ、椅子ごとバランスを崩して床へ転げ落ちる。


 どこからか椅子のきしむ音と「やめろ!」という声が飛んできた。男の社員が慌てた様子で間に割って入り、俺の肩か腕をつかもうとしているようだ。


 すると、その動きに反応するように、俺の体は自然に反転し、振り向きざまに肘を振り上げた。肘の先端が男の側頭部に当たり、男の口から鋭く息が漏れると、膝から崩れ落ちるように床に倒れ込む。


「きゃぁあ!」

「だ、誰か!警察呼べ!」


 周囲で誰かが短く悲鳴を上げ、それ以外の人間たちは、椅子やデスクを盾にするようにしながら部屋の端へ後ずさった。

 通路が空き、俺の周囲だけぽっかりと人のいない円ができる。


 その中心に立っているのは、俺の体だ。

呼吸は乱れていない。むしろ、さっきまでの動揺よりも、心拍が落ち着いているようにすら感じた。だが、その体をどう動かすかを決めているのは、自分ではなかった。


 次にどこへ行くのかを考えるより先に、足が入口のほうへ向きを変える。視界の端に、床に落ちた書類と、動かない上司と、うめき声を漏らしている男の社員の姿が順に流れていく。


 ドアノブに手が伸び、ドアが開く。廊下の空調の風が、少し冷えた空気をスーツの隙間に流し込んでくる。

 俺の身体は、振り返ることもなく、そのまま廊下を歩き、エレベーターホールへ向かう。



 エレベーターホールに着くと、俺の身体は迷いもなく呼び出しボタンを押した。壁に埋め込まれた銀色のボタンが短く点灯し、「使用中」を示す赤いランプの上で数字がゆっくりと減っていく。


 その間に、頭の中が一気に騒がしくなる。


 ――やばいだろ、これ。

 上司を殴って、男も倒して。救急車か警察か、もう誰か呼ばれててもおかしくない。

 これ、普通に傷害罪で起訴されるやつだよな。懲戒解雇は確実として、前科持ちになったら、次に雇ってくれる会社なんてあるのか。


 何よりこんなの"やり過ぎ"だ。

 確かに、上司やあの職場の奴らに今まで辛い思いをさせられた。

 精神科に行けば胃薬としても使われるらしいドグマチールを処方されて、それを飲むまでに追い込まれた。

 でも、だからといって、人を気を失う強さで殴るなんて......そんなの......


 考えれば考えるほど、胃のあたりが冷たく縮んでいく。けれど、足はじっと止まったまま、扉の前で揃えられている。逃げ出そうとするでもなく、身を隠そうとするでもなく、ただエレベーターが来るのを待っている格好だ。


 そのとき、俺の口が勝手に開いた。


「殴られないと思ってんだよ」


 低い声が、静かなホールに落ちた。自分の声帯を使って出したはずの音なのに、「今しゃべろう」と決めた覚えがない。


 ――は?


 動かない眼球ではあるが、視界にほかの社員の姿は見えない。廊下の奥までガラス越しにオフィスが並んでいるだけで、このフロアのホールには俺以外誰もいない。


 いまの、”俺”に向けて言ったのか。そう思った瞬間、同じ口から続きがこぼれた。


「立場ってのはクソだ。どんなやつでも、上になればあいつらみたいに傲慢になるし、下になればお前にみたいに卑屈になる」


 俺の喉は、いまだに自分のものの感覚が薄い。

言葉だけが勝手に選ばれ、勝手に整えられて、空気を震わせている。


「……なんでか分かるか?」


 問いかけるような調子でそう言うと、口は一旦閉じた。今度は、頭の中にだけ、返事をしろと圧をかけられているような感覚が生まれる。


 ……上下関係、もっというと、社会のルールに従わなかったら、その分”罰”が来るから、じゃないのか。だから上は調子に乗るし、下は上の奴らの靴をなめるしかない。

 実際、上司を殴った俺はこれから警察沙汰になるかもしれないし、暴行だか傷害だかで書類送検されるかもしれない。そういうのを避けるために、人は「ルールに従う」ほうを選ぶんだろう、たぶん。


 内心でそう並べたところで、すぐさま返ってきた。


「はっ、ルールって。なんだ、部下をいびって不当に扱うのが、それをやり返さずに負け犬みたいに耐え続けるのが“社会のルール”なのか?そのルールに反すれば罰がくると?」


 俺の口元が、勝手にわずかに歪む。笑っているのか、馬鹿にしているのか、自分ではない誰かが表情筋を動かしている気配だけが伝わってくる。


「そんなルールあるわけないだろ。それがあるのは、お前の頭の中だ」


 ぐっと喉の奥が詰まる。言い返したい言葉はいくつも浮かぶのに、声帯の主導権がこちらに戻ってこない。


 エレベーター到着を告げる電子音が鳴り、目の前の扉が左右に割れた。

中はいつもの銀色の箱だ。俺の身体は一歩踏み出し、そのまま中に入る。背後で扉が閉まる音が響く。


 ……俺の頭の中にだけにあるんじゃない。これは目には見えない社会の構造で、皆の頭に”そういうルール”はあるんだ。それが上司や部下、警察と容疑者っていうように社会の実態を形作ってるわけで。間違ってるのはお前だ。確かに”そういうルール”はある。


 それに、お前は立場を”クソ”と言ったが、世の中は立場の上下があるから成り立っている節はある。

 立場の上下、雇う側と雇われる側、指示する側と指示される側。それがあるから、誰もが本当はやりたがらない仕事を他人にさせることができるんだ。


 罰を受けるから皆が皆従ってるわけじゃない。社会にとって”そういうルール”は”必要”だから、甘んじて従ってるんだよ。

 まぁ、その”ルール”もたった今お前が破ったわけだがな。どうしてくれるんだよ。


 ようやく、心の中でだけ反論を組み立てる。声に出すことはできないが、自分なりの理屈を頭の中に並べておかないと、気が狂いそうだった。


 チン、と音が鳴り、扉が開く。

 フロアのホールに、昼の光が入り込んでいた。大きなガラス窓から差し込む外光と、天井の照明が混ざり合い、白っぽい明るさがロビー全体を満たしている。

相変わらず俺の意思とは反して身体が出口に向かって前へ進む。


 数人の社員が俺の横を通り過ぎていく。誰もこちらをじっと見ることはなく、それぞれ手元のスマホや資料に視線を落としながら歩いている。


「負け犬根性甚だしいな」


 沈黙の中でまた口が勝手に動いた。軽く吐き捨てるような言い方だった。


「じゃあ聞くが、お前が働いてる会社はどんな会社だ。どんなふうに社会を"回して"んだ?」


 自動ドアの前まで進むと、センサーが反応し、ガラスの扉が左右に開いた。

 外へ一歩踏み出した瞬間、日差しが一気に視界に入り込んでくる。さっきまで室内の白い光に慣れていた目には、それがやけに眩しく感じられた。ビルの谷間から降りてくる光が、歩道のタイルと、行き交う人間の頭や肩を斜めに照らしている。


 車の走行音、信号の変わる音、人の話し声、遠くで鳴る工事の機械音。色んな音が混ざって、ひとつの「喧騒」として耳に入り込んでくる。スーツ姿の男、買い物袋を提げた女、リュックを背負った学生らしき若者、配達の自転車。

 平日のこんな時間にどこへ向かっているのか、何を考えているのか、よく分からない連中。ただ、それぞれがそれぞれの事情と都合を抱えたまま、この歩道の上を進んでいる。


 頭の中で自社のロゴとオフィスの光景が浮かぶ。

 ――有名な広告代理店。


 思い起こす。テレビでもネットでもそこそこ名前を見かける会社。いろんな広告を出す。扱う商品の種類は数えきれない。

 最近だと、アニメキャラとコラボした飲食チェーンのキャンペーン。安さを売りにした大手アパレルのブランド。蛇の皮を使った高級バッグのブランド。それから、駅やネットでよく見る整形美容外科の広告。


 そこまで思い浮かべたところで、また口が勝手に動いた。


「その飲食チェーンは、調達先の農場が衛生・倫理規定を大幅に無視したやり方で家畜を扱ってるって問題になったな」


 足は止まらない。信号に合わせて人の流れが横断歩道へなだれ込んでいくのに合わせて、俺の身体も自然と歩道を直進していく。

 アスファルトからの照り返しがスーツの布越しに伝わってくる。


「社会問題にもなって、ニュースで散々叩かれた。けど結局、“経済成長のため”とかなんとかで、世論と政権の方針がかみ合って、法規制の緩和って形で落ち着いた。そんで、そのアニメコラボのポップな広告はさぞチェーンの売上を伸ばしたことだろうよ。」


 頭の中で、当時のワイドショーのテロップやネット記事のサムネイルがぼんやり再生される。自分の会社が作った、あの明るいコラボCMもセットで思い出されてしまう。


「で、お前んとこが組んでたあのアニメ。制作会社の現場は過重労働でスタッフが過労死した。原作の出版社も、パワハラと職場内不倫で揉めたな。結局は、パワハラを受けた側と、昇進を条件に“そういうこと”をした女社員だけが、『自主退職』って形で”和解”した」


 信号が赤に変わり、人の塊が止まる。俺の身体もそれに合わせて立ち止まるが、首も目線も俺の思う通りには動かない。視界の下のほうで、横一列に並んだ靴とアスファルトのひび割れだけが見えている。


「安い大手チェーンは、不当に厳しい職場内規律と長時間労働。原材料の輸入元が強制労働に関わってるって知りながら取引を続けてたのがバレた。ニュースになったよな」


 頭の中に「海外工場の実態」みたいな特集の映像が浮かぶ。薄暗い工場、同じ動きを延々繰り返す人たち。その画面の脇に、自分の会社が作ったカラフルなセール告知のポスターが一瞬重なる。


「他には、国産衣類製造の過程で外国人労働者を寮に閉じ込めて、外出制限かけたうえで最低賃金以下で働かせてた。管理者がその中で強制わいせつやって問題になった」


 ちょうど横を、外国人観光客らしいグループが笑いながら通り過ぎていく。肩が少し触れた感触があったが、俺の身体は振り向きもしない。


「で、限界が来て脱走した奴が、行き着いた"居場所"で犯罪起こしたら、“危ない移民”の完成だ。そういうラベルを貼るネットニュースがSNSに散々流布された」


 歩行者信号が青に変わり、また足が勝手に前へ出る。横断歩道を渡りながら、車道を走るトラックの荷台に、自社が担当した別商品のロゴが貼られているのが見えた。


「蛇の皮のブランドバッグ。客に提供される価格と、実際に現地で皮を採ってる連中の賃金の差、想像つくか?利益の大半を、現地の中間企業と、お前らみたいな企業が持っていく」


 アスファルトの上に落ちた自分の影が、ビルの影と混ざりながら伸びていく。


 「高い給料もらってる”お前ら”は、蛇を飼育したり皮を剥いだりしてる現地の人間と比べて、その分“過酷な環境で働いてる”と本気で思ってんのかよ。」


 喉の奥のどこかが、きゅっと縮む。

 そこは物価がまず違うだろ、それに自分がそこまで高給取りなわけではない。

 もちろん、そこに乗っかっている構造からは、俺の意思だけでは逃げられない。

 

 でも何より......”そんなこと俺に言われても”、困るんだよ。

 急にどうしちまったんだよ、俺は。


 「整形美容外科は……もういい。だいたい想像つくだろ」


 そこで一度、言葉が途切れる。

 視界の端に映る駅前の大きなスクリーンには、ちょうど「理想の鼻に」「新しい自分に」といったテロップが大きく映し出されていた。モデルの笑顔と、その横に小さく並ぶ“ビフォーアフター”の写真。俺は、その画面を見上げることすらできない。


 「まぁせいぜい、“芸能人と同じ鼻が手に入る”って煽って、高額なローン組ませてやればいいんじゃないか?その客がどうやって金を用意するのかなんて、お前らは興味ないんだろうがな」


 言葉のひとつひとつが、体の内側に沈んでいく。胸の奥に小さな塊がいくつも重なっていくような感覚がある。

 それでも、心の中では別の声が出てくる。


 ――そうだとしても、俺は、"俺達"はその社会の恩恵を受けてる。

 いま、こうして都心で働いて、コンビニで何でも買えて、エアコンの効いたオフィスで仕事して、スマホいじって。そういう生活そのものは、必ずどこかの“副産物”の上に成り立っている。


 今さら「良いやつ」ぶったところで、何になるんだよ。

 この現代的で、便利で、そこそこ豊かな生活を送れているのは、その影にある悲劇が“コスト”としてどこかで支払われているからかもしれない。でも、じゃあそれを全部やめて、昔みたいな暮らしに戻るのか、と言われたら、そんなことは現実的じゃない。

 今さら戻れないだろ。


 それに、不満垂れたって世の中はどうせ「変わらない」んだから、大人しくその社会の中で我慢して生きていくしかない。


 「へぇ、どうせ“変わらない”、ねぇ」


 そう結論づけたところで、またあの声が割り込んできた。


 「じゃあなんだ。俺が何もしなかったら、お前はこの先、定年までずっとあの“いやがらせ”を受け続けるつもりだったのか?"お前なんか"が、ずっと耐えられるとでも思ってたのか?」


 それは――。


 ……それは、わからないだろ。

 いつか認められて、扱いが少しはマシになるかもしれない。

 誰かが見ていて、「あれはやりすぎだ」と声を上げてくれるかもしれない。

 そういう「いつか」が、どこかにあるかもしれない。

 そう思って、今までも我慢してきたんじゃないか。


 「ほら、お前だって変えたいと思ってんじゃねぇか」


 声は、俺の心の中を覗き込んでいるみたいに、当然のこととして言う。


 ……そりゃ、変えたいよ。

 あの上司の態度も、仕事の振られ方も、自分のミスの多さも、全部ひっくるめて変わってほしいと思ってる。


 ただ――。


 ただ俺の力じゃ変えられないってだけで。


 「俺は変えてやったぜ?お前の状況を」


 胸の奥が、ひやっと冷える。


 ……悪化の間違いだろ。

 前よりよっぽどひどくなってるよ。

 この先、前科持ちになったら、どうやって再就職すればいいんだ。面接のたびに、あの日のことを説明しなきゃいけないのか。説明したところで、採ってくれる会社なんてどれだけあるんだ。


 それに、あれは何より"やりすぎだ"

 ......確かに、腕の感触で、確かに当たりどころは考えられていた。

 昔ボクシングをやったことあるから分かる。あの調子じゃ、多少脳震盪があって気を失っただけで、後から多少痣がでる程度のものだろう。

 だが、だとしても、"人を殴っていい理由があっていいはずがない"


 焦りだけが、頭の中で渦を巻く。


「......薬飲むほど嫌がらせを受けてたのに、なんで数ヶ月すりゃ痕も残らない他人の怪我の心配してんだよ」


 呆れたような口調とともに、深い溜め息が口から吐き出される。

 一通り息が吐き出されると、次は浅く素早く息を吸う。

 そして、打って変わって晴れやかな口調で――


 「安心しろ。変わったのは状況だけじゃない」


 は? 何言って――。


 「もう、お前は“俺”じゃないんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、足裏に伝わっていたアスファルトの感触が、少し遠のいた気がした。

 さっきまで肌を刺していた日差しの熱も、ワイシャツの中の汗の張りつきも、輪郭が曖昧になっていく。


 自分のまぶたの動きが分からなくなる。

 瞬きをしているのかどうかが判断できなくなってきた

 ぼやけ始める視界に加え、「目を閉じる」「開ける」というの手応えも徐々に消える。

 指先の感触も急速に消滅していく。ポケットに入れているはずの手の感覚が、布越しの温度のようにしか認識できなくなる。

 耳も、徐々に厚い布越しに音を聞いているような遠さになっていく。車の走行音も、人の話し声も、意味を持った音ではなく、「何かが鳴っている」という情報だけに薄まっていく。

 

 身体が、五感が、俺の意識から離れていく。

 俺という存在が、急速に世界から離れていくような感覚。

 しかし、それでも、頭の中だけはまだ、なんとかはっきりしている。


 ――バカが。そんなの、うまくいくわけないだろ。


 言葉にならない声を、必死に内側で組み立てる。


 さっきから大人しく聞いてりゃ調子に乗りやがって。何だよお前は。急に”社会正義”に目覚めたってか?

 上司を殴った次は爆弾抱えて国会議事堂にでもとつる気か?


 ――"キチガイ"が


 お前はこれから、実際は社会の下層で辛酸を嘗めて、夢だけはデカい、だが苦しい生活を送る。

 今後お前の口から出てくる「後悔していない」なんて言葉は、どうせ自分をだますための自己暗示にすぎない。


 “俺”は、”お前”は、現実を受け入れて、変わるのを待ちながら、その中で最善を尽くすべきなんだ。

 それが一番、まともで、安全、で――。

 ……ま、だ……。


 言葉の列が途切れたところで、視界の枠がすうっと狭まっていく。

 輪郭のあいまいな白い光と、人の影と、建物の線だけが残り、やがてそれすらも薄い靄の向こう側に押しやられる。


 意識がぷつりと切れた。



 さっきまで歩いていたオフィス街の延長線上。

だが、道幅が広くなり、交差点の向こうまで見通せる。


 周囲は高いビルに囲まれており、そのガラス張りの壁が空を細く切り取っているのに、その隙間からこぼれる太陽の光は、アスファルトと歩道をしっかり照らしていた。

 ビルの影と日なたの境目が、足元をはっきり分けている。

片足が影の中、もう片足が日なたに出ているのを、靴越しに感じる。日なた側の足先だけ、じんわりと熱を帯びていく。


 頭上を見上げる。ガラスとコンクリートが積み重なった壁面が、いくつもそびえ立っている。そのどれもが、同じ方向から光を浴び、同じように影を落としていた。


 胸の内側に、もう重さはない。

 呼吸は深く、空気が肺の奥まで素直に入り込んでくる。

さっきまでまとわりついていたはずの汗も、今はただ、風に冷やされている表面の感覚としてしか残っていなかった。


 俺は、空を一度だけ見上げてから、前を向き直る。


 「最っ高にいい気分だ!」

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