(9)ヤングフォレスト博士
二一〇八年現在の旧オーストラリア大陸は、大崩壊以降に世界で国家の統廃合が行われたのち、SPF=南パシフィック連邦オーストラリアと改められた。キャンベラやシドニー、メルボルンといった大都市は第三次、第四次の世界戦争による被害で機能を失ってしまったため、首都は新たに北部のダーウィンが選定され、軍事拠点も戦後に建設されたダーウィン旧オーストラリア海軍基地が、そのままSPF海軍基地となる。SPF軍事力の主力は海軍であり、ニュージーランド、パプアニューギニア、インドネシア、フィリピン、シンガポール、台湾、旧ジャパンの残存地域などの、SPF領を包括する軍事力の事実上の拠点となっていた。
ダーウィンから南下したリッチフィールド旧国立公園のはずれ、辺ぴな山あいの土地に、SPF科学技術研究本部がある。何もない土地を川沿いに進んでいくと突然、木々のあいだに丸みをおびた、真っ白で現代的な背の低いビルディングが現れる。
名目上は連邦政府の管理下に置かれているが、事実上は軍直属の施設であり、ここでは大崩壊後に大幅に縮小せざるを得なかった、軍事力を補強するための技術開発が行われていた。ここで試験された技術をもとに、さらに南部の秘密工廠で実際に兵器の試作が行われる。
その施設にあって、軍の関係者がその秘密主義に眉をしかめ、煙たがられるセクターがあった。それが「計算科学研究部門」、通称「ラボ」と呼ばれる部門である。通常兵器の開発を担う他の部門もラボには違いないのだが、この施設においてラボと呼ばれて真っ先に認識されるのが、この部門だった。
「ウィルソンの無能め。奴が死ぬのはどうでもいいが、貴重なサンプルが失われた」
やや癖のある長い白髪を後ろで結った、痩せた壮年の白衣の男が、忌々しげに丸い眼鏡を直した。彼はライト・ヤングフォレスト博士といい、五〇歳を迎えていたことを部下に言われてようやく気がついた、という科学者だった。
「矯正施設島P7収容者、管理番号331は間違いなく死んだのか!?」
扇形の、傾斜がない講堂といった趣きのコンピュータールームに、甲高い声が響いた。博士をのぞいて一三名のラボ所員達はほぼ何の反応も示さないように見えたが、ディスプレイに向かってフィジカル・キーボードを叩いていた二〇代の金髪の女が、首と目をそれぞれ三〇度ずつ右に向けて、ひとことだけ述べた。
「海に飛び込んで自殺したという報告です」
「死体は!?」
「現在捜索中ですが、上がっていません。今ごろ汚染サメの胃袋の中かも」
「ふん!」
ヤングフォレスト博士は腹いせに手近な椅子を蹴飛ばすと、右の向こうずねをしたたかに打って叫び回った。
「くそっ! 他の収容者達はどうなってる?」
脛を押さえながら怒鳴ると、緑がかった髪の、東南アジア系で背の高い若者が答えた。
「本国から救援隊が到着した時点で、管理ナンバー331をのぞく全員と、軍属人員全員が地下シェルターに避難完了していました。死亡ならびに行方不明はナンバー331と、艦艇で脱出を試みて津波に飲まれた海軍人員のみです」
「怪しい」
ヤングフォレストはルーム奥にある巨大スクリーンに、P7島のマップを表示すると、殴りかからんとでもいうような勢いで近寄った。
「島のどこかに潜んでいるのではないか?」
「そちらも捜索中ですが、発見の報告はありません。チップの反応もないので……」
「チップの微弱なGPS反応は、地下や水中に潜ればすぐに消失する!」
博士は、やや旧式のスクリーンをバンと叩いた。
「奴は何らかの手段で潜伏もしくは、逃亡している可能性がある! 奴を担当していた少尉のレポートによれば、異様に勘が鋭いという話だからな。それは、あの説を裏付けるデータでもある」
声をひそめ始めた博士に、それまで黙っていた他の面々が興味深げな視線を向けた。汚染の影響で、生まれつき首から上に一本も毛がない大柄な若者が、化学合成紅茶をひと口飲んで訊ねた。
「『ACSR仮説』ですか」
「そうだ」
「つまり、331は津波の到達を予測して、そのタイミングで自分だけ姿をくらましたと?」
「驚くには当たらん」
博士は、スクリーン前面に管理ナンバー331、エリコ・シュレーディンガーの脳スキャン結果の、三次元モデルを浮かび上がらせた。
「見ろ、この脳梁を。これほどまでに面積の大きな脳梁は無意味だ。通常の脳活動においてはな」
脳梁とは、右脳と左脳の間にあって、両者のはたらきを統合するための器官である。エリコの脳梁は側面から見ると、通常の人間より三六パーセントも面積が大きいことが、二度の脳スキャンによって確認された。
「さらに第三、第四脳室の容積も、通常では見られないものだ」
「逆に欠落した部位などは?」
「ない」
博士は簡潔に言った。
「かつて、かのアインシュタインの脳が検査にかけられ、前頭葉下前頭回の頭弁蓋、外側溝などの欠落が見られたという。その欠落が信号伝達に寄与した、という説もあるが、あの研究についてはサンプルそのものの保存が不完全だ、という問題がある」
「アインシュタインの脳は参考にはならない?」
「というより、このナンバー331の脳の方が千倍もミステリーだ。構造より、脳波の測定結果に、およそ通常では理解できない現象が見られる」
博士は、エリコの脳波測定データを表示させた。その結果はラボの全員がすでに知っている事ではあったが、改めてその数値をスクリーンから突きつけられると、常識が揺らぐ音が聞こえるような気がした。
「ベータ波二五から三九ヘルツ、アルファ波一六ヘルツから二二ヘルツ、シータ波八ヘルツから十二ヘルツ、デルタ波三ヘルツから七ヘルツ。通常の人間の倍ですね」
「測定ミスの可能性は?」
黙っていた、背の低いボブカットの金髪の女性所員が訊ねる。博士は首を横に振った。
「私もそう思って再検査させたのだ。結果は同じだった。だが、真に異常なのはもうひとつのデータだ」
博士は、スクリーン右下に『不明』と注釈がついたデータを示した。それは、エリコの脳波に断続的に、四三〇から四四八ヘルツ、そして二一五六から二一六四ヘルツという、どう考えても通常の脳からは測定し得ない波長が、混在していることを示すものだった。
「四四〇ヘルツ前後の音波が、脳に影響を与えるという研究は百数十年以上前から行われてきた。だが、その波長を脳そのものが発する、などという例はない」
「まして、二一六〇ヘルツ前後の波長なんて……」
「そうだ。通常の人間ではあり得ない」
そこで、スキンヘッドの所員が核心をつく質問をした。
「つまり、その異常な脳波が『ACSリッピング理論』に関わるものだと?」
「それはまだわからん」
あっさりと、博士は自らの説の不完全性を認めた。
「だが、異様に直感が発達した人間の報告はいくつもある。たとえば、遠隔地からあまりにも詳細に殺人事件の犯行を解明してみせ、犯人ではないかと取り調べを受けた中年の女、だとかだ」
「ある種の透視……サイコメトリーなどというやつですか」
「俗っぽく言うならな。だが、まだ解明されていない現象について、結論を出すわけにはいかん」
ヤングフォレスト博士はマッドサイエンティスト的に思われがちな人物で、事実そのとおりの側面も持っていたが、その評価の何割かは表面的な性格によるものでもあった。研究に関しては、執拗ではあっても決して結論を急がず、逆にそのスローな執念深さが不気味だという声もあり、またその極端な秘密主義は実体のウイルスとなってラボの全員に感染している、との噂も軍内部からは半ば冗談、もう半分は真実味さえ伴って聞こえてくる。
博士は、スクリーンの情報を切り替えた。無数の銀河が、立体的にルーム内に浮かび上がる。
「故人だが私の知己で、占星術には科学的根拠がある、と主張していた男がいる。世界がもともとひとつの塊からバラバラにはじけて出来上がったというのなら、どれほど個別的な事象であろうと、その出来事の帰結はおおよそのパターンで予測できる、というものだ。ACSリッピング理論とは理論の展開が異なるが、方向性としてはそう遠くない」
「つまり、未来予知ですか」
「違う」
ヤングフォレスト博士は、頭上に浮かぶ銀河の渦巻きを指でつまんで、狂気の混じった笑みを浮かべた。
「切り取って皿に載せるのだよ! 我々が『時間』と呼ぶ、本当は存在しない、虚構のドーナツの断面をな」
博士はスクリーン下のコンソールパネルを操作すると、ひとつのオペレーティング・システムを起動した。
「軍の馬鹿どもは、私に先んじてあのサンプルを確保しようとしている。戦争屋どもに、あの脳の真の価値などわかるはずがない。私が手にしなくてはならないのだ!」
スクリーンに表示されたウインドウにひとつの機体のコンディションが表示されると、黒いボブカットの女性所員が立ち上がった。
「博士、待ってください。『サツキ』を起動するつもりですか」
「無論だ」
「危険です」
ボブカットの女性アキコは、断固として博士の行動を止めようと声を張り上げた。だが、博士は少しも怯む様子はなく、それどころか愉しんでいるようにさえ思えた。
「こういう時のために産まれたのだ。ただ眠っているより、よほど有意義だろう」
博士がコンソールを操作すると、ほどなくして画面上に、音声波形モニターが表示された。
「起動 開始し ます アドミニスト レーターの網 膜認証を 行なってく ださい」
機械的な、たどたどしい女性のような人工音声が流れると、博士はパネルから立ち上がった網膜スキャナーに、自身の瞳を読み取らせた。
「認証成 功 ヤングフォレスト博 士 おは ようございます」
「サツキ、コンディションはどうだね」
博士が話しかけると、サツキ、と呼ばれた何者かは、突然スイッチが入ったように流暢に話し始めた。
「良好です。ご命令をどうぞ」
その、聴き惚れてしまうような淀みなく美しい声に、ラボの所員達は黙ってしまった。博士はパネルを操作すると、サツキと呼ばれた何者かに、エリコ・シュレーディンガーのデータを送信した。
「この人間を探し出して確保しろ。かならず生かした状態でだ。死体で見つかった場合、死後一三時間以上が経過していたら、回収の必要はない。消費期限の過ぎた脳に価値はないからな。邪魔が入ったら、民間人だろうが政治家だろうが軍人だろうが殺して構わん。証拠は残すな」
「了解しました、マイマスター」
サツキは恭しく答えると、一方的に通信を切ってしまった。コンピュータールームに一瞬の沈黙が訪れると、博士はケタケタと笑い始めた。
「さあ、我が娘よ、あの少年を連れてくるがいい!『はじめてのおつかい』だ!」