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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第二部
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(8)世界と少年

 二一〇八年現在、大崩壊以前に地球上に存在した大国と呼ばれた国家で、かつての人口、経済力、技術力、生産力、軍事力を保持している国家は存在しない。宇宙開発はとっくの昔に世界規模で頓挫し、再開のめどは立っていなかった。

 二〇世紀後半に空前の経済大国として栄華を誇り、その後政治腐敗と経済政策の失敗で没落した極東の島国JAPANは、比較的南方の土地や島がいくつか残っただけで、国家としては完全に消滅し、民族としても過去の存在になりつつある。現在はエリコが属する南パシフィック連邦の一地方として、合計で六万ほどの人口が細々と生存するのみである。 また、二一世紀後半時点で世界経済の中心だったアメリカ合衆国は、大崩壊後に貧困層による内乱が発生し、国としての統治体制は崩壊した。現在はかつての州がそれぞれ、事実上の独立国家のようになっている。そのため、州どうしの紛争が起きる事態にもなっていた。

 中国とロシアは汚染と破壊により居住可能な土地が減少、人口と経済規模も縮小してしまったが、こちらも内乱というより、災害に乗じたクーデターにより、かつての支配層は歴史の片隅に追いやられるという結果を迎えた。


 大国が存在しなくなったことで、世界のパワーバランスは一時期、きわめて不透明な混沌とした状況にあったが、ヨーロッパの国々は比較的そのまま存続しているケースが多かった。とくに二一〇〇年代初頭、イギリスは一時期に数字の上では世界経済のトップに立ち、大英帝国の栄華再び、と揶揄まじりに言われたが、人類文明の活動規模それ自体が近代以降かつてないほど縮小し、「パワーバランス」などという名詞じたいが冗談でしかなくなっている現在、どこがトップだろうと比較する意味はなかった。何十隻かの泥船の群れのなかで、先頭に躍り出た船がどれか、沈むのが一番遅い船はどれか、というようなものである。


 ……と、世界はかくも混迷の様相を呈している一方で、もっとスケールの小さな問題に直面している一五歳の少年がいた。

「ほら、降りなさいよ。二日ぶりの陸地だよ!」

 キャノピーの開いたホバーバイクの外から、リネットは金髪を陽光に煌めかせて、後部座席のエリコに呼びかけた。だが、エリコは頑なに座席を立とうとしない。よく見ると顔が赤かった。

「どうしたの?体調でも悪い?」

 コクピット内を心配そうにリネットは覗き込んで、エリコの額に手を当てた。なにしろ一日以上、正確には三〇時間近く、狭いホバーバイクでずっと海を渡ってきたのだ。鍛えているリネットはともかく、エリコが体調を崩している可能性は高かった。

 熱はない。だが、リネットはエリコの両手の位置で、事態をすぐに理解すると、柔らかな笑顔を見せた。

「私、この島がどんな感じか見てくるから、ホバーバイクに異常がないか見ててくれる?基本は教えたから、わかるよね」

 そう言うとリネットは、キラキラ光る浜辺を歩き去ってしまった。残されたエリコは、両手を股間から離すと、リネットがいなくなったのを確認して、前かがみの体勢でホバーから降りた。


 要するにエリコはホバーバイクに搭乗中、「男性特有の器官」の反応が収まらなくなってしまい、リネットの前で立ち上がる事ができなかったのだ。三〇時間、わずかな呼吸も聴こえるような狭いコクピットに、大人の女性と一緒にいて、想像力ゆたかな思春期半ばの少年が、あらぬ夢想を抱いたとしても驚くにはあたらない。

 むしろ何の反応も見せない方が異常だと、やがて戻ってきたリネットは、平静を取り戻したエリコに言った。ふたりは一日ぶりの地面に胡座をかいて、若干の距離を置いて携行食糧をかじっていた。

「私はこれでも軍人。たぶん登録抹消になっただろうけど。一五歳の男の子の、生理的な反応なんかに驚いていたら、軍人なんか務まらない」

 それは思春期の少年にとって、夢を奪う言葉だっただろうか。だが、いくらかリネットに対して、気持ちを鎮める作用はあった。あるいはそれを見越して、あえて冷めた言い方をしたのかも知れない。エリコには、今のリネットは軍人というより、泌尿器科か何かの医師に見えていた。

「それにね、エリコ。まあ、そういう方面の話っていうのはしづらいけど。いまの時代、健康な身体を持っているっていうのは、貴重なことだよ」

 リネットのその一言が、この時代に生きるエリコには、嫌というほど重くのしかかってきた。


 現在の地球上において、汚染されていない水や空気、土壌をもとめる事は容易ではない。都市にいれば浄化システムを通った安全な水も得られるが、インフラが発達していない、あるいは破壊されたまま復旧していないような地域では、嫌でも汚染された水で生活せざるを得ない。

 その結果、かつては燃料採掘地の住人に見られたような身体の欠損や奇形などの例が、旧先進国でも著しく増加する事になる。あるいは外見的な異常がなくとも、白血病などで永く生きられず、人口そのものが急激に減少している地域もある。

「私もあなたも、幸い健康な身体を持っているけれど。たとえば子供が生まれたとして」

 そこでエリコが突然ぎょっとした目を向けてきたので、リネットは「たとえばよ」と強めに言い含めた。

「生まれてきた子供の遺伝情報に、何らかの欠落や異常が、絶対にないとは言い切れない。健常者どうしの間に生まれた子供が、健常であるとは限らない。それが多くの人に起こり得る状況を、人類は自ら生み出してしまった、ということよ」

「まるで僕みたいな口調だ」

 黙っていたエリコが、ようやくいつもの皮肉な笑みをのぞかせた。

「そうね。あなたの書く冗長で難解で厭世的なレポートに、一年も付き合わされてきたんだもの。厭世ウイルスに感染してない、とは言い切れないわ」

 うんざりするように笑いながら、リネットは背筋を伸ばした。小さくない胸の張り出しに、横から一瞬向けられた視線にリネットは知らないフリをした。

「まあ、誰でもわかっている事だけどね。人間は、見たくない現実から目をそらそうとするけれど、現実として汚染は進んでいる。それは、残念だけどあなたがレポートで繰り返していたとおり。汚染源が、どこの海の底にいくつ散らばっているかもわからないし、回収する方法もわからない」

 リネットは、厭世家でなくとも認めざるをえない現実を、噛み締めるように言った。ひょっとしたら、自分たちが生きている間だけは、どうにか生存できる環境が残っているかも知れないが、あるいは明日にも再び激変が起こるかも知れない。


「さて、気が滅入る話はこの辺にしましょうか、天才厭世家さん。この島はどこいらへんなのか、あなたならわかる?」

 リネットは改めて、浜辺と小高い岩山と、わずかに茂る草だけの島を見回した。エリコは、立ち上がって海を見渡す。見晴るかす水平線には、島の影も見えない。この孤島にたどり着いたのも、奇跡に思える。

 ホバーバイクのGPSを使えば一発なのだが、エリコ達にはそれが使えない事情がある。このホバーは南パシフィック連邦軍の所有であり、いまオフにしているGPSをオンにしてネットワークにアクセスした瞬間、機体の識別番号が本国のセンターに割れるのだ。エリコが収容されていた島に配備されているホバーバイクが、単独で島を遠く離れた海域にいると知れたら、すぐに最寄りの軍の基地から哨戒機が飛んでくる。

 やむなくエリコは「生身のGPS」として、移動中に夜空に見えた天体の運行情報と、自身の知識と、多少の勘と希望的観測を総動員して結論を出した。

「南に行けば西パプアに辿り着く」

「ほんとう!?」

 リネットの目が輝いた。だが、エリコは腕組みして唸っている。

「うん。けど、だからといって安心できるとは限らない。先生……じゃない、リネット。このホバーバイクは水深八メートルまで潜れるって言ったよね」

「ええ」

「浅瀬に潜った状態で、ひと晩やり過ごす事はできる?」

 その質問にリネットはまさか、と思いつつ答えた。

「まあ、せいぜい三、四メートルくらいなら何ともないでしょうけど」

「食糧はあとどれくらいある?」

 その質問で、リネットもエリコの言わんとするところを理解した。

「まさか、この小島に留まるつもり?」

「そう。といっても、せいぜい二日くらいだろうけど」

「西パプアに渡ればいいじゃない。あそこなら、物資の補給もできる。治安もましな方だし、比較的、汚染も少ない地域のはずよ」

「リネット、パプアニューギニアにはSPF(South Pacific Federal=南パシフィック連邦)軍の基地があるはずだ。西パプアはどうなの?」

「あ」

 それは、もとSPF軍の少尉だったリネットが、先に気付いていなければならないデータだった。リネットは、携行食糧をかじりながら、小枝で砂浜に大雑把な海域マップを書いた。

「西パプアにも海軍の物資搬入出センターがある。規模は小さいけど、駐留軍もいる」

「じゃあ、ここ……フィリピンには?」

「パプアほどではないけど、基地はあるわね。どっちにしても、少なくとも私達がいた矯正センター島の駐留部隊より、はるかに兵力は大きい」

 大崩壊以前の旧時代の基地は、ほぼそのままSPF軍基地に転用されている。とくにパプアからフィリピン、インドネシアあたりの一帯は、SPF軍の縄張りである。エリコは渋い顔をした。

「矯正センター島にはすでに、本国の旧オーストラリアから救援と調査隊が到着しているはずだ。ひょっとしたら地下シェルターに避難した収容者の中に、僕の姿がない事を不審に思う者もいるかも知れない。そうなると、周辺海域に軍が網を張る可能性もある」

「そのための、死亡の偽装工作なんでしょう?」

「あれは津波に合わせて姿をくらまして、脱出の隙を作れれば良かったんだ。切羽詰まっていたし、その後の事を考える余裕はなかった。僕の死体を確認できていない限り、いずれ僕を追って軍は動く。地下シェルターにのほほんと避難していれば、今頃僕は本国に送られて、脳みそをほじくり出されていただろうね」

 エリコはこめかみの辺りを、皮肉な笑みを浮かべて指さした。

「じゃあ、どうやって乗り切るの? というよりエリコ、あなたは西の大陸を目指すって言ったわね。最終的には、どこに向かうつもりなの」

 

 エリコが説明する亡命先の条件は、以下のようなものだった。異常才覚者矯正法が及ばない、できれば今後も批准するおそれのない国であること。中東周辺やアフリカは現代でも宗教色が濃く、新しい法に批准している国が極めて少ない。これはむろん、エリコ自身の危険を遠ざけるためである。

 そして資源がない事は、政情不安の要素を排するためだった。資源がある国は、それを巡って政情が不安定になりやすい。「どこかの厭世家」に言わせると、大国は資源が眠る土地には正義の旗を掲げて乗り込むが、資源がない国で戦争が起こっても決して軍隊は送らない。遺憾の意を示して雀の涙ほどの武器を恵むだけ、あるいは兵器の在庫処分の捌け口にし、表向きには行かない理由を滔々と述べるだけだという。そして、資源がなくとも交易の要衝となる地域は、いつの時代にも必ずある。

「そういう場所なら日銭を稼げる仕事口もあるだろうし、情報も世界中から集まってくる。何より、胡散臭い奴らがたくさんいるから、僕らがスパイみたいな事をしていても、利害関係がない限り互いを詮索される事はない。シティでもそういう連中との取り引きの方が、むしろやり易かった」

「……エリコ、あなた矯正センターに来る前、いったいどういう生活をしていたの」


 エリコはシティはずれの孤児院にいたのだが、金を得るためにこっそり「探偵じみた」稼業をしていたという。一番頼りにされたのは人捜しで、エリコの知略をもってすれば、およそ捜し出せない人間はいなかった。捜し出した人間の情報を売るだけで、そこそこの金が得られた。

「……参考までに訊くけど、どういう種類の人を捜していたの」

 リネットは、怪訝そうにエリコを睨む。訊ねられた当人は平然としたものである。

「まあ具体的には言えないけど、要するに胡散臭い人間の居所だとか名前、あるいは交わされた契約や商品の取引の情報を、高そうなスーツの怖いお兄さんとかおじさんに売ってた、ってことさ」

「それは探偵じゃなく情報屋っていうのよ!」

 目を丸くして、リネットはエリコに突っかかった。その剣幕が可笑しく、エリコは腹を抱えて笑った。

「まあ、そういうことだね。けっこう儲かったんだよ」

「いくら稼いだの」

「さあ。いくら貯まってたかなんて、覚えてないな。ちなみに貯まったお金は、矯正センターに送られる前に、その在り処を僕がいた孤児院のシスターに、匿名で伝えておいた。戻れる保証もなかったからね」

 これは半分は嘘だった。エリコは、所有していた金額を端数まで正確に覚えている。そして、その端数までの全てを、孤児院に寄付したのだ。それを聞いたリネットは、一瞬呆気に取られたあと、力の抜けた笑みを浮かべた。

「……あなたらしいわね」

「まあ、どこに行くにせよお金の心配はしなくていいよ。このご時世、裏稼業の人間には事欠かないからね。ああ大丈夫、殺しと盗みだけはやらない流儀だから。あと、麻薬関係とかね」

「当たり前でしょ!」

 リネットは脱力してため息を吐くと、そのまま草地に仰向けに寝転んだ。エリコも、ずっとホバーのシートに預けていた全身を、海に浮かぶ頼りない小さな島に委ねる。

 係留したホバーバイクは、超高効率ソーラーパネルを展開してエネルギーを溜め、ついでに海水から真水も精製しておく。ただし一度に精製できる量は生命を維持できる必要最低限のものであり、こんな日が続けば、二人揃って栄養失調か脱水で、仲良く青空の上に召される事になるだろう。波と風の音が逆に静寂を実感させ、計算高い自信家のエリコの胸にも、否応なく不安が押し寄せた。

 それでも暖かな陽光は、疲労しきった二人に短時間ではあるが、穏やかな睡眠を提供した。万が一、SPF軍の捜索の手が及んでいたら、という不安も、睡魔には勝てなかった。

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