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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第一部
6/45

(6)演算装置

 ホバーバイクで、エリコを捜索している兵士や探査機械の目をかいくぐりながら丘の上を目指すのは、至難の業だった。木々の間は当然スピードを出せないし、視界も悪いので位置が把握しづらい。

 だが、リネットは走っているうちに、奇妙なことに気がついた。誰が入り込んでいる筈もないような茂みの草が、ところどころホバーが通れる程度に刈られているのだ。そこでリネットは何か勘付いて、試みにその刈られた部分を辿ってみた。

 結果は正解だった。それは、木々や茂みを利用してきわめて巧みに追跡者の目を逃れながら、最短で丘の頂上を目指せるルートだったのだ。そんな細かい計算ができる、というよりそんな計算の必要性を考える人間は、リネットには一人しか思い浮かばなかった。


 島中央の丘の頂上にある古代の石組みは、もともと土砂に流されて崩れていた下部構造が先刻の地震で、さらに移動していた。だが、最上部にピラミッド状に組み上げられた柱状玄武岩は、ミリ単位も崩れる様子はなかった。

 斜面に散らばる玄武岩を避けながら、リネットの複座式ホバーが頂上の石組みの手前まで駆け上がった。ホバーの流線型キャノピーが開くと、リネットは叫んだ。

「エリコ!」

 静寂を破られ、驚いたカラスが数羽、遺跡を取り囲む木々から飛び立った。

「いるんでしょ! 応えなさい!」

 甲高いリネットの声は、玄武岩に反射して斜面に響いた。だがどこからも、誰の声も返っては来なかった。

 エリコは、もし津波が来たらこの石組みにしがみつくのが安全だ、と言った。津波の到達を彼が予測しているのなら、ほんとうに津波が来るか来ないかに関わらず、エリコはこの遺跡にいるかも知れない。リネットはそう期待していた。

 だがそうなると、ひとつの疑問が生じる。遺跡まで登る体力と時間的余裕があるなら、センターまで戻った方がよほど楽で、生存確率も高いのではないか。


 遺跡に来て呼びかけても、エリコの返事はない。チップの反応もない。では、エリコはここにはいないのか。だとすれば、あれは偽装工作でも何でもなく、ほんとうに海に飛び込んだのではないか。リネットの脚が力を失い、斜面に情けなく膝をついた。涙も出なかった。何かとてつもない空虚感が、心を覆っていった。

 だが、呆然となったリネットを正気に戻すものがあった。それは遠雷のような、微かで、かつ重い響きだった。いったい何だろうかと、リネットは遺跡の石組みの最上部に登ってみた。

 次の瞬間、リネットは心臓が止まるかと思った。石組みの間にある隙間から伸びてきた腕がリネットの腰を掴み、引き込んだのだ。声も出なかったが、それでもリネットは軍人として、ほとんど反射的にミリタリーナイフを抜いていた。

 だが、その手首を押さえられ、ナイフは石組みの間に落ちて激しい打音を響かせた。

「危ないな」

 その、柔らかくも堂々とした声は、リネットが一番聞きたかった声だった。狭い空間でリネットが振り返ると、そこにあったのは、赤毛の髪をした、エリコの白い顔だった。

「エリコ!」

 涙目になりながら、リネットは抱き着いた。

「何やってるのよ! こんなに、心配させて!」

「ごめん、先生」

 エリコは人差し指を立てて静かにするように言うと、リネットの胸ポケットから通信端末を引き抜いて、電源を切ってしまった。

「何するの」

「これじゃ探知される。僕を狙ってる奴らに」

 その一言で、リネットは何かを理解した。リックマン大佐との一連のやり取りで感じていた、違和感についてだ。

「あなた、いったい何を知っているの」

「その様子じゃ、先生も何か薄々勘付いてる、って顔だね」

 エリコの笑みはいつも通り不敵だったが、今はその笑みの奥底に、真に迫る何かがあった。皮肉ではない、正面から何かを見据える目だ。

「話をする前に、先生。あのホバーをこの石組みの陰に係留して、パワーオフするんだ。急いで」

「何ですって?」

「いいから、早く!」

 急かされると、リネットは言われたとおりにした。何なのよ、とぼやきながらホバーを石組みの陰に移動させると、特殊鋼でできた牽引用ワイヤーを引き出して、玄武岩の柱に確実に固定する。

「これでいいの?」

「GPSも切れるなら切っておいて、念のため。探知される可能性がある」

「もうとっくに切っておいたわよ」

「グッジョブ。テレパシーってやつかな」

「そんなわけないでしょ」

 呆れながらエリコが座り込んでいる狭い空間にまた戻ると、リネットはエリコの左手が、支給されている応急処置用の自己融着医療テープで巻かれている事に気付いた。

「エリコ、その手はどうしたの」

「何でもない」

「見せなさい!」

 リネットはエリコの左手首を掴むと、医療テープを剥ぎ取ってしまった。すると、手の甲から手首にかけて、ひどく血が滲んでいた。

「ケガしたのね。こんな素人の巻き方だと、すぐに化膿してしまう」

 エリコの医療処置にダメ出しをしながら、リネットは軍服から携帯用の応急処置キットを取り出した。そしてそのとき、手の傷の位置が何であるかに気付いたのだった。

「……エリコ、生体チップはどうしたの」

「これのこと?」

 エリコは、足元の玄武岩の上で真っ二つに割られた、血まみれの埋め込みチップを指さした。リネットは手の甲に処置を施しながらも、エリコを問い詰めた。

「あなた、無理やり摘出したの!? 傷口から、汚染物質や病原菌が入ったらどうするの!」

「無理やりでもないよ。だって、このチップは埋め込まれたばかりだもの」

 そこでリネットは、エリコのチップの反応が悪いということで、医師の判断で再埋め込みの施術がされた事を思い出した。だが、なぜ、と言いかけて、リネットは訊ねた。

「……まさか、すぐに取り出せるように、チップ交換を施術するよう仕向けたというの?」

「大した事じゃないさ。僕はたびたび、左手の甲を金属ボックスとか、金属テープで覆ってチップの信号を遮断して、故障の疑いを装っていたんだ」

 案の定、反応がおかしいと管理センターが気付いて、リネットに連絡が行った。レーザーメスで切開したばかりの皮膚はまだ完全に癒合しきっていないため、取り出しは容易だった、とエリコは言う。

「少しばかり出血はしたけど」

「少し、じゃないでしょ!」

 リネットは、わずかに怒りの目をエリコに向けた。

「チップの位置情報を消失させるためだけに、ここまでやったというの」

「チップがあれば、僕の居場所は察知される。僕が海の底に沈んだ可能性をでっち上げるための、小芝居だよ。最低限、ここに来るまでの時間稼ぎだけどね」

 小芝居、という表現に、リネットは深いため息で応えた。小芝居で流血するなど、覚悟がなければ出来ない。つまりエリコは、何らかの覚悟をもってこの行動に打って出た、ということだ。処置が終わったエリコの手を撫でながら、リネットはその目を真っすぐに見た。

「わかった、チップの件はいい。この状況を説明してちょうだい」

 リネットは、石組みから少しだけ頭を出して、遠くに見える水平線を睨んだ。エリコも一緒に顔を出すと、海面にわずかに、横に伸びる白い筋が見えた。

「あれは、まさか」

「そう。津波だよ」

「あなた、本当に津波から避難するために、ここにいたの!?」

 リネットは驚きを隠さない。なぜなら少なくともここまで、全てエリコが立てた予測どおりに、出来事が推移しているからだ。

「なぜ、シェルターに逃げないの? センター地下には避難用シェルターがあること、知ってるでしょう!?」

「シェルターは駄目だ。ここでなければ、ならないんだ」

 断固としてエリコは言った。

「ちなみに、センターの生徒達の事は心配いらない。今頃、避難は完了しているはずだ」

「……どういうこと」

「言った通りだよ。僕は他のグループの奴らに、津波が来る事を伝えておいたんだ。あとは、あいつらなりの方法で、避難を完了させているだろう。何しろこの島は、天才が集まってるんだからね!」

 勝ち誇るようにエリコは笑った。リネットは驚いて訊ねた。

「他のグループに、いつ、どうやって伝えたの?」

「何をそんなに驚くの? 食堂で、口頭で伝えただけだよ。地震の発生パターンから算出した、大地震の発生時期の推定値をね」

「なぜ、それをセンターに伝えなかったの」

 そこまで言って、リネットはハッとして黙り込んだ。そう、当のリネットが、エリコの話を当初は信じなかったからである。エリコは笑って答えた。

「そう。大人は僕らの言う事なんか信じない。言っても信じない人達を、信じさせようと奮闘するのは時間と機会の損失だ。だから、僕は発想を転換した。この津波を、この馬鹿げた幼稚園から脱出するための、戦略兵器として利用しようとね」

「津波がセンターを破壊するタイミングで、脱走しようということ!?」

 リネットが声をあげると、エリコは手で口を塞いだ。

「大きな声を出さないで。警備ロボットが、近くにいないとは限らない。まあ、センターのシステムがダウンしている以上、動いてない可能性もあるけど」

 あらゆる状況をエリコが総合して手のひらに載せているのが、リネットにはわかった。何もかもが計算の上だったのだ。問題発言を繰り返してペナルティを受けたのも、慈善活動という名目で施設の外に出るためだろう。それも、自分が予測した津波のタイミングに合わせてだ。この混乱した状況下では、エリコ捜索に割ける人員も限られてくるので、逃走も潜伏も容易になる。津波が近づけば近づくほど、エリコにとって好都合なのだ。

 エリコの説明に頷きながら、自分は何をしているのだろう、とリネットは改めて思った。今の話を聞いた以上、エリコの管理者としてリネットはエリコを拘束し、上官に報告しなくてはならない。だがそう思った時に、リネットはリックマン大佐の言葉を思い出していた。

「……エリコ・シュレーディンガーの頭を確保しろ」

「え?」

「リックマン大佐はそう言っていた、あなたの頭を確保しろ、と。身柄ではなく」

 リネットからの情報に、エリコは笑い声を出さないように必死になって肩を震わせた。

「くっくっく。僕の頭、か」

「どういう意味なの? あなたはわかるの?」

「ひょっとしたら先生だって、薄々わかってきてるんじゃない?」

 その指摘は、氷のナイフのようにリネットに突き刺さった。おそらくエリコが考えている事と同じ真実に、リネットも到達しているのだ。エリコとリネットを分けているのは、真実が納められたパンドラの箱を開ける勇気だった。


「二〇七一年の大崩壊と、そのあと群発した戦争で、新世代コンピューターの演算ユニットの開発は停滞どころか後退した。後退の四十年、とも言われているね。一八年前、ようやく実用化されたバイオコンピューターは、素粒子コンピューターをも上回る性能を期待されたけれど、実際は一〇から、良くて一五パーセント程度の向上に留まった」

 エリコはごく簡潔に過去六十年、戦争など様々な要因による文明自体の後退期間を差し引くと実質的には三十年にも満たない、コンピューター開発史を説明した。

「科学者たちは気が付いた。菌類を用いた疑似生体脳では、処理能力に限界がある事を。そして、次に実験されたのは動物の脳だった。けれどチンパンジー、イルカ、クジラの脳を素粒子演算ユニットと組み合わせた結果は、菌類より一五パーセント程度の向上は見られたものの、顕著ではなかった。クジラの脳は熱暴走ですぐ腐食した」

 淡々と語るエリコの説明を、リネットは青ざめた表情で黙って聞いていた。

「当然のように、科学者達は次の可能性に至った。霊長類の中で、もっとも複雑で高度な処理能力を持つ種の脳だ」

 エリコは、リネットの表情を確かめるように覗き込んだ。話を聞く勇気はあるか、と。リネットは下唇を噛んで頷いた。

「そう。次に彼らは、人間の脳を素粒子演算ユニットに組み込んだ。試験には、死亡して間もない人間の脳が用いられた。たとえば死刑囚とかね。結果は、試験段階で従来の疑似脳の二倍という処理速度が得られた。百年以上前にも似た実験は行われていたようだけど、当時の脳の接続方式は間違っていた。現代に至ってようやく、完成に近付いたわけだ」

 だが、とエリコは言った。

「研究のすえ、高性能な演算補助装置としては、より若く優秀な脳が必要になる事がわかった。思春期を過ぎて、なおかつより若い、という条件の脳の確保に、科学者や産業界は躍起になった」

 エリコは、説明しながらウンザリしている様子を見せた。リネットは、目をむいて青ざめながら、なんとか話を聞こうと努力していた。

「当然のように、それは倫理問題の論争を引き起こした。まあ、クジラの脳を使うのはOKで人間の脳はNG、というのも人間らしい欺瞞だけど、それはここでは論じない。ここでは僕も含めて、独善的な人間の思考には目を瞑ることにする」

 いかにもエリコらしい皮肉ではあったが、慣れっこのリネットにとっては、それは問題ではなかった。リネットの脳裏に浮かぶのは、別のことだった。

「脳の確保が難しくなり、バイオコンピューター研究は頓挫した。ところがそのすぐ後の二〇九二年、今から一六年前、奇妙な法が世界の主だった国々で、ほぼ同時に施行された。それが、僕をこの島に送り込んだ『異常才覚者矯正法』だ。それについては、先生に説明する必要もないけど」

 リネットは黙り込んだ。エリコは、リネットの表情をちらりと伺いつつ、話を続けた。

「バイオコンピューターは、用いられる頭脳が優秀な個体であるほど性能向上が見込まれることも、動物および人間の脳を試験した結果、判明した。つまり総合すると、同じ人間であっても、より若く、より優秀な頭脳である事がバイオコンピューターには望ましい、ということだ」

 リネットが唾を飲み込む音が聞こえた。エリコは一瞬ためらったが、ここまで話して後戻りもできなかった。

「百年以上前、科学者たちは『天才』と呼ばれる人間達の、脳の特質が普通の人間と異なる事に気付いていた。同じ規格、ルールのもとで造られたレーシングカーでも、性能差があるようにね」

 科学者達はまず、「グリア細胞」という特別な細胞が、ある歴史的な天才科学者の脳において異様に増殖していた事に着目した、とエリコは説明した。天才の全てではないだろうが、少なくとも他と異なる特質を保有した脳は存在すること、天才と凡人を分ける細胞や構造の違いがあり得ることが明らかになったのだ、と。

「では、優秀な頭脳を人為的に選別する方法はないか?まさか、脳をほじくり出すから、という理由で捕まえて連れて行くわけにも行かない。そこで、もっともらしい仕組みが考案された。それが、異常才覚者矯正法だ」

 エリコはそう断定した。人格に問題があるとして施設に優秀な頭脳の持ち主を集め、その中から何らかの基準にもとづいて、頭脳を『選別』するということだ。リネットは、声を震わせた。

「つまり、私が勤務していた施設の、本当の目的は、異常才覚者の矯正なんかじゃなく…」

「そう。バイオコンピューターの演算装置の選別だ。『天才の頭脳』をコンピューター用の演算装置として、『シェア』しようとしてたんだ。軍事転用も、とうぜん想定されているだろう。そしておそらくその技術は、すでに一部で実用化されているに違いない。僕らがコンピューターに何らかの解答を求めて返ってきたとき、その解答はかつて息をして、歩いて、食事をしていた、誰かの脳を通した解答かも知れないってことだ」

 その、吐き気がするような悍ましい推測、そしておそらく事実に、リネットは本当に吐きそうになった。エリコはリネットの肩に、かるく手を添えた。

「僕は考えた。そもそも、人間の脳をコンピューターに組み込む必要性はどこにあるのか、と。コンピューターはどこまで行ってもコンピューターだ。百数十年前のコンピューターは、信号品質の限界で二進法しか扱えなかった。けれど、今の四進法演算ユニットだって、扱えるデータのスケールが飛躍的に向上しただけで、『データを扱っている』という根本は、二百年前の倉庫ひとつ分あるような巨大な計算機と変わらない」

 エリコは、計算機の歴史を大雑把に圧縮して説明した。リネットは、エリコと狭い空間で身体を密着させながら、何を聞かされているのだろうと思った。

「僕が辿り着いた結論はこうだ。コンピューターも人工知能も、創られたものでしかない。コンピューター自身が、真の意味で限界を超える事はない。だから科学者達は、発想を百八十度変えたんだ」

「……まさか」

「そう。人間をコンピューター化する、ということだ。今のバイオコンピューターは、素粒子演算ユニットを脳が補助している。そうではなく、演算の主体が脳になることで、比類ない超高速コンピューターが完成するというわけだ。簡単に言えば才能ある人物を、無賃で二四時間強制労働させ、その恩恵を社会全体が受け取る、ということだね」

 おそらく矯正施設は、実質的に『研究施設』なのだろう、とエリコは言う。高度な才覚の持ち主をコンピューター化するには、システムに従順な状態に『調整』する必要がある。矯正とは、そういう意味なのだ、と。

「なぜ、そこまで高性能なコンピューターが必要なの? 素粒子コンピューターと現代の人工知能だって、軍事シミュレーションには十分だわ」

「先生。今の人類の敵は、外国の軍隊じゃない。前世紀の『負の遺産』だ」

 

 エリコは、大崩壊以前の文明が残した産業、科学廃棄物の環境汚染の深刻度が、社会の混乱を避けるため意図的に過小評価されている、と説明した。

「過去の廃棄物が、人工ブラックホールの暴走による大崩壊を経て大量の――大量というスケールさえ陳腐なほど、大量の塵芥となって、大気や海を汚染した。大崩壊のあと数十年、太陽光の入射量が減少した世界の平均気温は六度低下した。農業もインフラも壊滅した。汚染物質を大気や海水から回収して、建材等に転用する技術が発明されるまで、人類はそれまでの文明の栄華から、一気に一九世紀以下のレベルまで後退したんだ」

 エリコは、大崩壊後の人類が辿った悲惨な境遇をかいつまんで説明した。

「ようやく再出発のスタートラインについた文明は、ほとんど執念で大気、環境汚染を、なんとか生存可能域を確保できる程度には回復してみせた。けれど、汚染源そのものを無害化するには至っていない。位置さえもわからない。解決には理想的に見積もって二万年はかかるという、冗談みたいな状況だ。僕の計算だと、その前に人類は滅亡する。あと三〇〇年頑張れたら上等だろう」

 エリコに皮肉の表情はない。それは冗談抜きの、本音だった。人類史は二六世紀を迎える事はない、と彼は言ったのだ。

「けれど、良くも悪くも諦めの悪い人種がいる。科学者だ。彼らは、コンピューター性能を飛躍的に向上させることで、汚染のシミュレーションや、汚染源の特定、さらには回収や無害化の技術構築を達成できると考えた」

 そこで、まず信号記録の高精度化、ノイズ低減による、四進法コンピューターが実現し、計算能力は飛躍的に向上した。その後も原子コンピューター、素粒子コンピューターと進化していく。

「そうして辿り着いたのが、脳みそをほじくり出すという結論だったわけさ」

 エリコの表情は、いつもの皮肉めいた厭世家のそれに戻っていた。

「より優秀で、より若く、より従順な脳を情報処理センターの中枢に並べて、時給も出さないで永遠に労働させようってわけだ。自分たちの安全のためにね。ブラックジョークにしても、たちが悪過ぎる」

 エリコの話を黙って聞いていたリネットは、血の気が引いた表情で訊ねた。

「それじゃ、あなたの脳が必要だというのは、どう説明がつくの」

 それは要するに、エリコは扱いづらい少年だと言外に言っているのであり、エリコは笑った。

「何か、彼らにしかわからない『条件』に、僕の脳が合致したって事だろう。再検査なんて言われた時に、確信したよ。異星人の遺伝子でも見つかったのかな。何にせよ、脳をほじくり出してボランティア活動に従事させる、っていう発想は同じだよ」

「じゃあ、チャールズは…チャールズはどうしたの。どうなったっていうの」

 悲痛な声でリネットはエリコの目を見た。エリコは、強張った表情で数秒間沈黙していたが、リネットの肩を支えて言った。

「チャールズは、医療機関に送られたのかも知れないし、あるいは故郷に帰ったのかも知れない。使える脳でないなら、ほじくり出す必要もないはずだ。生きている……そう信じたい」

 それは、理論的なエリコらしくない、なんの根拠もない期待だった。エリコの自信ありげな表情が僅かに翳り、リネットの目尻には涙が浮かんでいた。

「あなたがそう言うってことは、根拠があるのよね。地震も、津波も、あなたは的中させてみせた。だから、チャールズは生きているのよね」

 エリコは、答えることができなかった。

「ああ、きっと……生きているさ」

 黙ってリネットを抱き締めながら、エリコはチャールズの理屈っぽい声と、不敵な目を思い出していた。生まれて初めて友達だと思えた少年に、生きていて欲しいと思った。生きているはずだ、そう願う事しかできなかった。

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