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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第五部
57/57

(57)声と沈黙と

 エリコ・シュレーディンガーはこれまで何度も、嘘か冗談のような知略を披露してみせた。エリコが進めと行った進路を進めば、追手は自然や障害物に足止めをくらい、飛び出せと言った時に飛び出せば、生命の危機を切り抜けもした。リネットは今自分たちが感じた予感――予感としか言いようがない――に、エリコと対話している時の感覚に近いものを感じた。

 そのときリネットが思い出したのは、あの不気味な青年クリシュナの言葉だった。クリシュナはエリコの居所を知っているのかと問われたとき、エリコは君たちの近くにいる、という思わせぶりな回答をした。

 

 エリコは、リネットとレンレンの目の前から、文字通り消失した。そのことと、今自分たちが体験したことが、無関係であるとは思えなかった。まるで、見えないエリコが気体となって漂っているような気がした。

 だが二人には、切羽詰まった状況で確証もない推論を展開する余裕はなかった。フェンリルの事実上のボス、ハッカライネンを含む三人の指導者は、どういう状況なのか。敵はどれだけいるのか。他の人質たちは無事なのか。レンレンは、急きょ指示内容を修正することにした。

「マルシャ、聞こえるか」

「聞こえている、どうぞ」

「あたし達と同時に突入した四人および、今しがた突入した団員は、残念だが全滅した」

「そうか」

 淡々とマルシャは返答した。その無感情な響きの裏にある感情を、通信に耳を傾ける全員が、無言のうちに共有していた。それをわかっているレンレンもまた、同じようにつとめて冷静に振る舞った。

「だが、四階までは制圧できた。人質の居場所や安否は不明だ。任せていいか」

「問題ない」

「あたしとリネットは、これから五階に向かう。さっきの指示は変わらない。あと八分で状況に変化がなければ、ビル周辺で待機する団員の指揮権を委ねる」

「了解した」

「どうせ、この通信は敵に傍受されているだろうし、こっちの動きも最初から筒抜けだ。どう動くかは、ベテランのあんたに任せる。敵はどうやら、こちらの動きに対して極めて的確な動きを見せているようだ。プロの兵士なみと見ていい、油断するな。通信終わり」

 やり取りが終わると、レンレンは即座に通信を切り、リネットと視線を交わすとエレベーターホールに向かって移動した。


 他方、本来正確には侵入した側ではあるが、現状としてはフェンリル団員を迎え討つ形のヴィーオは、レンレンとリネットを仕留める事ができずにいる下の階の兵に、クールな表情がやや崩れを見せていた。

「ハッカライネンは後回しだ。拘束しておけ」

 女性兵士二名にそう指示すると、ヴィーオは卓上の立体ディスプレイに浮かんだ、ビル内の戦況マップを把握した。九階のうち、下四階に展開していた兵士たちは、事実上ほとんど、たった二人の敵によって全滅させられた。

「ヴィーオ、敵が新たに四〇名ほど侵入している。四階までは制圧されたが、そこから上の階に来る気はないようだ」

 下階の若い男性兵士からの報告に、ヴィーオはごく小さく舌打ちした。

「例の二名は?」

「奴らの無線を傍受した。二人だけで五階に上がってくるところだ。撃ち殺す」

「待て」

 ヴィーオの声色には、わずかに焦燥が混じっていた。

「何かおかしい。他のフェンリル団員どもは容易く倒せるというのに、この二名だけが倒せないのは、明らかに異常だ」

「『クイーン』は何と言っている?」

 そう訊ねられたヴィーオは、左のこめかみに指先を当て、目を閉じてほんの数秒思案するような表情を見せた。やがて目を開くと、ビル内の全兵士に回線をつないで告げた。

「リネット・アンドルー、あの元海軍の女はフェンリル団員ではない、イレギュラーだ。それが不規則性を招いていたようだ。三十秒以内に修正を行う、とのことだ」

「了解した」

 通信を切ったヴィーオの横顔に、チェアーに後ろ手を拘束されたハッカライネンが、鋭い視線を投げた。

「修正、とはどういう意味だ?」

「お前には関係ない」

「説明されなくてももう、だいぶ見えてきたがね」

 あたかも勝ち誇ったような笑みを浮かべるハッカライネンの眉間に、ヴィーオはブラスターの銃口を押し当てた。銃口はわずかに左にそれ、右眼の眼窩でわずかに震えていた。

「『計算』どおりに行かなくなって、焦りが見えてきたようだな」

「黙れ」

「ニュージーランド沖で発生した海戦、あれも君たちの作戦の一環だ。そうだろう?」

 唐突に、七千キロメートル以上離れた海域での艦隊戦を持ち出されたとき、室内にいた兵士達は、驚愕というよりは奇異の表情を見せた。しかしヴィーオだけは、わずかに眉間にしわを寄せ、ハッカライネンを睨んだ。

「……ありもしないシナリオを想像していればいい」

「さて、どうだろうね。あの艦隊戦の戦況は私も確認していたが、予想が的中していれば、そろそろ変化が起きているはずだ」

 

 ◇


 フィジー島とニュージーランド・オークランドの中間の海域では、何時間にもわたって、テレーズ・ファイアストン准将に言わせれば「艦のエネルギーの無駄遣い」でしかない、艦隊どうしの睨み合いが続いていた。

 彼我の戦力差は、ほとんど無傷のSPF軍二二隻に対して、南アメリカ連合艦隊と呼ぶには辺境海域の海賊にさえ「劣るとも勝らない」、八隻の艦艇である。しかもそのうち三隻は小破、中破の有り様で、なぜこの状況で撤退なり降伏なりしないのか、ファイアストン艦隊および、報告を受けたSPF海軍本部も、首をひねっていた。

「敵からの返信は」

 テレーズは、いかにも痺れをきらした様子で通信係に確認したが、担当する兵士は肩をすくめ、首を横に振った。

「電文ひとつ返って来やしません。まるで殲滅してくれと頼んでるみたいだ」

「なら、そうしてやろうか」

 乾いた低い声が、艦橋に響く。テレーズは、隣のレーダー情報ディスプレイを睨んでいる、黒髪の士官に声をかけた。

「接近する艦影はないね」

「はっ、ボート一隻、魚雷ひとつたりとも」

「あんた、前はどこにいた。名前は」

「亡くなられたブロンクス准将の艦隊にて電測を担当しておりました、バンドンであります。補給で停泊したブリスベンより乗艦しました」

「見たことのない形式の艦がいるようだね」

 バンドンの肩越しにレーダー反応を睨んでいたテレーズは、ディスプレイに示された敵艦八隻の識別番号を確認していた。小破、中破の三隻ともう一隻は、やや古いが現役の巡洋艦、駆逐艦である。だが残りの四隻は、まだSPF海軍がデータを持っていない、新型の駆逐艦に見えた。

「あの混戦の中で無傷で残ったのか、こいつらは」

「新型なら、そのまま拿捕したいところですね」

 黙っていたマーカスが、冗談とも本気ともつかない調子でつぶやいた。

「どうします。居座られても厄介だ。気の毒だが、残りも沈んでもらいますか」

 テレーズの性格上、敵の殲滅は好まないだろうということを読み取ったうえで、マーカスは代わって言った。テレーズもそれをわかっているので、とくに咎める事はなかった。

「あと一度だけだ。降伏か、撤退か選ばせる。返答がなければ、砲撃しろ」

「アイアイサー」

 テレーズに言われたとおり、マーカスは自らマイクを取り、敵艦に向けて通信を繋がせた。

「こちらは南パシフィック連邦海軍、テレーズ・ファイアストン艦隊副司令官、マーカス・ジャクソン大佐である。重ねて勧告する、撤退するのであれば追撃はしない、また降伏を受け入れる場合は、貴艦らの全搭乗員の生命の保証および、国際法にもとづく人道的処遇を約束する。これは最後の勧告である……」

 マーカスの勧告を聞きながら、艦橋にいる全員が、おそらく一人残らず海の藻屑と消えるであろう敵艦隊に対して、一人ずつその重さに差異はあれど、同じ海の軍人として同情を示しつつ覚悟を決めた。


 マーカスがひととおりの勧告を伝えても、返答はない。ここに至って、相手に必要以上の同情を示す者はいなかった。テレーズが頷くと、マーカスは攻撃指示を出すために、右手を高く上げた。

「全艦、砲撃態勢」

 二二隻の艦艇の主砲が、無情にも満身創痍の敵艦隊に向けられた。マーカスが意を決し、その腕を振り下ろそうとした、その時だった。

「敵艦隊に動きあり!」

 バンドンの報告に、マーカスは全艦隊に「砲撃待て」の指示を出し、レーダーおよび目視の確認を急がせた。

「どうなってる?」

「型式不明の艦四隻が、十二時方向に……あっ!?」

 思わず、バンドンが声を上げたことを、テレーズもマーカスも咎めなかった。なぜなら、そこで起こった出来事は、彼らの理解を超えていたからである。

 敵艦八隻のうち新型とみられる艦艇四隻は、あたかも撤退するような動きを見せたと思いきや、残りの味方四隻を砲撃し、轟沈させてしまったのだ。海上には炎と黒煙が立ち込め、煙が風に乗ってテレーズ艦隊の方に流れてきた。テレーズは叫ぶ。

「何が起きている!?」

「敵軍の同士討ちです!」

「敵は何隻残ってるんだい!」

「四隻です! どうやら味方を撃沈し、煙にまぎれて逃げる算段のようです!」

「こっちの勧告を信じなかったって事か!」

 生命は保証すると約束したのに、とテレーズは、右脳に瞬間的に怒りが沸き起こるのを感じたが、左脳は極めて冷徹に命令を下した。

「あの四隻を、全艦左右に展開して挟撃せよ!」

 テレーズの指令で、右翼左翼それぞれ一一隻に分かれた艦隊は、広げた翼で覆うような形で燃え盛る四隻の煙を避けつつ、逃げる四隻を追った。型式不明の四隻の命運は、もはや決したかに見えた。


 だがその時、テレーズの脳裏に、何か背筋が粟立つような感覚が走った。それが何なのか、その時のテレーズには理解できなかった。そのかわり、命令が口をついて出た。

「待て! 全艦隊、海中にバリアを展開しつつ急速停止せよ! 」

 その命令が早かったとは言えなかったが、決して遅いとも言えなかった。右翼側のテレーズが乗る旗艦タンザナイト号とその後方に続く艦隊四隻、そして左翼側の五隻は、慣性コントロールによる緊急停止に成功し、対魚雷用バリアを水中に展開した。だが、それ以外の合計一二隻は、停止とバリア展開のタイミングを失してしまう。

 ファイアストン艦隊の巡洋艦と駆逐艦の計一二隻は、海面に閃光が走った次の瞬間、底部に強烈なダメージを受け、爆発を起こして沈み始めた。水中に強烈なプラズマを伴う爆発を引き起こす、パルス魚雷だ。それが致命の一撃である事は報告を聞くまでもなく、あっという間に一二隻の艦が、搭乗員の生命ごと爆散し、深海へと沈んでいった。

 残りの一〇隻もまた、無事なわけではなかった。海面下に展開したバリアは、魚雷の強烈なエネルギーに干渉され、共鳴現象を起こして船体を揺るがした。

「落ち着くんだよ!各艦――」

 後退せよ、と指示しかけたとき、またしてもテレーズの脳裏に、先刻と同じ感覚が走った。


『そうじゃない、前進だ』


 今度は、はっきりと聞こえた。何かがテレーズに語りかけている。それに突き動かされるように、テレーズは叫んだ。

「前進だ! 後退するんじゃないよ!」

 その命令を受け取って、ただちに遂行できた艦は六隻だった。のこり四隻のうち三隻は、後退指示が来るものと思い、すでに後方に向けて動き出していた。もう一隻が、指示を理解できず、ようやく前進命令を出した時だった。今度は後方から、またしても海面に閃光が走り、船体は油の満ちたフライパンに投げ込まれた合成擬似肉のように、船体底部から激しいスパークを上げ、崩壊し始めていた。旗艦オペレーターの一人が、金切り声ぎみに損害を報告する。

「タンザナイト号船体に損傷なし! バリアジェネレーターがオーバーヒートを起こしているとの報告です!」

「回復までは?」

「少なくとも五分!」

 ここで、テレーズは理解した。敵の新型艦四隻は、やみくもに味方を砲撃したのではない。

「バンドン! レーダーに魚雷反応はあったか!?」

「確認不可能! 魚雷第二波は海底を潜航し、我々の後方に回り込んだものと思われます! 先に轟沈した敵艦四隻の、イオンエンジン爆発による障害パルス発生のため、レーダーによる捕捉を阻害されました!」

「何て奴らだ」

 二二世紀の大型船舶用イオンエンジンは、出力コントロールのため無数のパルス発生および制御装置が積み込まれている。ひとたび破壊されると瞬間的に各部回路がショートを起こし、周辺に膨大な汚染パルスを撒き散らす。敵はそれを利用するために、味方の艦を攻撃したのだ。

「敵は魚雷発射をカモフラージュするため、味方艦を意図的に爆発させたものと推定されます! 動力源を正確に撃ち抜かなければ、これほど広範囲に汚染パルスが発生するとは思えません!」

 テレーズは太い指で逞しいアゴをさすりながら、敵の正体を見極めようとした。あの四隻の新型艦は、いったい何者か? だが今は、目の前の脅威を退けることが最優先だった。二二隻のうち一六隻が、たった四隻の敵に沈められたのだ。

「さて、どうしますか、提督どの」

 マーカスの飄々とした顔にも、さすがに緊張の色が見える。だがテレーズは違った。たった五人でジャングルの奥に追い詰められながら、敵を壊滅させて作戦を成功させた伝説を持つテレーズ・ファイアストンは、ガラスに映る自分の顔を睨んだ。この顔は、死にゆく人間の顔ではない。絶対に活路はある。

 そのとき、テレーズは相手の行動そのものに、なにか不気味さをともなう疑念を感じた。なぜ敵は、この魚雷攻撃を、もっと早い混戦の段階で実行しなかったのか? テレーズの艦隊によって味方が多数轟沈なぜ、ここまで膠着状態を長引かせる必要があったのか?


 テレーズの疑念を補強するように、またしても敵は攻撃をやめ、距離を保った不気味な沈黙に移行した。今、魚雷攻撃を受ければ、間違いなくファイアストン艦隊は全滅する。それをしないのはなぜか?そのとき、テレーズの脳裏に浮かんだのは、ひとつの可能性だった。

「――ばかにしてくれるじゃないか」

 テレーズはおもむろにマイクを握ると、驚くべき指示を残り六隻の艦隊に伝えた。

「全艦隊、動くな! 負傷兵の看護および、生存者の確認と救助、損害の確認にあたれ! 態勢を立て直す!」

 それを聞いた兵士全員が耳を疑った。この状況で、そんな余裕があるのか? テレーズはバンドンに確認をとった。

「敵艦隊との距離は?」

「四〇二〇!」

「レーザー砲撃が可能な距離だ。それにも関わらず、敵は砲撃してこない。おかしいと思わないか」

 テレーズの推察が正しかったのかどうか、敵艦はまたしても不気味に沈黙した。距離は一貫して、四キロメートル前後を維持している。レーザーはもちろん、砲弾でも精密に攻撃可能な距離である。マーカスは、テレーズを横目に進言した。

「こっちからだって撃てる距離だ。やっちまいましょう」

「いいや。敵はこちらが動くのを待っている」

「どういう意味です」

 首を傾げるマーカスとバンドンに、テレーズは苦虫を噛みつぶしたような笑みを向けた。

「あの薄気味悪い四隻は、こちらを撃沈するのが目的じゃあないってことだ」

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