(51)メイトリックス
にわかに微風が流れ、リネットとレンレンの髪の毛先が、それまでエリコが立っていた二人の間の空間に吸い寄せられた。いったい何が起こったのかと、互いの目を凝視する。それは、自分が正気であることの確認作業だった。
いま確かに、リネットとレンレンの間に、エリコが立っていたはずだ。だが、エリコの姿は消えてしまった。文字通り、消えてしまったのだ。
それが夢ではない証拠のひとつが、いま微かに巻き起こった風だ。エリコの姿が消えたことで、エリコがいた空間が、瞬間的に真空状態となった。そこに周囲の空気が流れ込んだため、風が起きたのだ。
いったい何が起こったのか。壊れた電子音声のように、脳内で同じ疑問が繰り返され、二人は言葉を失っていた。そして、レンレンが恐る恐る口を開こうとした時、その音が鳴り響いた。
それは公園をはさんだ反対側の、オペラハウスがある区画から聴こえてきた。爆発音だ。瞬間的に、リネットもレンレンも身構えた。すかさず通信端末をTVから無線に切り替え、フェンリル構成員につなぐ。
「レンレンだ! 何が起きた!?」
右手にブラスターを構えながら、マイクロフォンに叫ぶ。即座に、やや慌てた若い構成員の声が返ってきた。
「ちょっと待ってください、今確認をしています……わかりました。陸軍と市民の衝突です。警戒にあたっていた兵士に屋台の出店を止められた男が、命令を無視したところ、威嚇射撃の誤射で屋台わきの燃料ボンベが爆発」
レンレンは話を聞きながら、元軍人であるリネットの顔を窺った。リネットはすでに、常に用意しておいた武器弾薬の装着を終えており、いつでも飛び出せる態勢を整えている。
「状況は?」
「屋台の男と兵士二名が負傷。市民が兵士を取り囲むように集まって、兵士は銃を向けています。睨み合いは膠着していますが、この調子だと……」
「暴動に発展するか」
「間違いありません」
「まずいな」
レンレンは舌打ちした。市民の気性を考えると、騒乱が起こればあっという間に拡大するのは目に見えている。この状況で、フェンリルはどう動くべきか。
「状況はわかった。とりあえず、お前たちはこっちに集まってくれ」
「すでに、そちらに向かっています。二分、いや一分以内に集合します」
「わかった。廃デパートの駐車場で待機しろ。軍の奴らが来ないとも限らない。形だけでも、武器は収めておけ」
いったん通信を切ると、レンレンは焦燥を覚えながら慣れない小型アサルトレーザーライフルを手にして、リネットとともに廃デパート内外を駆け回った。
「エリコ!」
二人が叫んでもエリコの声は返って来ず、がらんどうの廃デパートを屋上から地下まで駆けずり回っても、エリコの姿は見えなかった。やがて元の場所に息を切らせて戻ると、レンレンはエリコが立っていた空間を睨んだ。
「あいつに会ってから、わけのわからない事ばかりだ」
「それは同意するわ」
リネットが不安まじりに苦い笑みを浮かべると、レンレンも諦めたように肩をすくめた。
「エリコはどうなったんだと思う?」
「さあね。ついに瞬間移動の能力でも身に付けたのかしら」
「生きてると思うか」
なんとなく口にできずにいた疑問を、レンレンは切り出した。消失したエリコは、どこに行ったのか。それこそ瞬間移動したのか。生きているのか。そして。
「これは、誰かの仕業だと思うか? リネット」
レンレンの瞳が険しさを帯びた。
「エリコ自身が前に言っていただろう。一連の出来事に、結果としてエリコが直接ないし間接的に関わっている。そして、それは誰かがエリコを操っていたからなんじゃないか、と」
「操るって、どうやって?」
「それはわからない。エリコは、あたし達と同じ『方舟』が敵にいるんじゃないか、と言っていたが」
「つまり、『方舟』の能力によってエリコはどこかに飛ばされたってこと?」
ありえない話ではない、とレンレンも考えた。エリコやレンレンのように超常的な能力を持つ者が現にいる以上、物体を瞬間移動させるといった能力を持った敵が、いないとは言えない。
だがそれでもレンレンにはまだ、何かひっかかるものがあった。もしそんな敵がいて、仮にエリコを何らかの罠にはめるのが目的なのであれば、もっと早い段階で、もっと直接的な手段を取るはずではないのか。
「エリコじゃないが、考える要素が多過ぎる」
「とりあえず、団員たちと合流しましょう」
互いに頷くと、二人は廃デパート前の駐車場跡に向かった。
報告によると、その後ほどなくオペラハウス周辺のフェンリル構成員によって、市民をいったん退かせる事に成功した、とのことだった。しかし陸軍による警戒態勢は強まり、今度は陸軍とフェンリルの睨み合いの構図になる。市内の空気はいよいよ緊迫の度を増していった。
「悪い冗談だ。もし先に軍とあたし達がドンパチやらかしたら、笑い話にもならない」
「どうする、レンレン」
わりと年長の団員にそう言われても、レンレンとしては指揮を預けたい気分である。だが、そこで脳裏に浮かんだのは、エリコの偉そうな顔だった。もしここにエリコがいたら、僕がいなきゃ作戦ひとつ立てられないのか、と言うかも知れない。いや、そうに決まっている。安否が不明な相手に理不尽な憤りを覚えつつ、レンレンは五人の『若衆』に指示を出した。
「お前達には、ここを離れて調査をたのむ」
「調査?」
「そうだ。まず、そっちの三人。お前達はエリコ・シュレーディンガーを捜してほしい。万が一敵に拉致されていたら、敵は撃ち殺して構わないが、まず先にこちらにエリコの所在を連絡しろ。それと、治安状況に変化があったら逐次、伝達を怠るな」
レンレンに指名された三人の若衆は、頷くと即座にホバーバイクやビークルに乗り込み、雑草だらけの駐車場を出ていった。残された二人の年長組に、レンレンは告げた。
「あんた達には、『メイトリックス』という名の人物が、この近辺にいないか調べて欲しい」
「メイトリックス?」
「そうだ。あるいは、その名に反応を見せる人間でもいい。何か引っ掛かる情報があったら、すぐに連絡してくれ。エリコの行方や、今のこの状況に関係するかも知れないんだ」
二十代後半の、浅黒い肌をした生粋の地元出身の二人は、雪のような白銀の髪の少年に、一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたあと、力強く頷いた。
「いい声になってきた」
「だから何なんだ、アンダルのやつといい」
「お前は大丈夫なんだな、レンレン」
頭半分以上背の高い団員に、レンレンは後ろに控える、完全武装の元少尉の女をちらりと見て答えた。
「あたしより、手向かってくる不幸な相手の冥福を祈ってやってくれ」
「神の平安がありますように」
わざとらしく十字を切ると、二人は銀色の小型ホバービークルに乗り込んで、若干荒っぽい運転で市内に飛び出した。レンレンは、ぼろぼろのアスファルトに仁王立ちするリネットに白い目を向けた。
「まだドンパチは始まってないからな。念の為言っておくけど」
「もちろん」
胸を張るリネットだが、はたしてロケットランチャーとアサルトライフルを引っ提げている女が正当防衛を主張しても、裁判官は取り合ってくれるだろうか、とレンレンは訝った。
エリコの件はむろん心配ではあるが、一方で『エリコだから何が起きても不思議はない』と半分諦めつつ、通信端末でニュースを確認する。今のところ、まだ状況は大きく動いてはいないようだった。だが、まったく影響がないわけでもない。
「オーストラリア大陸からの中型観光客船が、帰ろうにもこの状況で出港できずにいるらしい。六〇〇人の観光客が足止めを食らっている」
「まあ、この状況じゃ仕方ないわね。黒旗海賊に襲ってくれと言うようなものだわ」
「うち一二〇人ほどの客が観光業者を訴えると言い出したもんで、料金払い戻しのうえ船を降ろしたそうだ。まあ、業者は踏んだり蹴ったり、ってとこか」
「ゴネ得なのか、損なのかわからないわね。状況しだいでは、船の方が安全って事もあるかも」
リネットはロケットランチャーを地面に降ろすと、ベンチにしてビタミン入り携行食料をかじり始めた。同じ物を差し出されたレンレンは、受け取りながらリネットを不思議そうに見る。
「落ち着いてるな。エリコがいなくなったってのに」
「想定外の状況で意識的に冷静さを保てないと、一流の軍人とは言えない」
「やっぱり現役じゃないか!」
呆れ半分、敬意半分の眼差しを向けながら、レンレンも半ば義務的に乾いた食料をかじった。いざという時に動けなければ、エリコを助ける事もできなくなる。
だがそこで、レンレンは思った。エリコはこの市内で、少なくとも市民に大きな被害は出ない、というリーディング内容を説明した。だが、ここで何が起きるかはわからない。現に、陸軍というエリコも予想できなかった相手がいま、市内に展開している。
それでも、もしもエリコがいたら、これから市内で何が起きるのか、改めてリーディングできたかも知れないし、戦略を立てることも容易になるはずだった。だがエリコがいない今、自分たちで状況を読み取り、対処しなくてはならないのだ。はたして、市内で大規模な戦闘が起きた場合、対処できるのか。だが、レンレンの不安を読み取ったリネットが、ハッカ味のドリンクを飲み干して冷静に言った。
「エリコがどうなったのかはわからない。けど考えようによっては、エリコを守るというミッションが省略されたともいえる」
凄い解釈だ、とレンレンは敬服した。もちろんリネットが、エリコを心配している事は目をみればわかる。それでも、リネットの解釈はひとつの事実でもある。エリコを守るミッションを無視できる今、レンレンもまた、市の防衛を優先して行動できるのだ。
「レンレン、いま私達の任務は、動かないでここにいる事よ。さっきのやり取りを聞いていたけど、あなたの指示は完璧だった。まだ状況に大きな変化がない今、情報収集が最優先事項。陸軍がモスキートや哨戒機を飛ばしているかも知れない、頃合いをみていったん屋内に戻りましょう」
「……わかった」
完全武装している作戦参謀というのもなかなか珍しいだろうな、と考えながら、レンレンは忌々しげに空を睨んだ。
◇
まる二日が過ぎても、バリクパパン市内の状況に動きはなかった。陸軍兵士は相も変わらずレーザーライフルを構えて市民に睨みをきかせ、交通網の要所要所には戦車や装甲ビークルが陣取っている。そのため現実として交通や経済活動にも多少なりの混乱はあり、市民生活に影響はない、というアナウンスはさっそく形骸化し始めていた。
黒旗海賊の艦影のひとつも水平線に見えたのなら、陸軍が出張ってきた説得力もあるのだが、そもそもバリクパパンと黒旗海賊の拠点の間にはスラウェシ島があり、どう考えても黒旗海賊と最初に交戦するのはスラウェシ島の海軍か、あるいはフェンリルの武装チームのはずだった。
そのため市民の間では、陸軍は誰とも交戦する心配がないカリマンタン島で、単に存在を誇示するために警戒態勢を取っているのではないのか、とまで囁かれる始末だった。
レンレンの通信端末に音声で若衆から定時連絡が入ったのは、その日の夕方五時すぎだった。
「例の名前だが、今のところ引っ掛かるような情報はない」
「そうか、わかった。何か変わった動きは?」
「何もなさすぎて、市民が陸軍の態度に痺れを切らしている。飲食店などは商売にも影響が出ていて、暴発するのはもう目前だろう」
「余計なことをしてくれたもんだ」
レンレンは、固形燃料の上で沸騰するポットを睨んだ。廃デパートの吹き抜けから涼しい風が吹いて、湯気がなびく。向かいのリネットは周囲の音に耳を立てながら、突撃前の拳銃よろしく、銅製のカップを握りしめている。若衆は少し間をおいて訊ねた。
「本部からの指示は?」
「なにしろ相手が陸軍だ。それなりに『付き合い』の長い海軍ならともかく、うかつに手や口を出したらどう出てくるか、想像がつかない。まだ様子を見ろ、とのことだ」
「わかった」
「それと、例のメイトリックス氏の調査は後回しでいい。あんた達二人も、エリコ捜索に切り替えてくれ」
「了解した」
通信が切れると、レンレンはため息をつきながら、銅製のカップに合成コーヒーのキューブを投げ入れた。熱湯を注ぐと外殻が一瞬で溶けて、漆黒のホットコーヒーに変身する。コーヒーの味と香りはするが、原材料はフェンリル出入りの業者いわく『知らないほうがいい』とのことだった。
「最悪、陸軍とやり合うかも知れないぞ」
レンレンは鋭い視線を向けた。
「手を引くなら今のうちだ。今度こそ、反逆者だぞ」
「もうとっくに反逆者よ。あの矯正施設島を出た時からね」
リネットは、気味が悪いほど落ち着いた笑みを浮かべた。レンレンは、処置無しだと匙を投げた医師のようにかぶりを振る。
「わかった。もう何も言わない」
「相手が陸軍なのはまだ好都合よ。海軍なら、私の面が割れる可能性もある」
「その前に、命の心配をしろよ」
呆れながらレンレンは笑った。ふいに訪れた沈黙に、二人は否応なく、エリコの事を思い出した。
「ほんとうにあの馬鹿は、どこに行きやがったんだ。まるでゲームのオンライン空間からログアウトしたみたいに、消えちまった」
その喩えが的確だったのかどうかわからないが、レンレンとリネットはその時、何か言い知れない悪寒のようなものを感じた。
エリコが死んだ、という感覚は不思議となかった。だが、生きているのかと問われたら、やはり答えに窮する。物理的にいない以上、答えようがない。瞬間移動でどこかに行った、という可能性も、『あのエリコ』なら、絶対にないとは言えない。そのときリネットが思い出したのは、海の上で遭った、あのクリシュナという不気味な青年だった。
「そういえばクリシュナが、妙なことを言っていた」
「クリシュナ? いつか話していた男か。方舟だ、とかいう」
「ええ。彼はエリコにこんな事を言った。君はもう、真実の木の実をもぎとれる寸前まで来ている、って。思い出させる手伝いをしてもいいが、真実は自分で掴まないと意味がない、とも」
「真実の木の実?」
その陳腐な表現に、レンレンはつい鼻で笑った。
「なんだ、それは。エリコは記憶喪失か何かだった、っていうのか」
冗談めかしたつもりのレンレンだったが、その時ふたたび脳裏をよぎったのは、あの『メイトリックス』という固有名詞だった。
エリコは明らかに、あの名前に反応を示していた。消失する直前にも、メイトリックスという名を目にしている。レンレンはひとつの仮説を立てた。
「あの名前はトリガーだ」
「トリガー?」
「Matrix……数列とか、母型、構造といった意味だが……この名が引き金となってエリコの何かの『スイッチ』が入った、としか考えられない」
「なぜ、その名前が?」
「それはわからない。けれど、『メイトリックス』は単なる常用の名詞だし、あちこちで当たり前に目にするだろう。それが今回に限ってトリガーになったということは……」
レンレンが考察を始めようとした時、それは起きた。吹き抜けの下にあるエントランスホールに突然、まばゆい光が満ちたのだ。
何事かと思って吹き抜けを見下ろすと、それはホール全体に広がる、立体ビジョンゲーム機の起動画面だった。
「なっ……なんだ!? どうして勝手にゲーム機が起動するんだ!?」
レンレンは、うっかりコントローラーに触れでもしたか、と周囲を見渡した。だが、起動に用いるコントローラーは、エントランスホールの床に置かれたゲーム機本体の脇にある。つまり、触れてもいないゲーム機が勝手に起動したということだ。
呆気に取られていると、ゲーム機のオペレーティングシステムは、勝手にゲームを選択して起動し始めた。慌ててエントランスホールに降りたレンレンの前に立っていたのは、『START』のセレクトボタンの横で、二二世紀も現役の遊具、スケートボードを立てて微笑む陽気な青年のキャラクターだった。タイトルは『Board』。一〇年くらい前にヒットした、先カンブリア時代から未来、あるいは外惑星まで、さまざまな時代の世界をスケボーで駆け抜け、トリックを決めるゲームだ。
すると、今度は画面に世界中の、オンラインのレース対戦希望者リストが表示された。ユーラシア大陸や、地球の裏側の国からの挑戦者もいる。こんな古いゲームにまだこれほどプレイヤーがいるのか、とゲーマーのレンレンは微かに感動を覚えたが、リスト内にあったその名に、レンレンは衝撃を受けた。
「リネット、どうやら追跡対象から出向いてくれたらしいぞ」
「なに? どういうこと?」
「ここ、南パシフィック連邦から対戦を申し込んできている奴がいる。プレイヤーの名は……」
レンレンが指さしたその名に、リネットは息をのんだ。
『Jerico』
レンレンは、ほとんど本能的にコントローラーを掴むと、『Lingling』とプレイヤー名を登録して、レースの挑戦を受けた。




