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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第五部
49/53

(49)ゾハール

 オーストラリア大陸北部ダーウィンにあるSPF=南パシフィック連邦海軍本部の威圧的なビルディング内には、南米大陸の連合艦隊のチリ沖への展開に対し、すでに一触即発の空気が漂っていた。各基地の艦隊にいつでも進発の命令を飛ばせるよう、オペレーティングルームでは通信担当官たちが通信コンソールにスタンバイしていた。


 極秘会談に用いられるサロンでは総司令官以下、ごく少数の将官や参謀長らが、声をひそめるようにテーブルを囲んでいた。

「前座の役者が揃った、というところか」

 痩身の老提督ナイジェル・マンソン上級大将が、巨大なディスプレイに表示された海域マップに鋭い視線を向けた。現在ニュージーランド基地には准将に就任したばかりの、テレーズ・ファイアストン率いる艦隊が出撃態勢を整えており、その東側七〇〇〇キロメートルにある、チリ領イースター島近辺に、南米大陸の連合艦隊が、不気味に展開していた。

「両島から互いに進軍すれば、今日中に開戦できるな」

「提督!」

 三〇代半ば、いまいる面子の中では最も若い黒髪の中将ルイス・バドエルが、諌めるというよりは怯える様子で、老提督の笑えない冗談を制した。

「めったな事を仰いますな。SPFと南米大陸連合の開戦となれば、ことは小さくないのですぞ」

「だが、いずれ彼らが資源や領土を求めて太平洋、あるいは大西洋を戦場として動く可能性は、以前から指摘されていた。南米大陸はすでに大崩壊や乱開発によって森林の六〇パーセントが失われ、大気異常のためにまともな居住可能地域も激減している」

 老提督の言うことは、世界の誰もが知っている事だった。森林の減少によって土砂崩れや水害が多発し、最大のダメージを受けたブラジルをはじめ、ほとんどの国が連合を締結しなくては、もはや存続が不可能なまでに衰退しているのだ。

 黒髪の中将は、わずかに呼吸を整えて、居並ぶ諸提督に訊ねた。

「だからこそです。ああして疲弊している連合が、いま戦争など起こせるものでしょうか」

「だが、現に彼らは以前、あてつけるように演習を行っていたぞ。それは開戦を望んでいる、ということではないのか」

 恰幅の良い、グレーの髪を刈り上げた四〇代の大将が、感情のこもらない調子で言い捨てた。中将はいなされた態勢で、反論を試みた。

「仮に連合軍が開戦を望んでいるのなら、尚の事こちらが反応しなければ、彼らは攻撃の口実を失うのではありませんか。海の上に放置しておけば、いずれ兵站が尽きて、帰投せざるを得んでしょう」

「なかなか残酷なことを言うな」

 老提督は、まだ若い中将に目線で黙っているよう合図した。これは叱ったのではなく、自分よりまだ先がある提督が、上に意見しすぎて睨まれる事を防ぐためだった。

「なにも、いたずらに開戦を望むわけではない。現在、連邦政府が連合に対して、政治ルートで抗議している。先日の挑発的な演習も含めてな。我々軍人は今のところ、いつでも艦隊を動かせる態勢を整えておく以外に、できることはない」

 老提督が言ったのと示し合わせたようなタイミングで、ディスプレイはSPF連邦政府首相、ロジャー・ディクソンの執務室に繋がった。傾いたジェラート、と敵対陣営から揶揄される、奇妙なスタイルの金髪の壮年男性は、強張った顔をカメラに向けて、首脳クラスの話し合いの結果を伝えた。

「連合軍は、我々がニュージーランドに艦隊を送った事に対して、遺憾の意を示している。現在の緊張状態の責任は、我々SPFにある、と」

「つまり撤退の意思はない、ということですか」

 アフリカ大陸出身の総司令官バラカ・アサニは、テレーズ・ファイアストンにも劣らない迫力をもって、ディスプレイの向こうの首相に視線を向けた。ディクソン首相は、まるで怯む様子も見せず、ほとんど機械的に答えた。

「戦闘はいつ始まってもおかしくない、ということだ。海軍は、全軍いつでも出撃できる態勢を維持してほしい」

「全軍、ですか」

 さすがに、その指示にはアサニ司令官も面食らって訊ね返した。しかしディクソンは、背後に飾ってある角型のクリスタルガラス製トロフィーにも劣らない冷徹さで、手短に答えた。

「いま伝えたとおりだ。有事の際の指揮はアサニ総司令官、君に一任する」

 国家の最高権力者にそう言われては、アサニも黙らざるを得ない。こうなると民主主義も帝政と変わらないな、とアサニは思いながら、立ち上がって敬礼した。

「了解しました」

 そのときアサニは、首相の右背後に飾ってあるガラス製の角型トロフィーに、人影が映っていることに気がついた。これほど重大な案件を取り扱う首相の執務室に、最初にちらりと映った副首相以外に誰がいるのか? だが、考える間もなく通信は切られ、もとの海域マップ表示に切り替わった。いっとき、会議室に沈黙が訪れたが、最初に口を開いたのは老提督マンソンだった。

「誰が言ったか、戦争は外交の延長だ、とな。とんでもない。外交が戦争の付属品なのだ。いや、流れた血の後始末をさせられるモップだな」

「それ以上は言わない方がいいだろうな」

 いくぶんくだけた様子で、アサニ総司令官は苦い笑みをマンソン上級大将に向けた。

「こうなっては、我々に選択肢はない。いや、最初からそんなものはなかった。それを確認するための会議だったということだ」

「総司令官閣下は皮肉屋であらせられる。我々も聞かなかった事にしておこう」

 マンソンが意地悪く笑みを向けると、まだ若いルイス・バドエル中将ただ一人を除いて、歴戦の諸提督たちもそれに倣った。ルイスは一人、真剣に手元の折り畳み式コンピューター端末に目を向けていた。

「それでは、南米大陸の連合軍諸氏が平和主義者であることを祈って、解散としよう」

 総司令官が席を立つと、諸提督が起立して敬礼した。ひとり、手元のディスプレイを睨んでいたルイスが、慌てて立ち上がる。ぎこちなく敬礼を済ませ、年配の提督達が出て行くと、ルイスも退出するような姿勢で、コンピューター端末に手をかけた。

 しかし、ルイスは背後から突然声をかけられて、驚いて竦み上がった。その声の主は、老提督マンソン上級大将だったからだ。

「何を真剣に見ていた? 会議も忘れて」

 それは咎めるというより、子供が俺にも秘密を教えろ、とでもいうような口調だった。ルイスは少しためらいながら、コンピューター端末をマンソン提督に向けた。

「今の、首相の執務室からの映像のログなのですが」

「記録していたのか?」

「少し気になったもので。しかし、私が考えても意味のないことと思い、削除するところでした」

 ルイスが言ったとおり、ディスプレイ上の操作カーソルは、ログの「削除」ボタンにかけられていた。操作を続けようとしたルイスの手を、マンソンは止めた。

「この、首相が映った映像に何か不審な点があるのか?」

「え? いや、その……」

「かまわん。言ってみろ」

 誰もいなくなった会議室で、何か良からぬ企てを立てているような気がしてきたルイスだったが、上級大将に逆らうこともできず、首相の右後ろに映った角型の柱デザインをした、クリスタルガラス製の何かのトロフィーを指さした。

「このトロフィーに、誰かが映っているんです」

「副首相でないのか?」

「いいえ。副首相は左手後方にいるのがわかっています。動画の最初に、書類を首相の手元から持ち上げて左手に控えているのがわかります」

「では、誰だ?」

 マンソンに言われ、仕方なさそうにルイスはその、クリスタルガラスのトロフィー部分を拡大した。解像度は粗いが、おおよその容姿は把握できる。そして、トロフィーのガラス面に映ったその人物のシルエットは、なんとなく見ているだけで背筋が寒くなるのを感じた。

 男だった。黒い、古風なダブルブレステッドのスーツを着ている。そして、室内であるにも関わらず、スーツに合わせた黒いソフト帽を被ったままだった。目元は影がかかっていて見えないが、顔立ちから三〇代後半くらいの、やや線の細い印象だった。

「何者だ?」

 マンソン提督の、頬がこけた顔に怪訝の色が浮かぶ。国家の最高権力者を前に、手を後ろに組んで悠然と立つハットの男。それはほとんど、首相を見下ろしているようにさえ見える。提督は、胸ポケットから薄型のやや旧式な通信端末を取り出した。

「バドエル中将、その映像ログをわしの端末に送れ」

「えっ? はっ、はい」

 上級大将を前にして、まるで士官のような腰の低さで、バドエルは自身のコンピューター端末から首相が映った映像ログを送信した。受信を確認すると、マンソンはルイスに詰め寄った。

「貴官はそのログを速やかに削除し、見た事も忘れろ。いいな」

「えっ?」

「不服か」

「いっ、いいえ。了解しました」

 マンソンの目の前で、ルイスは映像ログを削除した。マンソンは、やや皮肉めいた笑みを見せて言った。

「中将の身で、この重大な会議に呼ばれるような優秀な若手が、要らん疑惑で将来を棒に振る事もあるまい」

 それだけ言うと、マンソン上級大将は何も見なかったという風を装って、がらんと静まりかえった会議室を後にした。残されたルイスも、釈然としないものの、どうする事もできないので、コンピューター端末を畳んで退出するほかなかった。



 北米大陸、アリゾナ・フェニックス。ここはラスベガスとともに、大崩壊による環境激変の余波を受けながら、しぶとく過去の面影を保っていることで有名だった。

 市内の小さなホテルのラウンジでキオナ・コルテスと助手のニコラオ青年が待機していると、日中は熱い風が吹く都市だというのに、ダークグレーのダブルブレステッドのスーツを着た痩身の男性が現れた。男性はソフト帽を脱ぐと、かつてのジャパン人のように低い腰で頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません、キオナ様」

「とんでもない」

 キオナとニコラオは立ち上がると、恐縮したように椅子をすすめる。まだ三〇代とおぼしき顔に、年齢とは不釣り合いなロマンスグレーの髪が奇妙に似合っていた。

「ゾハールさんのサポートで、我々は活動できているのですから」

「そう言っていただけると、お祖父様に顔向けできます」

 ゾハール、と呼ばれた男性は、優しいが湿度に欠ける声でまた頭を下げ、古びたコンピューター端末を開いてひとつの書面を提示した。

「来季ぶんの予算です。不足でしたら、お申し付けください」

「いいえ、十分です。こちらは今季ぶんの伝票や報告書です」

「申し訳ありません。ネットワークを介してやり取りできれば、御足労いただかなくて済むのですが」

 端末どうしのデータ近接送受信で書類の受け渡しを済ませると、ゾハール氏はコーヒーを一口飲んで、キオナから受け取った『葦船プロジェクト』の収支報告書を確認した。収支報告といっても、実際はほとんどが支出の内訳である。

 葦船プロジェクトの予算は故マウリシオ・コルテスの遺言で組まれており、このゾハールという人物がマウリシオの遺言に基づいて、プロジェクトリーダーである孫のキオナと管理しているのだった。厳密にはオルタナ・インテリジェンス社の予算からの拠出であり、形としては同社役員であるゾハールがプロジェクトのオーナーとでもいうべき立場である。

「このぶんだと、施設の拡張も視野に入れなくてはなりませんか」

 ゾハールが訊ねると、キオナもニコラオも、苦い顔を見せた。

「収容人員は増える一方です。中には回復されて、職員として働きたいという人もいるので、スタッフに就いてもらえたらと思うのですが。それと、娯楽施設なども拡張できればと」

「ああ、そういうことでしたら、予算を補正して対応しますよ」

 あまりにもすんなりとゾハール氏が話を通してくれるので、毎度の事ながらキオナとニコラオは面食らう。ゾハール氏は要件をメモすると、端末を閉じて脇に抱えた。キオナは、いつも要件を済ませるとすぐに次の仕事に移る祖父の側近だけに、そういう仕事の仕方が身に付いているのだろうな、と思った。

「ゾハールさん、それで、例の件ですが」

 ニコラオが、立ち去られたら機会を逃すと思ったのか、慌てて訊ねた。ゾハール氏は、穏やかな顔をわずかに強張らせる。

「はい。例の件ですね」

「その様子だと、進展はなしですか」

「申し訳ありません。手は尽くしているのですが」

 きょう何度目かの『申し訳ありません』を口にすると、ゾハール氏はまた頭を下げた。

 例の件とは、葦船プロジェクトに関してキオナの祖父マウリシオをサポートしており、祖父の死と前後して突然行方不明となった、オルタナ・インテリジェンスのエンジニア達のことである。

「そうですか」

「私も困惑しております。せめて顔認証システムが敷かれた都市にいれば、すぐに探し出せるのですが」

「ゾハールさんが知らないのであれば、仕方ないでしょう。地下シェルターのシステムも、我々の手でだいぶ把握できていますし、捜索はいずれ止めていただいても構わないと、スタッフ間で話し合っています」

 すると、キオナが苦笑しながら口をはさんだ。

「せめて、あの不吉な『13』という番号のゲートだけは、中を確認したいけれどね」

 ゾハールは、怪訝そうな顔で訊ねた。

「13番のゲート?」

「前に話したでしょう。シェルターのわりと奥の方にある、パスワードがわからなくて開けられないゲート。もし未使用の居住区域があるなら、こっちは助かるわ」

「ああ、そんな話をしてましたね、そういえば」

「スタッフの中には縁起が悪い番号だから、悪魔が出て来ないように強化コンクリートで埋めてしまおう、って人もいるけど」

 三人の小さな笑い声が、ラウンジの片隅に響く。ゾハールは時刻を確認すると、帽子を手に立ち上がった。

「それでは、本日はこれで失礼します」

「いつもありがとう」

 握手しながら、キオナはゾハールの、青みがかったグレーの瞳を見た。何度見ても、透き通ってはいるが奇妙な冷たさを感じる目だった。


 ゾハールがキオナの前に現れたのは、祖父でありオルタナ・インテリジェンスの会長だった、マウリシオの死後ほどなくだった。マウリシオが、大崩壊後に社会から見放されたアメリカ先住民の救済保護のための『葦船プロジェクト』を立ち上げていた事をキオナが知ったのは、マウリシオの側近だったというゾハールを通じてだった。ただ、そのゾハールもプロジェクトに関わったメンバーが失踪する事までは予想外だったらしく、プロジェクトの実行は困難を極めた。

 それでもゾハールによれば、マウリシオは莫大な資金、リソースをこの計画のために遺しており、当面のあいだ地下シェルターの運営には金銭面での支障はないという。ただしそれをゾハールや孫のキオナを含めて誰にも不正に着服される事がないよう、運用には呆れるほど厳格なルール、手続きが定められている。ゾハールとキオナの行動や資金の流れは、マウリシオが選定した「カチナ」と呼ばれる第三者機関に報告しなくてはならないのだ。カチナからは不定期に抜き打ち査察が入る。孫であっても厳格にルールを守らせるあたりは、いかにも祖父らしいな、とキオナは苦笑したものだった。


 だが、ゾハールがどのような人物なのか、いまだキオナ達にもはっきりしないのも事実だった。オルタナ・インテリジェンスの会長の側近だった、という経歴以外は何もわからない。ただ、恐ろしく高い技術力と知識を持った人物だという事は、シェルターの管理システムについて話し合った時にわかった。さすがに、現役時代には天才エンジニアと言われた、祖父の側近を務めていただけのことはある、とキオナ達は感心したものだった。

 少なくとも、信頼できる人間である事は間違いなかった。不正を行おうと思えばできる立場であるにもかかわらず、そんな様子は微塵もない。それどころか、この混迷の時代にあって、実直という人間の見本にも思える。彼がいる限り、葦船の航海は順風満帆に思えた。

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