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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第四部
44/52

(44)予兆

 イエス・キリストはガリラヤ湖の嵐を、その言葉によって鎮めた。言葉にはどれほどの力があるのだろうか、本当に嵐を止める事など可能なのだろうか、とエリコは思う。

 もし自分がイエス・キリストや、釈迦のような存在だったとしたら、いったいどんな選択をして生きるのだろうか。


「冗談じゃないね」

 エリコは、六〇階建てのビルの展望台から眼下に広がる都市、森、海岸線を眺めて吐き捨てた。隣のレンレンは、少しガーリーな青いシャツをベルトで留めている。傍目には少年と少女のデートである。

「キリストみたいな生き方、僕なんかには絶対無理だ。自分のことで手一杯だよ」

「言うわりには、けっこう周りにお節介を焼いてるように見えるけどな」

 レンレンが差し出した、細長いポテトのフライを模した何かを、エリコは一本つまむ。不味くはない。炭水化物と塩分は摂れるのだろう。

「さあな。単に自分が助かりたいだけかも知れない」

「それなら、さっさとSPF領を出るのが最善だろう。お前もリネットも、なぜ今のうちに、あのホバーで島を出ない?マレーシアにでも渡ってしまえば、あとは陸伝いに国境を越えるだけだ」

「言っただろう。僕が撃ったあの女の子、ノア達の無事を確認してからだ、って」

「それは正当な理由でもあり、言い訳、口実でもあるな」

 レンレンは、エリコの口にフライを一本差し出した。エリコは前歯で受け取る。

「エリコ、そろそろ話せ。わざわざ観光で、こんなビルの最上階まで登ったわけじゃないんだろう」

「何の話だ」

「とぼけるな。お前には視えているんだろう。これから先、この見渡す海で、何が起こるのか」

 レンレンの推察にエリコは無言だったが、表情は険しく水平線を睨んでいた。

「地球が丸い証明って、考えた事あるだろう、レンレン」

「まあ、子供の頃にな」

「いちばん簡単な説明は、水平線だ。もし大地が平面なら、理論上は高性能な望遠鏡さえあれば、タラカン島からカリフォルニアが見えなくちゃいけない。ところが実際は、水平線に阻まれる。見えるのは、水平線から頭を出す貨物船だ」

「なるほど」

 エリコの分かりやすい説明に、レンレンはわりと素直に感心しているようだった。エリコは、西の海をまっすぐに指した。

「この階にいる僕の視点の高さは約二六七メートル。いま見えている水平線までは、ざっと六一・八キロメートルだ。僕らが標高ゼロの地点に立つと、せいぜい見えるのは四・七キロメートルくらいでしかない」

「その程度しか見えないものなのか」

「そうだ。見通せる距離なんて、そんなものだ」

 エリコは重い表情で窓辺に腰掛け、肩越しに空と海を睨む。

「紛争が起きる。戦場はオークランド、ニュージーランド沖だ」

「いつ?」

「正確な日付はわからない。近い、としか言えない。けど、一ヶ月も先じゃない。SPF海軍と、南アメリカ大陸のいくつかの国の連合軍の局地戦だ。双方、艦艇数は当初は五〇隻程度だが、いずれ二〇〇隻規模になる。航空機も投入されるだろう」

 あまりにも淡々と語るエリコに、レンレンは不謹慎と思いながら、失笑せずにはいられなかった。

「死者数は?」

「両群合計で一万人は超えるだろう。ただし、戦場はあくまで海上に限られる。民間人の死者は、その海戦では出ない」

 ふくみを持たせた言い方に、レンレンは眉をひそめた。

「どうもお前の意識は、その海戦とは別の何かに向けられているようだな」

「レンレン。アンダルに伝えてくれ。スラウェシ島に、黒旗海賊が攻めてくる。奴らは、海軍どうしの開戦のタイミングを狙っているんだ。目的はスラウェシ島の制圧だ」

 その戦慄の『予知』に、レンレンは全身が総毛立つのを感じた。これが酔っ払いの戯言なら、冷や水をかけて道路にほっぽり出すところだが、あいにく言葉の主はエリコ・シュレーディンガーその人である。

「……冗談、というわけではないんだろうな」

「そうであるなら僕も気楽なんだが」

 

 エリコは昨夜、ホテルの部屋で眠りにつこうとした瞬間、窓ガラスに強烈なビジョンを連続で何度も映されるのを感じて、そのまま昏倒してしまった。朝、リネットから通信端末への呼び出し音が鳴らなければ、昼過ぎまで目が覚めなかったかも知れなかった。

 そのビジョンはまるで、テレビ番組の歴史ドキュメンタリーのようで、ニュージーランド沖で艦隊がレーザー砲を撃ち合うビジョンから始まって、スラウェシ島に黒い旗の海賊船が殺到するビジョン、さらにその後のビジョンへと続いた。

「その後のビジョン、とは何だ」

 レンレンは、怪訝そうにエリコの表情をうかがった。だがエリコは、その先をどうしても語ることができなかった。しびれを切らしたレンレンは、エリコの前に仁王立ちして急かした。エリコは仕方なく、自信なさげに口を開いた。

「僕の能力にも限界がある。今この段階で、どこまで正確に見通せているのか、自信がないんだ」

「ばかばかしい。そんなこと言ったら、テレビの天気予報はどうする。この人工知能が発達した二二世紀にあって、たかが一二時間後の天気を外すんだぞ。起きるかどうかもわからない戦争だの侵略行為だの、信憑性なんか大して変わりはしないだろう」

 レンレンの剣幕に、エリコは力なく吹き出した。リネットとは違う形で、レンレンはエリコの背中を押してくれる。どちらかというと根負けの形で、エリコは語りだした。

「このバリクパパンが戦場になる」

「なんだと!? 黒旗の奴らか!」

「それが、どうしても視えてこないんだ」

 エリコは、握り拳で眉間のあたりを押さえて屈み込んだ。自信がないというよりは、困惑の色が濃い。

「相手の姿がはっきりしない。何者かが、このバリクパパンに侵入してくるビジョンは視えるんだが、それが何者で、何が目的なのかが、まったくわからない。どうやら、僕の能力は今のところ、そこまで一度に多くの出来事を見通せるものではないらしい」

「さっき、水平線の距離うんぬんを語り出したのは、そういう意味か」

 レンレンはエリコの隣に座ると、窓辺に両手をついてため息をついた。

「その内容が本当かどうか自体も疑わしいが、街に被害は出ていたのか? お前のビジョンでは」

「それが奇妙でさ。街には特段、被害らしいイメージは浮かんでこなかったんだ」

「なんなんだ、それは」

 フライの紙箱を潰して、レンレンは立ち上がった。そこへ、紙袋を提げたリネットがやって来て、二人をジロジロと眺めて唐突に吹き出した。

「もう付き合っちゃえば?」

「冗談だろ。……一体何をそんなに買い込んできたのさ」

 エリコは、リネットの太ももをそっくり覆い隠せる、水色の紙袋を睨んだ。

「何って、着替えよ。あとまあ、必要な色々」

「ホバーバイクのトランク、そんな余裕ないんだからね」

「そこなのよ。両サイドにトランク追加しようかなって、いま考えてる。そういうスタイルで、大陸横断とかやってる人、いるじゃない」

 いる。一人乗りホバーバイクの両サイドに大きなトランクを装着して、北米大陸横断とかやってる人たちが。もっともエリコ達自身、すでにそれに匹敵するような事をやっているのだが、こっちは遊びではなく命がけの逃走である。リネットの、いまいち軽いノリにレンレンはつい訊ねた。

「リネット、君はエリコの視たっていうビジョンのことは聞いたのか?」

「もちろん」

「……そのわりにはリラックスしてるな」

「緊張してるよ。でも、緊張しすぎるのは良くない」

「さすがもと軍人、ってとこか」

 レンレン自身はさすがに、エリコの話のあとで緊張を隠すことはできず、真剣な顔で二人に向き直った。

「わかった。エリコ、お前のビジョンの件は、アンダルに伝える。ひょっとしたら、もうすでに状況が動いている可能性もあるしな」

「頼む」

「エリコにリネット。お前たちは、早々にこのカリマンタンを出ろ。エリコの予知が当たっているかどうかにかかわらず、この海域の危険水位が上がっているのは事実だ。今以外に、お前たちが安全に海を渡れるタイミングはない。そんなこと、エリコじゃなくてもわかる」

 今までそれを言うタイミングを探っていたのだろう、レンレンは捲し立てるようにそう言った。身を慮ってくれるのは、エリコにとってはありがたい事だった。だがエリコは、そんなレンレンの思いとは裏腹に、首を横に振った。

「ここまでフェンリルのみんなに世話になったんだ。自分だけ、逃げることはできない」

「お前なあ!」

 レンレンは、両手でエリコの肩を掴むと、ガラス窓に押し付けた。

「死にたいのか! お前は、生きるためにここまで逃げてきたんだろう!」

「そうだ」

「じゃあ、ここに留まる意味はないだろう!」

「違うよ、レンレン。僕は生きるために逃げてきた。そして、自分の生き方がようやく、少しだけわかった気がする。今、僕が選ぶ生き方は、ここに留まって、お前たちと一緒に戦うことだ」

 そう、堂々と言ってのけるエリコに、レンレンはほとんど涙目で迫った。

「どうしてだ? どうしてお前は、そんなふうに自分の身を、危険に晒せるんだ? 私は、お前の噂を他の団員から聞くたびに、腹が立って仕方なかった。私は、自分の暮らしさえ守れればそれでいい、と思っているのに、それを真っ向から否定されている気持ちになってしまった」

 レンレンがその胸の内を明かしたことで、エリコは満足げに微笑んだ。

「やっと、言ってくれたか」

「お前……」

「レンレン。前にも言ったけど、僕は僕のためにやってるんだ。世話になった人たちが無事でいてくれないと、僕は安心して国境を越えられない。これは、僕の都合なんだ。ね、リネット」

 エリコに視線を向けられ、リネットは肩をすくめて笑った。

「そう。そして私は、この問題児を躾けるのが趣味になりかけている。趣味の玩具は守らないといけない」

「その趣味、早めに飽きてくれると助かる」

「ま、これが私達の運命らしいわね。元軍人が一人参戦してくれるって、そんな悪い話じゃないと思うけど。ホテル代の借りもあるし。あ、できれば武器も適当に揃えてくれると助かるな。グレネードランチャー付きのアサルトライフルなんか預けてくれたら、一〇人分くらい働いてみせるわよ」

 ニコニコしながら物騒なセリフを吐くリネットに、レンレンは不本意ながら、笑わずにはいられなかった。

「あはははは!」

「そうそう、あなたそうやって笑ってると可愛いのに。私も一〇代の頃はこんな感じだったのかな」

「まあ、物騒なのは二人とも共通してるかもね」

 エリコの突っ込みに、リネットとレンレンは無言で腹パンチをくらわせた。レンレンは、まだ笑いが収まらない様子だった。

「まあ、そうだな。大陸に渡ったからって、安全だとも限らないか」

「おっ、いいね。それだよ、それ。それくらいの感覚でいいんだよ」

「お前はもうちょっと、命がかかってるって事を意識しろよ!」

 ようやく元の調子に戻ったレンレンは、エリコと顔を見交わして、またしても吹き出した。

「わかったよ。だいたい、ホントにお前の予知だか予言だかが、当たってるかどうかなんてわからないしな。気が付いたら何も起こらなかった、なんて事もあるかも知れないぞ」

「詐欺師呼ばわりされながら、石もて追われるのもまあ、思い出にはなりそうだ」


 レンレンがアンダルに連絡を取り、エリコが直にビジョンについて説明すると、アンダルはエリコが驚くほど真剣に、その話を聞いてくれた。思わずエリコが、そこは『お前ふざけてるのか』と突っ込むところじゃないのか、と訊ねると、アンダルは答えた。

「命張ってる奴がこんなことで冗談は言わねえよ。それに、超常現象はレンレンの手品で、団員みんな体験済みだ。組織が長続きする秘訣は、才能がある奴の話を聞くことだ。組織を早く潰す秘訣は、組織の面子に拘って一人の才能を無視することだ」

 言っていることは格好良いのだが、アロハシャツ姿を目にしてからというもの、どうもアンダルのイメージが変わってしまったエリコだった。アンダルはエリコのビジョンの件を、上に報告するつもりだという。場合によっては、エリコに本部まで来てもらう事になるかも知れない、とのことだった。

「怖いお兄さんたちと仲良くなるのは考えものだけど」

 エリコの保護者ポジションからいまいち脱却できないリネットは、感心しかねるといった様子だった。三人が歩いているヤシの木が並ぶ街道は、強い陽射しとあいまって、いかにも東南アジアという香りを醸し出していた。レンレンは隣のエリコに視線を投げた。

「それでエリコ、ここからどう動くつもりだ」

「うん。ひとまず僕とリネットは、ホテルを出る」

 するとリネットは露骨に残念そうだが、仕方ない、という顔で肩を落とした。

「ホテル住まいだと、身動きが取りづらい。といって、ホバーバイクで寝泊まりするわけにも行かない」

「なるほど」

「そういえばレンレン、お前バリクパパンじゃ、どこで寝泊まりしてるんだ?」

 訊ねられたレンレンは、渋い顔をして目をそらした。

「どこでもいいだろう」

「なんか安い宿とか、フェンリル団員が使える部屋とかがあるのか?」

「そうじゃない」

 ああもう、とレンレンは髪をかきむしって、ひとつの方向を指さした。

「だいぶ前に潰れて、いまフェンリルが接収した廃デパートがある。そこの中で寝泊まりしてる」

「お前、ナリは可愛いけど根性ある奴だな」

「可愛いとか言ったら殴るって言っただろ!」

 顔を真赤にして拳を振り回すレンレンを回避しながら、エリコはリネットと頷き合った。

「そこ、僕らにも使わせろ。ホバーバイクを格納できるスペースはあるよな?」

「ホバーバイクどころか、ビークルだって乗り込める。ただし電気は通ってないからな」

「屋根があるだけで十分だ」

 そう言い放つエリコに、レンレンは怪訝そうな目を向けつつ、あとで文句は言うなよ、とだけ告げて承服した。


 そうして、三人が市内を歩いている時だった。ある商業ビルに近づいた際、エントランス上部に設置された広告ディスプレイに、人が群がっているのがわかった。

「何だろう」

「もう戦争が起きたかな」

 いまいち笑えない事を言いながら、エリコたちも人だかりに混じる。そしてエリコとリネットは、見知った顔がテロップつきで映っていることに気付いた。

「リネット!」

「……どういうこと」

 二人が見上げるディスプレイには、黒い肌の女軍人、テレーズ・ファイアストンの精悍な顔が映っていた。右下には、こう表示されていた。


『海軍テレーズ・ファイアストン氏、准将に昇進』


 それは三人にとって、これから起こる出来事の予兆に思えてならなかった。

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