(4)ACSR仮説
雨が止んで、地面が乾いてきた午後二時すぎ。矯正センター島の港湾部に面した四階建てのビルディング、施設管理中枢棟の正面ゲートを、リックマン大佐が通過した。大佐は島の管理責任者であるウィルソン少将の呼び出しを受けており、最上階の執務室を訪れた。
「リックマン大佐、参りました」
デスクに座る、ふた周り歳下の少将のやや尊大そうな表情に、リックマン大佐はあまり上機嫌ではなかったが、私情は抑えて敬礼した。ウィルソン少将は軍人らしい頑強そうな体格と、それに似つかわしいとも言えないカジュアルに流した金髪が特徴的だった。
「楽にしていい」
「はっ」
「ひとつ、見てもらいたいものがある」
ウィルソン少将が壁に指を向けると、飾ってある額縁などの凹凸を無視して、平面のスクリーンが浮き上がった。そこに表示されているものに、リックマン大佐は眉をひそめた。
「脳のスキャン結果ですか」
「そうだ」
「誰の?」
「君の部下が担当しているはずだ。管理番号331のエリコ・シュレーディンガー、一五歳」
その名に、リックマンの目がわずかに開かれた。
「これは、いつのスキャン結果ですか」
「上が最新の健康診断時のもの、下は後日再検査させたものだ」
「再検査? なぜ?」
リックマンが問うと、ウィルソン少将は立ち上がり、窓の外に広がる水平線を眺めながら答えた。
「本国からの指示だ。担当教官の報告によると、非常に扱いづらい少年であるとか」
「ええ、はい……先日、直接対面していますが、非常に癖のある人格で、現在レベル3に指定されております。いずれレベル4の施設に送られるでしょう」
「わかっている。だが彼の健康診断結果について、ラボから連絡があった。非常に興味深い個体であるため、念のためもう一度、彼の脳を検査するように、とな」
「つまり、他の個体とは異なる要素があった、ということですか」
リックマンは訊ねながら、僅かに首を傾げた。ウィルソンは腕を組んで大佐を向いた。
「ラボによると、以前から研究されていた、例の『ACSR仮説』の条件を満たす可能性がある個体らしい」
「まさか!」
リックマンは、半ば嘲笑うかのように吐き捨てた。
「私はむろん、科学的な理論の詳細についてはわかりません。ですが、あの理論は実現不可能な、あくまでも理論上、あるいは空想に近い仮説だと聞いています。もしそれを実現できる個体がいるというなら、それは軍事バランスを左右するほどの存在になり得る」
リックマンの指摘に、ウィルソンは無言だった。その無言それ自体が、ひとつの回答だった。リックマンは、ようやく事態を理解して姿勢をただした。ウィルソンはデスクにつくと、両手を組んで渋い顔をした。
「ラボの秘密主義のおたく共は、詳しくは説明せんからな。だが担当教官のレポートでは、時間や空間の認識能力が異常だ、とある。それも理論を裏付けるらしい」
わずかに、執務室に緊張をともなった沈黙があった。
「奴らの言う事が事実なら、あの少年はもはや国家レベルの最重要サンプルだ。エリコ・シュレーディンガーの移送任務をリックマン大佐に命ずる。念のため、海路での移送となる。出立は翌朝だ。ぶじ完了すれば、貴官の准将への昇進も上申しておく」
上官からそう命令された以上は、一介の軍人であるリックマンの返答はひとつだった。
「了解しました」
退出しかけて、リックマンはふと思い出した事があったので、デスクを振り向いた。
「少将、別件でひとつ報告が入っているのですが、よろしいですか。いずれ連絡するつもりでおりましたので」
「何だね」
「危機管理課の軍属スタッフより、過去一ヶ月間に複数回発生している海底地震について、念のため避難態勢を整えておくべきではないか、という意見具申がありまして」
すると、ウィルソン少将の眉にわずかにしわが寄った。
「人工知能が大地震の予測でも立てたのかね」
「いまのところ、そのような報告はありません」
「なら問題ないだろう。軍属スタッフが指揮に関して意見を述べる義務はない」
少将は、それ以上の会話の必要をみとめなかった。ウィルソンの言う『義務』とは、実際は『権限』を指しているのではないか、と考えながら、リックマン大佐は執務室を出た。
大佐は真っ白な廊下を歩きながら、首を大きく傾げた。
「あんな問題児が……」
そう、独りごちた瞬間だった。それまでにない大きな揺れが、背の低いビルディングを襲った。特殊コンクリートの床面が、波にゆれる甲板のように不規則に傾き、大佐は窓枠に手をかけて身をかがめた。
揺れは十二秒ほど続き、通信端末に警報が届いた。
「地震を観測しました。震源は東沖約五六キロメートル、マグニチュード六。津波の心配はありませんが、高波が予想されます。沿岸部に近付かないようにしてください」
無機質な音声が、淡々と述べた。大佐は無線で、即座に部下に確認した。
「マードック大尉、いまの地震による被害などは発生しているか?」
「こちらマードック。今のところ、特に問題は発生していないとの報告です」
「わかった。それと、移送任務が発生した。おって指示するが、輸送艦一隻および護衛の駆逐艦二隻の準備を進めて欲しい。出立は翌朝、〇五〇〇が目標だ」
「了解しました」
にわかに忙しくなってきたが、孤島でくすぶっているより、久々に艦艇を出すのも張りがあっていい、と老年の大佐は考えた。しょせん叩き上げの職業軍人、昇進などは単なるおまけだ。部下に指示を出し終えると、大佐は指令に疑問を差し挟まない、軍人の精神に頭を切り替えた。
◇
突然の大きな地震に、リネットは年長の友人である、シンシア・キンバリー中尉とコーヒーカップを片手に互いを支え合っていた。揺れがおさまり、津波の心配はないという気象センターからの連絡に、胸を撫で下ろした。
「あなたの教え子の『予言』が当たったんじゃないの」
シンシアは、恐怖をごまかすように唇を震わせながら笑った。教え子とは、地震が来るとリネットに語った、エリコ・シュレーディンガー少年のことである。リネットも、半笑いでどうにか強がってみせた。
「津波は来ないわ。半分だけ当たり」
「声が震えてるわよ」
互いの背中を叩いて笑い合うと、カフェルームのテーブルに座り直して、シンシアはそれまで交わしていた会話を継続した。
「どこまで話したっけ」
「あなたの教えてるグループと、他のグループの話」
「ああ」
シンシアは頷く。リネットは、自分以外に少年少女達を指導している職員達に、島を『卒業』した若者がその後どうなっているのかを訊ねていたのだ。だが、返ってきたのは要領を得ないものだった。
「私は過去に二三人送り出しているけれど、あくまで教官と生徒、っていう関係だからね。島を出た後のことは、正直知らないわ」
「ほかの指導教官は?」
「みんなもそう言ってる。島を出たら、生徒達はいわばプライベートな存在に戻るわけだから、関わりは持たない。ただ」
少し声を潜めて、シンシアは言った。
「島を出た子たちには、三つのパターンがあるの」
「三つのパターン?」
「そう。ひとつは、矯正課程を終えて、問題なしって事で元の都市に帰るのが、いちばん多いパターン。もうひとつは、この施設では手に負えないから、レベル4以上の施設に送られるパターン」
シンシアの言うレベルとは、簡単に言えば矯正の難易度のことだった。問題児であるほどレベルは高くなる。リネットが担当するエリコ・シュレーディンガーは入所時レベル2だったが、度重なる発言やレポート内容から、現在はレベル3認定されていた。リネットは眉間に指を当てて、問題児の顔を思い浮かべた。
「もうひとつは?」
「これが妙に多いんだけど、講義とか活動の最中に心肺停止で倒れて、どこかに移送されるパターン。私が聞いた限りでは、過去に一三人いる」
その情報に、リネットはそれこそ心臓を掴まれる思いがした。リネットが担当しているグループにいた、チャールズ少年がまさにそうだったからだ。
「……どういうこと」
「まあ、体力とか精神的な問題で、矯正プログラムに耐えられない、と判断されたって事でしょうね」
シンシアは大雑把にそうまとめたが、リネットは何か、薄気味悪いものを感じた。とつぜん心肺停止で倒れるなど、一人二人ならわかるが、一三人は多過ぎる。奇妙な不安がリネットを襲ったとき、通信端末が鳴った。
「……こちらリネット・アンドルー少尉」
「少尉、こちらはリックマン大佐だ」
「ご苦労様です」
「少尉、突然だが君の担当している例の少年……エリコ・シュレーディンガーを呼んでくれ。仔細は直接話す。彼はいま、どこにいる?」
その連絡に、リネットは何故かわからないが一瞬、血の気が引くのを覚えた。たった今、生徒達を話題にしていたばかりである。
「げっ、現在は例の、ペナルティポイント消化の慈善活動で草刈りを」
「ああ、それはもういい。ペナルティはもうない。とにかく、彼を連れてわたしの執務室まで来てくれないか」
「りょっ、了解しました」
それはどういう事なのか。ペナルティが解消された? 通話を切ったあと、リネットは僅かのあいだ、思考が止まっていた。
「リネット、どうしたの?」
シンシアが怪訝そうに顔を覗き込んできて、リネットは我に返った。
「なっ、何でもない。ちょっと、命令があったから行くわね」
「根詰めすぎないのよ。あなた、変に真面目だから」
シンシアの言葉も、リネットには半分くらいしか聞こえていない。とにかくエリコに連絡を取ろうと、廊下に出て通信端末を操作しようとした時だった。端末に、メッセージの着信があった。それが当のエリコからのものであったため、リネットは驚いた。だがその驚きは、本文を読んだ時の衝撃に較べると、さざ波のようなものだった。
「教官、今までありがとうございました」
エリコ・シュレーディンガーからのメッセージは、ただそれだけだった。そして、それは今までエリコが話したり、記したりしてきたあらゆる言葉、文章のなかで最大級の衝撃をもたらした。リネットは、倒れそうになる身体を必死で支え、エリコの端末に通話をかけた。だが、いくらコールしてもエリコは通話に出ない。
「どうして出ないのよ! 出なさい、エリコ!」
リネットの叫びは、無機質な通路に吸い込まれて消えるだけだった。だがリネットは士官学校を出て二年経ったばかりの少尉であっても、その度胸と行動力で抜きん出た軍人だった。即座に姿勢と精神を立て直すと、冷静にエリコの埋め込み生体チップの位置を端末で確認した。
その位置を確認して、リネットは急速に体温が下がるのを感じた。エリコは、北西の普段誰も行く事はない、海に面した高さ八メートルほどの岸壁の端にいる事がわかったのだ。そしてほどなく、チップの反応は消失した。
リネットの右脳は、最悪の結果を想像して戦慄を覚えたが、左脳は即座に軍人としての反応を示した。
「なんだと!?」
リックマン大佐は二二世紀にあってなお旧態依然とした受話器を手に、執務室で叫んだ。
「海に飛び込んだというのか!?」
「それはまだ不明です! とにかく大佐、私はホバーで反応があったポイントに向かいますので、捜索隊の出動を要請します!」
「わっ、わかった!」
普段なら五階級下の少尉から捲し立てられるのを不愉快に思うところだが、ウィルソン少将から移送を命じられた人間が行方不明、それも自殺を仄めかすメッセージを残しているとなれば、もはや猶予はない。大佐はすぐに捜索隊の編成を部下に命じ、自身も執務室を飛び出した。
職員の島内での移動用には、軍用の車両のほかに単座式、前後複座式の水陸両用ホバーが用意されている。リネットは複座式の一台に、受付に怒鳴り込んで奪うように乗り込むと、アクセルを全開で北西に向かった。
リックマン大佐の捜索隊編成も素早く、リネットが海岸沿いの雑に均された路面を飛ばしていると、バックモニターに捜索隊の高速ホバービークル三台が映った。先頭車両があっという間にリネットの横につけると、大佐が通信を繋げてきた。
「岸壁だな!? 少尉!」
「はい!」
「よし、急げ!」
ホバービークルはあっという間にリネットのホバーを置き去りにして、海岸沿いの乾いた路面を駆け抜けて行った。リネットは不安をスピードの出ない複座ホバーへの悪態でごまかし、ビークルの浮揚システムが巻き上げた土煙を追った。
リネットがようやく断崖に到着したとき、すでにリックマン大佐の計一三人の捜索隊は、現場の状況を確認していた。岩がむき出しの岸壁を部下とともに見下ろしていた大佐は、リネットを振り向くと足元を示した。
「少尉、これを」
大佐が指差すそれは、土だらけの白いシューズだった。屋外用のブーツではなく、矯正センター内で履くよう指定されている内履きである。シューズは岸壁に向けて揃えて置かれており、その脇に支給されている通信用端末と、慈善活動のために携行していたレーザーグラスカッターのケースがあった。
「確認しました。エリコ・シュレーディンガーの端末に間違いありません」
若い兵士は無情にそう言った。
それを聞いたリネットは、大佐を押しのけて端末を取り上げ、息を詰まらせて端末の登録者名を確認した。そこには無情なアルファベットが並んでいた。”JERICHO SCHRÖDINGER”と。リネットは端末を取り落とし、がくりと膝をついた。大佐は叫ぶ。
「周囲を捜索しろ! 自動飛行探査機、水中艇も出すんだ! 最悪でも、必ずエリコ・シュレーディンガーの頭を確保しろ!」
その大佐の命令の重要な部分を、理解するだけの理性と余裕がリネットにはなかった。エリコ・シュレーディンガーは、この岸壁から海に身を投げたのだろうか。だとすれば、もうエリコはこの世にいないのだろうか。そう考える事が、なぜこれほどまでに痛切に思えるのか、リネットはようやくその意味を理解した。そして、理解が涙腺を突き破ろうとした、その瞬間だった。
恐るべき衝撃が、岸壁全体を襲った。地底で戦略兵器が炸裂したのかと思えた。それは着地しているホバービークルが横倒しになるほどで、リネットは立ち上がる事ができなかった。そのとき、リネットの脳裏を、エリコの自信に満ちた言葉がよぎった。「地震も津波も起きるさ」と。エリコの言った言葉のうち半分は、真実だった。
では、もう半分は?
エリコは、その計算や計測能力でたびたびリネット達を驚かせてきた。目視だけでテーブルの皿の直径をコンマミリメートル単位まで言い当て、乗っている疑似ミートステーキの重量を、フォークで持ち上げるだけでコンマグラムまで正確に計ってみせた。野球の塁間をスケールなしで測ってダイヤモンドを空き地に作り、飛んでいる鳥の群れの数を一秒以内に正確に数えてしまった。
そのエリコが、地震が来て、その後何十分か以内に津波が来る、と言った。ということは、すぐに津波が来るのではないのか。エリコは、津波の高さを何メートルと予測したか。最大で二〇メートル、と彼は言った。それは、矯正センターの管理中枢棟最上階にまで届くほどの津波だ。それより低い矯正センターは、完全に飲み込まれてしまうだろう。
はたして、そんな津波が本当に来るのか? だがリネットは、エリコの言葉を信じたい気持ちになっていた。そして次の瞬間、エリコが言っていた、もうひとつのことをリネットは思い出した。
揺れがおさまった時、リネットは大佐がセンターに地震の被害がないか確認している怒号を聞いた。そして、どうやらそれなりに被害が出ているらしい事も、言葉の断片からわかった。システム障害も起きているらしい。だが、いくらか冷静になったとき、ついさっき大佐が捜索隊員に伝えた、不可解な命令をリネットは思い出した。
「エリコ・シュレーディンガーの頭を確保しろ」。気が動転して聞き間違えたのでなければ、リネットは確かに聞いた。エリコを保護しろ、ではない。エリコの頭を確保しろ、と言ったのだ。
頭を確保?
それはどういう意味だ? リネットの知性が、この混沌とした状況の中で、自分でも驚くほどの冷静さでその言葉の意味を分析し始めた。リックマン大佐が、エリコを呼び出したのはなぜか?
軍人は自分の裁量で命令は出せない。命令を出すのは、命令を出せと、さらに上の者から命令されたからだ。この施設島内で大佐に命令できるのは、管理棟の上官、たとえばウィルソン少将だ。
では、ウィルソン少将の命令だとすれば、なぜ少将は、エリコの呼び出しを命じたのか? 少将にその旨が伝えられたとすれば、それは本国からの指示に違いない。では、なぜエリコを本国が必要とするのか?
が エリ
本国 オの
頭 を
て いる
必要と し
断
健 康 診
脳
バ イオ コンピ
ューター
ズ の行 方
チャ ール
突飛で空恐ろしい推理がリネットの頭脳を支配したとき、リネットは身体が勝手に動いて、複座式ホバーのステアリングを握っていた。その様子にリックマン大佐は気付かなかったが、一人の兵士がそれを見ていた。