(39)友達
「エリコ!」
レンレンは、慌ててエリコの肩を支えた。エリコは、先日ホバーバイクの中で嘔吐したときのように、流入する意識のオーバーフローを起こすのを感じていた。
だが今回は、同じ事が起こるという警戒もあったので、即座に意識の流入のシャットダウンを行うことで、それ以上の状態悪化は食い止められた。
「だっ、大丈夫だ……続けてくれ」
エリコは立ち上がると、いくらか青ざめた表情で、解剖されるジェームズ・ベケットに視線を戻した。レンレンはまだ訝しげだった。
「また吐くんじゃないのか」
「大丈夫だ。ガードの仕方はわかった」
「何を言ってるのか、僕達にはわからないが」
ガードとは、何から何をガードするのか。いよいよエリコの言う事が、周囲の理解のレベルと乖離し始めていた。ジェルメーヌは、若干強張った表情で解剖を続けた。
脊椎部の解剖は終わり、可能な限りCTスキャンで発見された、マイクロチップ様の破片が回収された。だが、ペトリ皿に並べられた破片は、極小の爆発の熱により融解しており、復元は不可能だ、とジェルメーヌは言った。
「断定はできないけど、これは規格外の生体認証チップのようね」
「規格外?」
アンダルは、冷蔵庫の外にも警戒しながら訊ねた。
「私は医者だから、チップの施術も何度もやってるけど。こんな規格のチップは見たことがない」
「よその国でもか?」
「あれはほとんど、国際統一規格なの。製造メーカーも二社でシェアを分けている。シェアというより、分担ね」
「じゃあ、どこかの誰かが勝手に作った代物ってことか」
アンダルの問いに、一瞬エリコ達は黙り込んだ。誰か、とは誰なのだ。そんな技術力を持っているのが、個人の筈はない。アンダル達は、ペトリ皿に並ぶ破片を睨んだ。チップにまとわりつく血はすでに、黒く凝固している。ジェルメーヌはかぶりを振った。
「わからないものを考えても仕方ないわ。話は、取り出すべき物を全て取り出してからよ。さて、いよいよ次は後頭部の切開に入るけど」
言葉を途切れさせたジェルメーヌの沈黙は、ふたつの意味を持っていた。ひとつは、できれば邪魔だから終わるまで外に出ていて欲しい。もうひとつは、頭蓋骨の中身を見たあとで昼食をとる勇気はあるか、ということである。
だがそこで、意外な人物がもっとも勇気ある決断を示した。
「いいよ、続けてくれ」
エリコは、憎らしいほど超然とした様子で、腕を組んでジェームズ・ベケットの後頭部を睨んだ。レンレンは驚いた様子だったが、アンダルは真剣な様子でジェルメーヌに頷いて合図を送った。
二一〇八年現在、人口減による医師の不足に対応するため、外科手術専用の補助ロボットが存在する。器械出し、外回りといった執刀のサポートを行う、何本もの腕が執刀医の頭上から覆い被さるような外観で、そのシルエットから一部では「ヤドリギ」などと呼ばれる事もあった。
これは可搬性にも優れるため、軍医などにとってはスタッフがいない現場で最低限度の手術ができる、頼れる相棒である。そのヤドリギが今、ジェルメーヌの背後から千手観音のように腕を伸ばしていた。
「手術じゃないから、気分的には楽ね」
ロボットがジェームズの頭髪を容赦なく剃り落とすのを見ながら、ジェルメーヌは微笑んだ。これから死体の脳を見なければならないというのに、気分的に楽、とはどういう事なのか。エリコとレンレンは首をひねった。
ロボットの動作は早かった。頭部をスキャンして、埋め込まれた物体がある位置を赤いインクでマーキングする。その周辺はすでに、内部からの爆発で大きく損傷していた。
エリコ達が吐き気を催すヒマもないくらい、ロボットとジェルメーヌの連携は素早く的確で、あっという間に元死刑囚の小脳と大脳が露わになった。ロボットによる減菌処理のためか、とくだん臭いなどはしないのが逆にエリコ達には不気味である。
こんなものが自分達の頭の中にもあるのか、と考えると、人体の奇跡的な構造に畏怖の念がわき起こる。だが、冷たい照明が反射する脳組織よりも、そこに組み込まれていたであろう残骸のほうに、エリコ達の意識は集中した。
それは女性が髪をまとめるバレッタのように、右脳と左脳、そして小脳にまたがって組み込まれていたようだった。おそらく極小の爆発物が組み込まれていたのだろう、すでに全体としてはバラバラに砕け、一部は焼けただれて、周囲の脳組織ごと融解していた。
そしてわかった事だが、どうやらこの器具は、驚くほど簡便なシステムで脳に組み込まれているらしかった。
「おそらく専用の機器がある。こんなふうに、医者が事細かに準備を整えて、さあ施術するぞ、というのではなく。頭蓋骨の跡が、それを説明しているわ」
謎の装置の破片を取り出しながら、ジェルメーヌの目は悍ましさに曇りかけていた。
「こんなものは見た事がない」
「けれど、これを埋め込まれた奴は他にもいる。それも大勢ね」
黙っていたエリコが、わずかに額に汗を浮かべて、台の上に並べられた装置を睨んだ。それは全体としては半月のような形状で、脳にフィットするように湾曲していた。それこそ、脳に装着するバレッタ、といったイメージだったので、エリコの提案でこれを『バレッタ』と呼称する事になった。
「タラカン島の病院の地下で、レンレンとアンダルが交戦した連中。あいつらにも、このバレッタが埋め込まれていた可能性はないか?」
「まさかだろう……いや、しかし」
レンレンは、アンダルに視線を向けた。アンダルは、あの地下で戦った相手が、どう見ても素人なのに、プロのアンダルを翻弄するようなカンを見せていたことが気になっていた。
「つまりエリコ、こういうことか? これを脳に埋め込むことで、素人でもプロのギャングに匹敵するような戦闘能力が手に入る、と?」
アンダルは、一気に推測の終着点まで飛躍してみせた。レンレンは、そんなことがある筈がない、と難しい顔をしている。エリコは、アンダルとほぼ同じ結論に到達しながらも、その内実が異なっているように感じていた。
「大筋では、アンダルの推測は正鵠を射ていると思う。ただ、こんなバレッタをはめ込んだだけで、そんな能力が手に入るかどうか、僕にはなんとも言えない」
「エリコ、お前は先日、この装置がベケットの意識に作用した、と言ったな。つまりこれは、意識を変容させることで戦闘能力を高める装置、ということになる。それがどんな仕組みなのかはわからんが」
すると、ジェルメーヌが一つの装置の破片を、平たいピンセットで持ち上げた。
「このバレッタの内側からは、一見すると目には見えないほどの細い、繊維状の何かが脳に対して無数に伸びていた。これがおそらく、シナプス、ニューロンに結合して、脳に対して何らかの制御信号を送っていたんだと思う」
「じゃあ、バレッタの内部に何らかのプログラムが書き込まれていて、装着者はそれに従って動いていた、という事になるのか」
それは、人間を単なるハードウェアとして扱うという発想であり、悍ましく、そして腹立たしい推測だった。だが現時点では、それも推測にすぎない。今のところ、辻褄を合わせる作業をしているだけである。ジェルメーヌはため息をついた。
「破壊されていないサンプルが手に入れば、これが何をするための装置なのかがわかる筈なのだけれど」
「それを知られちゃいけないから、こうして爆破されたんだ。つまり、装着者は生殺与奪を何者かに握られている、という事でもある」
「ひどい話ね」
「だけど、仮にここまでの推測が正しいとして、やっぱり問題は二つに絞られる。ひとつはこの、おそらくは人体実験を行っているのが、何者なのか。そしてもうひとつは、何が目的なのか、だ」
エリコは、台の上で解剖されたままの元死刑囚、ジェームズ・ベケットの遺体を哀れに思った。もちろん、確認した限りの罪状では、死刑もやむを得ないだろう。だがそれは、生命を弄ばれても許される、ということではない。
あるいは、実験台になることで罪を軽減、もしくは釈放する、という契約が交わされた可能性もある。そうなると、エリコがいま抱いた同情の念も、若干目減りせざるを得ない。自分が犯した罪を認識できていない、ということだからだ。
真実が奈辺にあるか、それはまだわからない。だがエリコは、この事件が自分の追いかけている謎の一端に間違いない、という確信があった。問題は、エリコの『超能力』をもってそれを追求しようとすると、なぜか意識の濁流に襲われ、それ以上の情報の追跡ができない、ということである。
なぜ、エリコの思念が阻まれるのか? エリコが言うところのサイコメトリー(本当にサイコメトリー能力なのかどうかはわからない)が働けば、そんな謎は一息に解けてしまうかも知れないというのに。
ジェームズ・ベケットの解剖は、ひとまずそこで終了となった。摘出された装置はアンダルの責任で、担当したジェルメーヌ・ホーリィ医師のレポート、そしてエリコ・シュレ―ディンガーの参考意見とともに、フェンリル本部が回収する事になっている。ベケットの遺体は、死刑囚という扱いの難しい問題であり、アンダルもさすがに処理は本部に任せざるを得なかった。
◇
謎は残しつつも、レンレンとアンダルの任務じたいは完了してしまったため、協力していたエリコもひとまず、これでやる事はなくなってしまった。エリコをホテルに送り届けると、レンレンはどこか名残り惜しそうに、ビークルの運転席のドアを開けた。
「……じゃあな。タラカンからここまで、世話になった」
レンレンは、出会った時のような無機質な表情に戻り、シートベルトを締めると小さくため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。何を僕は……」
そう、ひとりごちた時だった。いきなり助手席のドアが開いて、いま降りたばかりのエリコがまた乗り込んできた。レンレンは、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「何をしてるんだ!?」
「お前、今はヒマなんだろ?ちょうどいい。街を案内しろよ」
「はああ!?」
なんでそうなる、と訊くひまもなく、エリコはさっさとシートベルトを締めてしまった。レンレンは、元のトーンに戻って声を張り上げた。
「じゃあ僕はここまで、何しにお前を送ってきたんだ!」
「細かい事はいいんだよ。ほら、後ろ」
エリコが親指で後ろを指すと、タクシーが数台、はやくどけろとクラクションを鳴らしている。レンレンは悪態をつきながら、今降ろしたばかりの乗客を再び乗せて、市内へと辛子色のビークルを走らせた。
「このビークルは私用禁止なんだ。今すぐ本部に返さなきゃならない」
「なら歩けばいい。こんなビルのひしめく街は、元いたシティ以来で懐かしいんだ。一人で歩いても味気ないから、友達と歩きたいだろ」
友達。その一言が、レンレンの心を春風のように吹き抜けた。それと同時に、なぜかわからないが、動悸が激しくなる。胸の奥が熱くなるのを、レンレンは感じていた。
「……いま、友達って言ったのか」
「言ったよ。だからどうした」
「だからどうした、とは何だ! こっちは真面目に訊いてるんだ!」
通常営業の剣幕で怒鳴られて、エリコは腹を抱えて笑い始めた。
「友達は友達だろ! 何をそんな必死になってんだ!」
「お前はほんとに、一体何なんだ、エリコ!」
「いいから飛ばせ、なんか食いに行こうぜ」
エリコが窓に肩ひじをついて微笑むと、レンレンは真面目な表情で訊ねた。
「……ひとついいか、エリコ。その……僕は、こんな奴だぞ」
「こんな奴って?」
「だからその……ふつうの少年じゃない。お前みたいな。性格を除いて」
「最後が余計だな!」
ゲラゲラと笑って、エリコは車窓を流れる陸橋やビル群を眺めた。
「うん。言いたいことはわかるよ。お前はまるで、外見は女の子そのものだ。それなのに、『ついてる』ってんだろ」
「……まあその、そういうことだ」
レンレンは、アクセルを踏みながらそれまでの人生を思い出していた。子供の頃、ジャパン人の子供たちに、男女とか、妖怪とか、変態とか言われて、怒りと哀しさでどうにかなりそうだった。外見は確かに普通ではないかも知れないが、それがなぜ、人格まで否定される理由にされなくてはならないのか。
だが、エリコは最初から、そんな事は大して問題にもしなかった。どちらかというと、レンレンの攻撃的な性格に突っかかってきた。エリコは言った。
「だから何だ?」
エリコの思想は、その一言に集約されていた。
「じゃあ、外見がまともだったら、そいつは人格も認められるのか? 人種は? 国籍は? 髪の色は? 僕の故郷は、信仰している神様が違うって理由で、隣の国から殺人ドローンを放たれた。二一世紀末にだぞ!」
信じられないという様子で、エリコは目をむいた。
「よその国の奴らは人間が出来てない、出て行けというなら、じゃあお前の国の人間は罪を犯さないのか、と問えばいい。お前はよその国に行って、一点の間違いもない振る舞いができるのか、と問えばいい。一人の人間だって同じことだ。男で無精髭も生えず、胸が大きかったら異常だというなら、筋骨隆々たる男が下着泥棒で捕まるのは正常なのか、と問えばいい」
その喩えに、レンレンはつい吹き出した。
「あははは!」
その笑い方は、少女のものだった。それまでレンレンが殻に封じ込めてきた、少女の貌だった。
「そっか……なるほど、そうなんだ」
レンレンの表情は、自然なものに変わっており、それをレンレン自身も自覚していた。それまで悩んでいたことが、エリコの一言で氷解した、と感じていた。
「じゃあ、このままでいいんだな、あたしは」
「まあ、凶暴なレンレンの方が何となくしっくりくるけどな」
「何さ、それ!」
笑うレンレンの目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「わかった。あたしはこれでいいんだ」
「何回同じ事言うんだ」
「言うよ。だって、嬉しいもの。ようやく、自分が見つかったんだ」
レンレンは、自分の膨らんだ胸元を見た。十数年、せめてこの胸さえなければ、と思いながら、お金がある時も手術はしようと思わなかった。その理由がレンレンは、今ようやく理解できた。もちろん、仮に同じ境遇の人がいて、手術で取り払うというのなら、それはその人の決断だろう。何を選択しようと、それはその人の価値観なのだ。
「エリコ。街に出よう、一緒に」
「言っとくけど、手は繋がないぞ」
「当たり前だ、あたしにそんな趣味はない!」
二人は陸橋の上を飛ばしながら、大声で笑った。レンレンは女性ではない。男性かも知れないが、それ以前にレンレンはレンレンなのだ。
それは、レンレンにとって初めて、『友達』ができた瞬間だった。自分はこの瞬間のためにここまで生きてきたのだ、と心の底から思えた。それがエリコ・シュレーディンガーであることに、大きな喜びを感じていた。もう、離れても恐れる事はない。自分達はずっと友達でいられるだろう。何千キロメートル離れていたとしても、レンレンとエリコは友達だ、そう思えた。
だがそんな気分に水を差すように、運転席の窓ガラスをどこからか発射されたレーザーが撃ち抜いたのは、ビークルが陸橋の頂上に達した時だった。二人は一瞬で『友達』から『相棒』モードに切り替え、エリコはブラスターのセーフティーを解除した。




