(38)ジェルメーヌ
エリコの言わんとすることが、だいたいレンレン、アンダル、リネットにもわかってきた。そしてエリコが言葉を濁していたのは、それを受け止めるための、はたして緩衝効果があるのかわからない、クッションだったことも。
「もっとも、ここまで言ったことは厳密には、僕の推測、下手をすると妄想だ。形としての証拠は何もない」
エリコはそう言うものの、ひょっとして今その物的証拠であるかも知れなかった何かを、自分たちはバリクパパンに輸送している最中なのではないか。そんな疑念が、エリコを除く全員にあった。
◇
バリクパパン。先住民族バリク族によって開拓され、のちに疫病の蔓延で人口が激減。その後、オランダや日本による占領を受けたのち、歴史に翻弄されてきた都市である。
バリク族の末裔は土地の権利を海外の資本によって奪われ続けてきたが、第三次、第四次世界戦争の混乱、そして大崩壊による大国の衰退によって、ついに自分たちの権利を取り戻した。同じような事はアメリカ大陸の先住民族にも起きている。
海賊フェンリルの母体となった漁業組合、一部の林業組合は、主にバリク族の子孫によって運営されており、フェンリルの創設者三人のうち一人もまた、バリク族の老人である。
フェンリルが興るきっかけとなった黒旗海賊は、第四次世界戦争後にインド洋に現れた武力組織がインドネシア近海に定着したもので、味方の目印に小さな黒い旗を掲げていた習慣から、その呼称が定着した。
フェンリルもまた私設の武力集団ではあるが、のちのSPF海軍とは利害関係の一致もあり、黒旗海賊に睨みをきかせるために半ば暗黙の了解の形で、均衡を保つ関係にあった。
市内から北東寄りの浜についたエリコとリネットは、アンダルの手配でフェンリルが部屋を取ってくれた高級ホテルに、レンレンとともに移動した。リネットにとっては残念なことに、スイートルームは埋まっていたものの、エリコと隣り合ったエグゼクティブクラスの部屋が用意されていた。
これはマリーの港町をエリコの機転で守ってくれた事に対する、首領からの感謝のしるしだという。
「そんな部屋、僕は泊まった事もないぞ。アンダルは一応幹部だから、どうだか知らないが」
古風な、木製のホルダーつきの電子キーを手渡しながら、レンレンは豪華なロビーを見渡した。エリコは笑う。
「島を出たら、また野宿じみた日々になる。こんな贅沢、これで最後だよ」
「……いったい、ここまでどんな生活してきたんだ」
レンレンが問うと、エリコとリネットは目を見合わせて、半分うんざりしたように笑った。
「海に潜ったホバーバイクの中で眠った事あるかい、レンレン」
「酸素切れが怖いから、ごめんだね」
それだけ言って立ち去ろうとしたレンレンは、忘れてた、と振り向いた。
「アンダルから伝言だ。明日、市内の医者が例のジェームズ・ベケットの解剖を行うらしい。あんな事にならなければ、もうタラカン島で解剖は終わってたんだがな」
「そうだな」
「それでエリコ、お前にも解剖に立ち会って欲しいと言ってる」
そう言われたエリコは、生返事をしかけて即座に訊ねた。
「なんで!?」
「お前の能力はどうやら、アンダルも理解しかけているようだ。直に解剖に立ち会ってもらえば、何か情報が得られるんじゃないか、と期待しているらしい。もちろん、手術室内に素人は入れないから、ガラス越しの観察にはなるだろうけど」
エリコはこの時『タダより怖いものはない』という、矯正施設島でカトー少年から教わった東洋のことわざを、身をもって知ることになった。高いホテルに泊めてもらう以上、嫌ですとは言えない。リネットを振り向くと、もうすでに部屋で寛ぐ事しか頭にないようだった。
「行ってらっしゃい。あ、見てきたレポートはいらないからね。死体なんて戦場で吐くほど見てきたから」
首が吹っ飛んだ奴とかね、とキラキラした瞳で言われても、リネットへの敬意と恐怖が増すだけだった。
だが、これがリネット流の緊張緩和だという事は、エリコもわかっている。わざわざ自身の良識を疑わせるような、不謹慎な事を言ったのはそのためだ。
とは言っても、遺体の解剖などガラス越しであっても見たいものではない。どちらかというとアンダルは面白がってやっているのではないか、と思えてきた。
◇
その夜、リネットはエリコを最上階のフレンチレストランに誘ってくれた。ドレスコードとかは大丈夫なのだろうか、と不安だったが、他の客もわりとフランクな格好だ。しかしエリコは実のところ、こんな落ち着いた照明や調度のかしこまったレストランなど初めてなので、終始リネットにエスコートされっぱなしだった。
「ハーフコースだから、そんな大げさなもんじゃないわよ」
一〇皿を平気で超えるフルコースではなく、五皿くらいのコースだという。エリコはテーブルマナーについては一応勉強しているが、やっぱりリネットからの指導は飛んできた。どうしても『教官』が抜けないらしい。
「フレンチとはいってもね」
リネットは、前菜の皿に小綺麗に載せられた、クレープ生地のようなもので巻かれた緑のゼリー状の何かを前に苦笑した。恐る恐る口に運ぶと、爽やかな香味と微かな甘味が舌に広がる。いったい何なのかわからないが、とにかく普段食べているような、得体の知れない化学合成の材料を焼いて塩をぶちまけました、的な『食糧』とは違う。
百年前のフランス料理の写真を見ると、野菜も魚も肉も、自然の材料を使っている。二一〇八年現在であってもそんな料理を食べている人は、少なくとも地球上にという意味では存在しているが、『ごく少数』という表現が陳腐に思えるほど、少数の天上人だけだ。環境、文明の破壊は、食文化も破壊したのだ。
それでもスープの次はなんと、魚のローストが出てきた。以前、リネットと獲った魚とは食感も味も違う。ギャルソンによると、もともとジャパン近海にいたような種類のスズキという魚らしい。大崩壊後の数年間の海水温低下により、南下してきたのだという。
もちろん、どこかの金持ちのテーブルに並ぶような品質のものではない。いちおう放射能汚染レベルは『大丈夫』となっているだけの代物だ。ホテルのレストランで供されるメニューが、こんな有り様である。もうとっくの昔に、文明というのは滅んだのではないだろうか、とエリコは考えた。
エリコにとっては料理より、リネットと夜景を見ながらこんな時間を過ごせることが、ドキドキする体験だった。紅い化学合成ワインのグラスを傾けるリネットが、とても大人に見える。
ひょっとしてそのあと、リネットの部屋に招かれるのではないだろうか、と少年期らしい期待を込めた妄想を膨らませかけたが、食後のコーヒーを飲んでいるときにリネットの口から告げられたのは「食べたら子供は早く寝なさいね」という、学校の先生の散文的な一言だった。三〇歳くらいに思えてきた、などと言ったら窓の向こうまで蹴り飛ばされそうなので、エリコは黙って残念そうにうなずいた。
ちなみに翌日の朝食の席で訊いたところ、リネットはマッサージのお姉さんに全身をもみほぐしてもらったあと、ルームサービスでワインを頼み、それは優雅なひとときを過ごしたそうである。
◇
翌朝レンレンからの連絡を受けたエリコは、いちおうリネットに出かけてくると告げておいて、レンレンが運転する迎えの乗用ホバービークルに乗り込んだ。辛子色の、なんとなく可愛らしいデザインだと思っていたら、レンレンしか運転したがらないフェンリルの共用ビークルだという。
「よく眠れたか」
ぶっきらぼうなレンレンにしては、感心するほどの朝の挨拶である。エリコも、ごく普通に「ああ」とだけ返す。
レンレンは黙っていると、本当に女の子にしか見えない。白いロングヘアを、今日は黒いノースリーブに垂らしている。胸は同世代の女の子と比べても、明らかに大きい。顔立ちも美人といっていい部類だ。もし、二人きりで静かな部屋にいたら、何か間違いを起こしてしまうのではないか、とエリコがあらぬ不安を覚えたとき、レンレンの一言がその全てをぶち壊してくれた。
「なあ、リネットって、バストあるよな。お前ひょっとして、生で見たのか、エリコ。教えろ」
なるほど、こいつは間違いなくただの少年だな、とエリコは肩を落とした。
やがてレンレンの駆るビークルは、予想外の場所に到着した。そこは、白い壁がお洒落なレストランだった。三角屋根が可愛らしい。
「ん? 病院に行くんじゃないのか」
エリコが訊ねると、例によって「いいから降りろ、歩け」という、どちらかというと誘拐した人間に対する犯人のような指示が飛んできた。外見の可愛らしさとのギャップが凄すぎる。
レンレンに案内されるままレストランに向かうと、「本日休業」の札が下げられていた。構わずレンレンはドアを開ける。すると、丸く白いテーブルで、アンダルが呑気にコーヒーを飲んでいた。テーブルの上に遠慮なく置かれたグロック17-22センチュリーカスタムが、エレガントな空間で異彩を放っている。
「よう」
「病院に行くんじゃないの?」
エリコは当然の質問をした。今日はありがたいことに、強奪してきた死刑囚の遺体の解剖を見学させてもらえる日である。すると、厨房側からコックというよりは、まるで手術の執刀医のような格好をした、美しい女性が現れた。肌はエリコより白く、長い髪はリネットよりも鮮やかな金色だ。そして、透き通ったブラウンの瞳と彫りの深い顔立ちは、なんとなく高貴な印象をもたらした。
「アンダルさん、こちらが噂の少年?」
「ああ。もう色々と世話になってる」
アンダルは立ち上がると、エリコに対して女性を紹介してくれた。
「エリコ、この人が本日の『執刀医』だ」
「はじめまして。ジェルメーヌ・ホーリィよ」
ジェルメーヌ、と名乗ったエキゾチックな女性は、エリコに握手を求めた。エリコはリネットより高身長で、おそらく年齢も上のジェルメーヌに、何か圧倒されるような印象を受けた。
「はじめまして。エリコ・シュレーディンガーです」
「神秘的な名前ね」
「……ありがとうございます」
エリコは困惑しつつ、その美しい手を握った。その瞬間、エリコは何か、背筋に電流が走るような感覚を覚え、わずかに後ずさってしまった。ジェルメーヌは笑っている。
「アンダルさんの無理強いに、付き合うことないのよ」
「無理強いとはご挨拶だな」
「無理強いだわ。こんなところで解剖をしろだなんて」
そのジェルメーヌの一言で、エリコはまさか、とレンレンを見た。レンレンも目を丸くして、アンダルに詰め寄った。
「病院に移動するために、ここに集合したんじゃないのか!?」
「バーカ。タラカン島での出来事を思い出してみろ」
アンダルは、ジェームズ・ベケットの遺体を持ち込んだ病院が、何者かに即座にマークされた事を指摘した。フェンリルが極秘に遺体を運び込んだはずが、どうして容易にばれたのか。
「何者かは知らんが敵さんは、どうやら優れた諜報部隊でもあるらしい。俺達が遺体を、殺されたモグリの医者のところに持ち込む情報を、何らかのルートで掴んだ」
「ゆうべ本部の人たちに、市内の病院に持ち込むって言って回ってたじゃないか!」
「ありゃ嘘だ。何人かは本当にそう思ってるだろうよ。ちなみにこのレストランだが、先々月に潰れた店だ。ここはどうも食い物屋には鬼門らしくてな、何の店を開いても一年ともたない。不思議だが、そういう場所ってのはあるもんだ」
本当にどうでもいい話の方が、本題より長い。レンレンは呆れて訊ねた。
「設備はどうする。こんなところで解剖なんてできるのか」
「大きな冷蔵庫が奥にある。俺達全員が入っても大丈夫だ」
「なにー!?」
レンレンとエリコは、声を揃えて抗議した。離れた所から観察する、という話ではなかったのか。アンダルは、まるで悪びれるふうもなく言った。
「お前たち、自分の三倍生きてる海賊の言葉を額面どおり信じたのか?」
「フェンリルの掟、嘘は言わないってのはどこに行った!」
「嘘だ、と正直に明かしたら、それは真実だからな」
とんでもない野郎だ、とレンレンとエリコは口を揃え、アンダルは手をパンパンと叩いた。
「さあ、料理は鮮度が第一だ。無駄話は後回し、始めようか」
アンダルに押し切られ、仕方なく二人の少年は、レストランの奥にある広い冷蔵庫に足を踏み入れた。薄暗く、温度は病院の手術室と同じくらいになっている。冷蔵庫の真ん中には、台の上にジェームズ・ベケットの遺体が、うつ伏せの状態で寝かされていた。
「ジェルメーヌは戦場を渡り歩く、いわゆる『国境のない医師』でな。半年くらい前、中東地域でようやく紛争が解決した地域から、ここサウスパシフィック連邦にやってきた」
ジェルメーヌが解剖に用いるメス、コッヘル、ペアン等を確認するなか、アンダルはかいつまんで経歴を説明してくれた。
「二ヶ月くらい前、スマトラで紛争があっただろう。幸いすぐおさまったが、緊張はまだ続いている。それに、ここいら全体の雲行きも怪しくなってきたからな。その時のために、留まっているんだ」
「すごいな」
エリコが素直すぎる感想を述べると、ジェルメーヌは笑った。
「私にはこれしかできないもの」
「でも、どうしてフェンリルと関わってるんだ?曲がりなりにも海賊だ。国境のない医師が、海賊と関わってるなんて、イメージは良くないんじゃないのか」
レンレンは、自分の組織に遠慮なくそう言った。アンダルも特に咎める様子はない。ジェルメーヌは、悲しげな表情を浮かべた。
「戦争で、いちばん融通がきかないのは何だかわかる? 国家よ。国家は、方針を容易には変えられない。戦争をやめるべきだと誰もがわかっているのに、やめられないのが国家というもの。ようやくその選択を取るころには、おびただしい血が大地に吸い取られている。いちばん私達の話を聞いてくれたのは、誰だかわかる? テロリストよ」
レンレンの目を見て、ジェルメーヌは悲しげに言った。
「フェンリルは、まあ完全に正義の組織ではないでしょうけど、私は信用できると思ったから、こうして協力しているの」
会話をしながらも、その手はすでに遺体にメスを入れられる状態になっていた。あまりに手早く、ジェームズ・ベケットの脊椎部に刃が走り、エリコたちは身構えるヒマもなかった。
メスが入っても、すでにジェームズの身体からは血が吹き出す事はなくなっていた。二二世紀の防腐処理は、過去のようなホルマリン処理を必要としなかった。ジェルメーヌは慎重に、脊椎周辺の皮膚をはがしてゆく。その時点でエリコとレンレンは、庫内から逃げ出したくなっていた。
だが、硬化が進んでもはや何かの物体にしか見えない遺体の解剖は、少年たちが恐れをなしたほどの悍ましさでもなかった。ベケットの遺体は後頭部から延髄にかけて、内側から破裂した痕がくっきりとわかり、わけのわからない死を迎えた故人に対する、哀悼のような感情さえわき起こった。
いくらか解剖の光景にも慣れ始めたころ、ジェルメーヌの手が止まった。開いた組織を支えるのに用いる器具で、ジェルメーヌはその物体の破片を引っ張り出した。
それは、小指の爪よりさらに小さな、人工物の破片だった。一見すると、誰でも皮膚の下に埋め込んでいるマイクロチップに見えるが、明らかにそうでない事はジェルメーヌには一目瞭然だった。
「でたわよ、アンダル」
ジェルメーヌは慎重に、ペトリ皿の中央にそのチップを置いた。そのチップに意識を向けた瞬間、エリコは、頭痛に見舞われて冷たい床にうずくまった。




