(33)死因
エリコとリネットが由来不明の人工タンパクのフライをかじりながら、木陰で涼んでいた時だった。エリコは立ち上がると、鼻をきかせる動物のように周囲を見渡した。
「雨がくる。それもヤバめのやつだ。どこかに入ろう」
「あなた気象予報士になれば? 伝説を築けると思うわ。ノアの方舟だって、大雨警報がきっかけで造られたんでしょ」
「的中率一〇〇パーセントの気象予報士か」
一〇〇年後の教科書に載れそうだ、と笑いながら、二人は近くにあった三階建てビルに避難した。
三階のカフェ、などという洒落た空間にはほど遠い、浅黒い肌の地元民が昼間からビールをあおっている雑然とした店に席を取ると、リネットは眼下に広がる街並みを眺めた。通りを歩くと、人間社会は何事もなく続いているような錯覚を覚えるが、市街地の外に目をやると、戦争で荒廃したまま放置されている廃墟が広がっている。
世界中でそんな区域はたいがいスラム化しているが、スラムでも人が住んでいるだけましだ、と冗談で言われる事がある。人口そのものが、世界規模で減少しているからだ。
「このあたりは地政学的要因で、戦火を免れた方だ」
エリコはハッカ味のソーダを飲みながら、廃墟の外に広がる山林や海を眺めた。
「僕がいたシティの周辺は悲惨だった。歩けば死体を踏んづけて、出て来れば何かしらの感染症を拾ってる、なんて言われたもんだよ」
「シティは事実上、中世の城塞都市よね。高い壁と浄化システムで出来た」
「中世以下だよ。シティの排水、廃棄物はシティの外の処理施設に持ち込まれる。スラムの人間が、雀の涙みたいな配給と引き換えに、汚染水やゴミを処理させられているんだ」
孤児院暮らしとはいえシティの快適な生活を享受していた自分に、それを言う資格はないけれど、とエリコは言った。
「産業革命の時代から、何も変わっちゃいないよ。誰かの快適な生活は、誰かの犠牲のうえに成り立っている。そしてその罪悪感を糊塗するために、こう言うのさ。『私達が彼らに賃金を支払っているから、彼らは生活できるんだ』ってね。僅かな賃金を、環境汚染や感染症のリスクと一緒に、スラムの人々に押し付けながら」
こんな文明、そろそろ滅んでいい潮時だろう、と語るエリコの瞳が、あまりにもクリシュナと同じで、リネットは背筋が寒くなった。人類など滅びればいいと語るのは、皮肉ではなく本当に、心の底からそう思っているのではないのか。
急に暗くなった空から、エリコの『予報』どおり、大量の雨が降り始めた。まさに沛然たる豪雨、という様子で、眼下の通りでは人々が慌てふためいて、軒下に避難するのが見えた。エリコは気の毒そうに笑う。
「本来は雨季じゃないからね」
「よく言われる、人工ブラックホールが原因ってやつ?」
「ああ。あの出来事で、いわゆるブリューワー・ドブソン循環……低緯度から高緯度への大気の循環に異常が起きた。要するに、それまでの気象の常識が通用しなくなった」
「あんた、そういう雑学どこから学んだわけ?」
話が重くなるのを逸らす意味もあって、リネットは訊ねた。エリコの答えは、少しばかり予想外のものだった。
「路地裏で怪しい取り引きをしてるような連中の中には、学者もびっくりするほど豊富な知識を持っている奴らがいる。実際、もと大学の助教だかで、貴重な考古学発掘品を売りさばいてるおっさんがいた」
「そのまま大学にいれば良かったでしょうに」
「なんでも、気候と巨石遺構の関係について新しい学説を発表して、偉い人達と衝突して、頭にきて辞めちゃったんだそうだよ」
エリコは、その人物との会話を思い出しながら笑い出した。
「僕らが考えてる以上に、すごい見識を持った人間ってのはいるのさ。その人の学説は結局正しくて、その栄誉は彼と敵対していた陣営が、ちゃっかり享受したそうだよ」
「その人、訴えなかったの?」
「訴えたさ。でも結局、学界の権威構造には勝てなかった。考古学の世界も単なる御都合と権威主義の掃き溜めだ、あいつら自身が五千年後に権威主義者の標本として発掘されるだろう、だってさ」
自分で思い出したジョークで腹を抱えて笑い始めるエリコに細い目を向けつつ、リネットはコーヒーと名のついている、炭のような液体のカップを傾けた。ようやく笑いがおさまったエリコは、ぬるくなったソーダで喉を潤した。
「今や教科書にも載ってる、考古学研究家のグラハム・ハンコックがいるだろう。あの人は百年前、オカルティスト扱いされていたけれど、今その研究の七割近くが、ほぼ正しかった事が証明されている。残りの三割も、解答は間違っていても、問いかけ自体は正しかったそうだ」
要するに当時の人間は、彼の言っている事を理解できなかったんだよ、とエリコは意地悪く笑った。
雨は止む気配がなかった。ホバーバイクは地元の漁師にお金を渡して係留してもらっているが、この雨では船着き場まで移動する間に濡れてしまう。
「雨はどうも、テレーズに追いかけられてたのを思い出すな」
「そういえば彼女、結局その後どうなったのかしら。任務という意味では、失敗したわけでしょう」
「いっそ軍なんか辞めて、フェンリルに入ればいいんじゃないの? へたな海賊より海賊じゃん」
それは下手をするとフェンリルがテレーズに乗っ取られ、SPF海軍も手に負えない『ファイアストン海賊団』が爆誕するのではないかと、戦慄の未来を予想してリネットはかぶりを振った。
◇
行き倒れていた白人の男の遺体は、レンレン達がフェンリルの息のかかった病院に運び込んで、モグリの医師によって検死が行われていた。だがその過程で、驚くべき事実が判明する。
「死刑囚だって!?」
ビークル内で冷房をきかせて待機していたレンレンとアンダルは、顔、指紋認証による身元確認の結果を無線で受けて驚きを隠せなかった。アンダルは冷静に訊ねた。
「名前は」
「ジェームズ・ベケット、二七歳。結婚詐欺を繰り返したのち強盗殺人を犯して、ニュージーランド州刑務所で服役中だったようだ」
「警察の奴らは脱獄犯を追ってたのか?」
それなら、こそこそと動いているのも辻褄が合う。死刑囚に脱走されたとあっては、警察の信用に関わるからだ。
「なるほど、身元についてはわかった。それで、死因は何だ」
「それなんだが」
医師は無線の向こうで、言葉を途切れさせた。アンダルとレンレンが訝っていると、重い口を開いた。
「身元より、こっちの方がヤバいかも知れん」
「どういうことだ」
「死因は脳と脊髄の損傷。それも、埋め込まれていた何らかの装置が原因らしい」
医師によると男の脳をスキャンした結果、右脳と左脳を橋渡しするように、奇妙な装置が埋め込まれていた。さらに脊髄にも、埋め込みチップとは異なる極小の何かが組み込まれており、その二つが何らかの作用をもたらした結果、脳組織や脊髄が破壊されたのだ。
「障害者用の医療器具か?」
「あり得るが、それにしても組織が破壊されるなんてのは例がない」
すると、黙っていたレンレンが口をはさんだ。
「本部からの指示の段階では、追跡対象がどんな奴かまだわかってなかったんだろ」
「ああ。怪しい奴を警察より先に確保しろ、としか言って来なかった」
「じゃあ、本部が問題にしてるのは、こいつに埋め込まれたその器具ってことになるな」
レンレンのいう本部とは、カリマンタン島東部バリクパパン市にある、フェンリルの総本部のことである。ワイゲオ島、バタンタ島近辺を仕切るエドモンドなどは各地の幹部のひとりだった。
「そうだな。おそらくフェンリルに、どこからか追跡依頼があったんだろう。それを、警察が嗅ぎ付けた。だから、追跡対象がまだ確定していなくても確保を急がせたんだ」
「それって要するに、国が絡んでるヤバい話って事だろ?」
「ああ。ヤバい」
そのわりには大して緊張している風も見せず、ビークルの窓を叩く雨をアンダルは睨んだ。
「まあ、何にせよこの死体を本部に送り届ければ、ひとまず俺達の任務は終わりだ」
「僕達が運ぶの!?」
「そう指令が届いた」
黒い革のカバーをかけた通信端末の文面を、アンダルは示した。レンレンはうんざりしたように片肘をつく。
「本部まで何百キロあると思ってるのさ。飛行機使っていいの?」
「そんな気前よく交通費が降りると思うか? それに現代は海路が中心、飛行機なんて半分過去の遺物だ」
それは皮肉でもあるが、事実でもあった。大崩壊以降、地球各地で電離層に異常が発生しており、異常な電磁気の嵐によって航空機が制御を失い、墜落する事故が何十件も発生しているのだ。船舶の速度、操舵性、燃費向上も相まって、よほど理由がない限り、高高度を飛ぶ飛行機を利用する人間はいなかった。
「百年前の客船、貨物船は、時速三〇キロメートルがせいぜいだったそうだ。特別な高速船でも八五キロメートル。今はその気になればだが、四〇〇キロメートルを超える」
「この海域で、その法令違反な速度でぶっ飛ばしても、二時間はかかるよね」
そのときレンレンは、ふとエリコ・シュレーディンガーとリネット・アンドルーのことを思い出した。彼らは、ちっぽけな軍用ホバーバイクで千キロメートル以上を旅してきたという。リネットは軍人だからともかく、エリコ・シュレーディンガーはそれほど鍛えているようにも見えない。
狭く、息苦しいキャノピーの中で、何時間、何日と耐える事が、自分にできるか。そう考えたとき、レンレンは肚を決めた。
「わかったよ。警察に嗅ぎつけられる前に、さっさと運ぼう。高速艇、アンダルが手配してよ」
「おっ、いい声になってきたな、レンレン」
「バカにしてんのか!」
いきり立つレンレンだったが、ふいにアンダルが人差し指を立てて黙らせた。耳をすまし、周囲に神経を張りめぐらせる。
「……なにさ」
「いいか、レンレン。ワン・ツー・スリーで出る。そのあと即座に、病院にダッシュするぞ」
「えっ?」
「ワン」
レンレンが問いただす間もなく、アンダルは旧式のグロック17を構えると、勝手にカウントを始めた。レンレンもすぐにブラスターを握ると、ドアのコックに手をかける。
「ツー」
「スリー!」
二人は鮮やかにドアを開け放つと、土砂降りの駐車場に飛び出し、そのまま病院に向けて駆け出した。停車していたビークルに、三つの閃光が走ったのは、ほぼ同時だった。
ビークルはレーザーにエネルギーパックを撃ち抜かれ、青白い炎とスパークを発して爆発した。病院の内外にいた一般人たちが悲鳴を上げる。
「柱、壁に隠れろ!」
アンダルは杖をついた老人を柱の陰に隠れさせると、レーザーが飛来した方向に視線を走らせた。病院の周りの塀や樹木の陰に、かすかに人影が見える。だが、それきり影は姿を見せる気配がなかった。
「どうなってんだ」
レンレンは一歩踏み出して様子をうかがったが、それ以上撃ってくる気配がない。すると、アンダルが叫んだ。
「地下だ!」
叫ぶなり、アンダルは駆け出した。レンレンも一瞬で理解した。地下には、そろそろ検死を終えているであろう、行き倒れていたジェームズ・ベケットの遺体がある。
「警察!?」
「違うな。別の奴らだ。おそらく黒旗海賊でもない」
「じゃあ、誰!?」
「知らん!」
地下への階段をけたたましく鳴らしながら、二人は通常の解剖では使用されない手術室に急いだ。だが、レンレンが通路に出ようとしたとき、レーザーが閃いてジャケットの端をかすめた。
「くそっ!」
「いい腕だ」
「感心してる場合か!」
それもそうだ、とアンダルは、内ポケットから折りたたみ式の手鏡を通路に出して、様子をうかがった。だが、手鏡は即座に粉砕されてしまう。焼け焦げたフレームを見て、アンダルは舌打ちした。
「参ったな、髪の崩れがチェックできん」
「そんな天パ、チェックする必要あるの?」
「お前、出会った頃はもうちょい素直だったよな」
ぼやきながら、アンダルは一瞬で通路に躍り出た。
「あっ、バカ!」
レンレンがぼやく間もなく、激しい発砲音が通路に響いた。アンダルの放った銃弾は、通路奥の角にいた何者かのブラスターを弾き飛ばす。間髪入れず踏み込むと、アンダルは即座にトリガーを引いた。
血しぶきが白い壁を鮮やかに彩り、その向こうにいた何名かが、後退しながらブラスターを放つ。アンダルは壁の陰に隠れながら、撃ったばかりの死体を見て驚いた。それは、レンレンより少し歳上かというくらいの、若いブラウンの髪の女だった。
「あんまり男に当たり散らすと、いい事ないぜ」
もう恋愛を体験する事もない骸に、アンダルは悲しげな視線を向けた。
◇
「屋台の火事かな」
エリコは、一区画むこうの大きな建物の敷地から上がった煙を睨んだ。リネットは、すぐにそれが何らかの爆発によるものだと理解した。
「そういう燃え方じゃない。たぶん、乗り物ね」
「レンレンが呼び出しくらってたのと、関係ありかな」
ごく単純に、エリコはそう考えた。警察が何かコソコソと動いていた事、レンレンがフェンリルから指令を受けた事、そして今、上がっている火の手。事情は知らないが、何が起きているのかはだいたい察しがつく。リネットは追加で頼んだ、レモン風味の炭酸水を飲み干した。
「あんたの手なんか借りない、って言ってなかった?あの子」
「僕は火事を見物に行くのが趣味なんだ」
エリコが席を立つと、リネットは笑った。
「じゃあ私は、生徒が馬鹿なことをしでかさないか、巡回してる先生の役かしら」
「冗談でしょ、この先生の方が百倍何やらかすかわからない」
「へー。あなたも言うようになったじゃないの」
リネットは紙幣を二枚取り出すと、カウンターの初老のマスターに突き出した。
「お釣りはいらないわ」
「一枚足りないんですが」
先に降りてるよ、とエリコがさっさといなくなる中、リネットは精一杯威厳を保ち、若干やけくそでもう二枚の紙幣を取り出してリテイクに臨んだ。
「お釣りはいらないわ」
「どうしてもそれが言いたかったんですか」
「そうよ」
リネットが颯爽と出ていく様子を、店にいた男たちは怪訝そうに見送った。




