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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第四部
32/52

(32)行倒れの男

 レンレンと名乗った「少年」が、少女そのものの瞳でエリコを見た。その金色の瞳が、かすかに煌めいたようにエリコには思えた。レンレンは、何事もなかったかのように紅茶を傾ける。

「まだ口の中は甘いか」

「えっ?」

 エリコが、どういうことだと思った時にはすでに、それまで舌を支配していた甘味が、すっかり消え失せていることに気がついた。

「まさか……」

「まさか、なんだ?」

 レンレンの笑みには、わずかに棘のようなものが含まれている。エリコは確信し、カップをレンレンに突き出した。

「お前が僕に、何かしたって事か」

「何かって?」

「たとえば、僕の神経に作用して味覚を変えるとか」

 レンレンは無反応で、驚いたのはむしろリネットの方だった。

「まさか」

「こいつは今、自分を『方舟』と言った。……つまり、クリシュナや僕と同類の何か、ということらしい」

「それって、つまり」

 そこから先の言葉を、リネットの理性と常識が阻んだ。そんな事がある筈がない、と自分に言い聞かせようとした時、レンレンはあっさりと言った。

「ああ。安っぽい表現だけど、超能力というやつだろうな」

「エリコと同じ……」

 リネットは、ブロンクス准将の一件を思い出していた。エリコを殺そうとしたブロンクスは、誰もトリガーを引いていないのに、どこからか発射されたレーザーに貫かれて死んだのだ。だが、レンレンの言う『超能力』は、エリコのそれとは異なるものらしかった。

「つまり、レンレン。お前は対象の、おそらく五感に作用して、錯覚を起こさせる事ができるんだな」

「錯覚じゃない。ついでに言うと、干渉できるのは五感全てでもない。有効なのは味覚、聴覚、そしてその二つに比べて効果は弱いけれど、視覚にも干渉できる」

 レンレンが仏像のように両手を合わせると、室内にはヒンドゥー寺院に流れるような、金属楽器の妙なる音色が微かに響いた。それは、驚きの体験というほかなかった。

「どこかにオーディオ装置が仕掛けてあるんじゃないのか」

「バーカ」

 後ろから聞こえたリネットの言葉に、エリコは振り向いて睨みつけた。

「バカとは何だよ!」

「私何も言ってないわよ」

 そのリネットの目の動きで、嘘は言っていないことがエリコにはわかった。レンレンが、声は出さずに腹を押さえて笑っている。

「お前の仕業か」

「くくく、これでわかった?」

「お前の能力は、対象を選べるって事なんだな」

「そう。狙った相手の視覚、聴覚、味覚に直接信号を送ることで、音や光、味を体験させられる。対象が少ない方が、僕は疲れないで済むけどね。一〇人、二〇人となると、けっこうな労働だ」

「それを僕らに明かしていいのか? お前の商売の邪魔を始めるかも知れないぞ」

 その指摘に、レンレンは不敵な薄笑いを浮かべるだけで、驚いたのはまたもリネットだった。

「商売!?」

「何をしてるのかはわからないけど、こいつの服装を見ろ、リネット。この、あばら屋に似つかわしいとは言えないくらい、きっちりしている。そいつの懐具合は、靴でわかる」

 エリコは、レンレンの履くライトグレーのシューズを指した。ブランド品の、そこそこ値の張るモデルだ。

「さすがの洞察力だね。けど、お前も似たような事をしてたんだろう、エリコ」

「さあね。お前こそ、どうせ詐欺まがいの事をやってるんじゃないのか」

 レンレンは、ぎくりとして形のいい唇を閉じた。エリコは指を立てて、即席の推理を披露した。

「フェンリルに所属しているなら、詐欺のたぐいは許されていないだろう。とすれば、考えられるのはむしろ逆だ。詐欺や盗み、あるいは脅迫を商売にしてる奴らを、お前の能力で逆に引っ掛けて、フェンリルに突き出している。違うか」

 その推理にレンレンは、憤りを露わにして立ち上がった。

「どうしてお前は、いちいち的確に指摘してくるんだ。腹立たしい」

「そりゃ、こっちのセリフだ。いきなり人をこんなあばら屋に引き込んで、勝手に怒りを向けて、どういう了見なんだ」

 エリコは、冷めかけた紅茶を流し込むと腕を組んでレンレンを見た。レンレンは、少しだけ気まずそうな顔を見せて、テーブルにつく。エリコの質問は続いた。

「僕と同じ年齢ってことはお前も、矯正法で施設に連れて行かれた手合いか? いや、違うな。お前の力があれば、脳を検査している医師の感覚を操るなりして、矯正施設行きを免れる事もできたかも知れない。具体的にどんな方法を使ったのかは知らないが、そうだろう?」

 それが図星だったのかどうか、静かな室内にレンレンが唾を飲み込む音が聞こえた。リネットは黙って二人のやり取りを見守っていた。エリコは、レンレンの喉元を指さした。

「わからないのは、僕に憤る理由だけどな」

「……ルーカス」

「なに?」

 突然レンレンの口から出た名前に、エリコとリネットは目を見合わせた。

「どうやって、あいつが裏切っていることに気付いた、エリコ・シュレーディンガー」

「僕を軍に売ろうとした、ルーカスの事か?」

 どうやら、ルーカスの件はすでに末端の構成員にまで周知のようだった。仁義にもとる行いをすればどうなるか、という見せしめの意味もあるだろう。

「そうだ。お前の能力によるものか、エリコ」

「まあ、それもあるかも知れないけどね。あいつが、もとコンピューター関連企業のエリートだった、という情報と、僕らとの会話の中で見せた、何とも言えない不満げな表情。後付になるけど、ああ、こいつ腹に一物持ってる奴だな、ってわかったよ」

 過去、裏社会の人間たちと関わっていたエリコにとって、人間を観察し、些細なデータを集めて推理に繋げる事など、造作もないことだった。そしてエリコは、ようやくレンレンの憤りの正体が何となくわかり、頷いた。

「なるほど、わかった」

「……何がだ」

「言わないでおくよ。今度こそ殴られるかも知れない」

 エリコがレンレンのプライドを慮っているらしい事が、逆にレンレンには堪えた。それはつまり、レンレンの心の内を見透かした、ということだからだ。レンレンが、わずかにうなだれる様子を見せた、その時だった。レンレンのカーゴパンツから、木琴のような音色の、調子のいい着信メロディーが流れた。

「!」

 慌ててレンレンはピンク色の通信端末を取り出すと、建て付けの悪そうな古いドアの奥に引っ込んでしまった。ドアごしに誰かと会話しているのはわかったが、その内容までは聞き取れない。リネットは、怪訝そうにエリコの目を見た。

「なるほど。あの子も施設送りにされる所だったわけか」

「僕だって、油断してなければ送られずに済んだけれどね」

「あなたは、孤児院のシスターを守るためにわざと送られたんでしょ」

 自分の、ある種の優しさを指摘されることは、エリコにとって必ずしも楽しい事ではなかった。優しいということは、裏を返せば甘い、ということにも繋がるからだ。

 

 少しして、レンレンは通信端末を手に戻ってくると、相変わらずの調子で言い捨てた。

「話は終わった。……手間を取らせた。もう出て行っていい。あと何かあったら、このアドレスに連絡しろ。フェンリル団員が駆けつける」

 メッセージの送信先と通話ナンバーを走り書きした雑紙を、レンレンはテーブルのソーサーの脇に押し込んだ。およそ、客人に対する態度ではない。エリコは、呆れるように笑った。

「まあ、一宿一飯というわけじゃないが、こうしてお茶をご馳走になった立場だ。何か手伝う事はあるかい」

「え?」

「仕事が入ったんだろう。フェンリルには僕も世話になってる。できる事があれば――」

 すると、レンレンはハンガーのジャケットを無造作に羽織って、エリコにまた鋭い視線を向けた。

「お前の力なんか借りない」

「あっそ」

「ひとつだけ答えろ。どうして、このタラカン島に来た。目と鼻の先に、カリマンタン本島があるのに」

 レンレンの質問に、エリコは即答できなかった。エリコ自身としては、大した理由もなかったからだ。

「さあね。本島だと、ここよりSPF軍がうろついてるかも知れないし。それ以上の意味はない」

「僕の視界に入って来たのは、まったくの偶然か」

「そりゃそうだ。僕は君の事なんて知らなかったもの」

 エリコがそう答えると、レンレンはなぜか少しだけ残念そうな顔を見せた。緋色のハンチング帽をかぶり、出会った時と同じ格好になる。

「テーブルの上はそのままでいい。まだ寛いでいたければ、好きにしろ」

 それだけ言うと、レンレンは「客人」を残したまま、開けっ放しのドアを出て行った。エリコとリネットは、肩を竦めるしかなかった。



 結局エリコ達はすぐにレンレンの住居を後にした。再び街に出て、エリコが雑貨屋で、姿を多少なりともごまかすための帽子や眼鏡などを物色している時だった。突然パトカーのサイレンが鳴り響き、濃紺の制服を着た警官たちが走ってきたので、エリコはSPF軍が警察まで巻き込んできたのかと、一瞬蒼白になった。だが、警官達はエリコになど一瞥もくれず、人混みに分け入っていく。三〇代くらいの警官が、ヘッドセットにぼやくように言った。

「いません。見失いました」

 どうやら、誰かを追跡しているらしい。エリコは急いで購入したグレーのソフト帽を被ると、それとなく若い警官をつかまえた。

「何かあったの?」

「何だ、君は」

「殺人犯が逃げたとかじゃないよね?もしそうなら、おちおちショッピングもできやしない」

 わざとらしく周囲に聞こえるように声を出すと、島民たちの間でざわめきが大きくなる。警官はエリコに舌打ちしながら、他の警官と相談を始めた。やがて、警官は市民に向かって声を張り上げた。

「お騒がせして申し訳ありません! 警察側の手違いだったようです。何も危険はありません」

 それだけ言うと、さっきの警官はエリコを睨みつけて、タイヤ式のパトロール用地上車に乗り込んだ。百年以上前から変わらないサイレンを響かせて、あっという間に警察はいなくなった。


「どうしたの?」

 ブルーやグリーン、ピンク、イエローなど、得体の知れない毒々しい色の焼き菓子が詰まった袋を片手に、リネットがエリコのもとに戻ってきた。口元にかすを付けたままの姿は、およそ数日前まで軍の少尉だったとは思えない。

「さあね。探りを入れたけど、あまりわからなかった。ただ、普通でない何かを警察が追っているのは確かだ」

「軍じゃないって事は、少なくともあなた絡みの何かではないって事か」

「まあ、警察に追われるだけの事は十分やらかしてる気もするけどね」

 施設島からの脱走、海賊や軍との戦闘、そしてエリコ達の責任ではないとはいえ、多数の死傷者も出してしまった。少なくとも、取り調べを受けるくらいの条件は揃っている。

 だが、今のところエリコの「アンテナ」には、少なくともエリコ自身の危険信号は受信されていなかった。以前よりも感覚が鋭くなっている実感があるにも関わらず、である。

「ひょっとして、レンレンの件と関係ありかな」

「さっき呼び出し食らってたやつ?」

「まあ、手出しはやめておくか。またブチ切れられたらかなわない」

 そう言って笑うエリコだったが、突然何かを察知して、リネットを押しのけるようにして後方を振り向いた。

「どうひたの?」

 リネットも警戒態勢を取るが、いい大人がお菓子をくわえたままでは、いまいち締まりに欠ける。エリコは、金物屋と洗濯屋の間にある路地を睨んだ。

「気のせいか」

「でも、あなたの言う『気のせい』は説得力あるからなあ。半分異星人らしいし」

「異星人だって、疲れたらカンが鈍る事もあるだろ」

 とは言いながらもエリコは、考え過ぎか、とかぶりを振った。時計を見ると、一二時三五分である。

「リネット、午後三時には島を出る」

「わかった」

 だんだん放浪生活にも慣れてきたな、と思う二人だった。



 レンレンは海賊フェンリルの四〇代の団員、アンダルとともに裏路地を移動していた。

「警察の奴らは見失ったらしいな」

 黒いスーツにグレーのシャツ、浅黒い肌に黒い天然パーマに黒いサングラス、黒い口ひげという容姿のアンダルは、ブラスターではなく実弾のオートマチック拳銃の装弾数を確認した。レンレンは自分の細い手でも軽々と扱えるブラスターと比較しながら、呆れる目を向けた。

「いつも思うけどそんな面倒な銃、よく使うね」

「レーザーは高温多湿、あるいは雨天などの条件下で性能が劣化する。何でもかんでも新しければ万能ってわけじゃない」

「はいはい」

「お前も、実弾の扱いを覚えていい頃だぞ」

「純真な青少年に、そんな物騒なもの勧めない方がいいね」

 しれっと言ってのけるレンレンを、アンダルは笑い飛ばした。

「冗談はもっと愛想よく言うもんだ」

「僕の事はどうでもいいよ。それで、ターゲットを捕まえたらどうするのさ」

 レンレンは、市内の方向に目を向けた。塀や建物の向こうから、街の喧騒が聴こえてくる。アンダルは、サングラスの奥の目を細めた。

「上に引き渡す。あとの事は俺は知らん」

「アンダルだって、どっちかって言うと上の人間だろ」

「俺は現場が性に合ってるんだよ」

 低い声でアンダルがつぶやいた、その時だった。市街地から、人々の悲鳴が響き渡った。

「来たかな」

「わからん、行くぞ。銃はしまえ」

 さながら黒い疾風のように駆け出したアンダルの後ろを、レンレンは置いて行かれないように必死でついて行った。


 悲鳴が聴こえたあたりに向かうと、商店街の通りに人だかりができていた。アンダルが、顔見知りの腹が出た商店の店主に訊ねた。

「何があった」

「アンダルか。どうもこうもねえ」

 陽光を反射する頭を店主が向けた先には、二〇代とおぼしき白人系の男が、頸部から血を流して倒れていた。もう脈を診るまでもなく、死んでいる。

「ふらりと現れたと思ったら、いきなり倒れやがったんだ」

「怪しい奴は?」

「この街じゃ怪しい奴なんか珍しくもない」

 それはジョークでもあり事実でもあった。苦々しい笑みを浮かべると、アンダルは周囲の人だかりに聞こえるように訊ねた。

「警察は?」

「まだだよ。あんた達が来ると思ってた。救急車は今呼ぶところだったが、医者よりも牧師と葬儀屋の仕事なのは、俺が見てもわかる」

「そうか」

 それは都合がいい、などとは言えなかったので、アンダルは無言でレンレンとともに男の様子を見た。直接の死因は頸部からの出血に間違いないが、レンレンは眉間にしわを寄せて、男の顔を指した。

「見ろ。鼻血と、吐血もしてるぞ」

「出血大サービスってか」

「お前な」

 四〇代男性の、不謹慎の極北のようなジョークにレンレンは眉をひそめた。だが、アンダルは注意深く、男の様子を観察して、ひとつの事に気づいた。

「この傷、どうやら内側から破裂しているらしい」

「そんな事あるのか」

「とにかく、この件はフェンリルが預かる。車の邪魔だ。人払いをしろ、レンレン」

 通信端末を手にしたアンダルは、アゴでレンレンに指示をした。

「疲れるなあ」

 ぼやきながらレンレンは、ざっと四〇人はいる人だかりを睨んだ。やがて、どこからともなく救急車のサイレンの音が聞こえてきて、人だかりの間に一本の道が開けた。だが、少ししてやって来たのは救急車ではなく、黒塗りの民間用、ただし改造の長いホバービークルだった。後部ハッチが開いたビークルに、アンダルとレンレンは倒れた男を担ぎ込むと、急いで自分達も乗り込んだ。ビークルは昼過ぎの熱気を帯びた通りを、警察に嗅ぎつかれる前にと、土煙をあげて走り去っていった。

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