(31)レンレンの紅茶
カリマンタンの島、タラカン。西暦一〇七六年に土着の民族が王国を築いたことが、この島の歴史の始まりだった。一六世紀にはイスラム教のもとで、土地を変えて王国が継続する。
一九世紀末から二〇世紀にかけて、石油が産出したこの土地は、オランダとジャパンという二つの大国、そして連合軍に翻弄される事になる。二一世紀にもごく僅かながら存続していた石油産業は、二一〇八年現在ではすでに消滅していた。
エリコとリネットが到着したこの島にも、SPF海軍の小さな基地が存在する。なぜこの島を選んだのか、リネットはエリコに二回質問したが、エリコの答えは二回とも同じだった。
「太平洋東南で軍事的緊張が高まり、同時に北マルク近辺を拠点とする黒旗海賊にも対処しなくてはならない今、地政学的に見てSPF海軍の兵力は、パプアおよびニュージーランド島にそれぞれ集中するはずだ。ここカリマンタンからシンガポール、マレーシアにかけては手薄になる」
「最初からそれが狙いだったの?」
「そう言えればカッコいいけどね」
一〇〇年前から何も変わってなさそうな、人々や旧式の地上車が行き交う猥雑な通りを歩きながら、エリコは雑然とした商店や家屋に切り取られた空を見上げた。
「実際のところ、僕は偶然の状況をどうにかこうにか利用しているにすぎない」
「そんなこと言ったら、物事は全てそうでしょ。人生は偶然の連続だよ」
左肩が裂けたデニムから、マスタード色のシャツに着替えたリネットは、活気のある町を楽しそうに歩いた。やがて、目当ての建物が見えてくると、小走りに自動ドアに駆け寄る。
「エリコ、ちょっと待っててね」
『キングスロード銀行』なる仰々しい名前のわりには、安普請そうな造りの銀行から出てきたリネットは、ようやく胸のつかえが取れた、という顔をしてエリコのところに戻ってきた。
「おまたせ!」
「いくら強奪してきたの?」
「強盗に行ったんじゃない!」
たわいのない冗談にも、上機嫌のリネットは付き合ってくれた。リネットは新たに口座を開設して、今までの預金のほとんどを移動してきたのだ。今までの口座はそれまで所属していたSPF海軍との繋がりがあり、使用することで移動経路を捕捉されるおそれがある。軍が行方不明の元兵士などに構っていられない今が、安全な口座に移動するチャンスだったのだ。
「ついでに現金もおろしてきた」
リネットは、内ポケットにある薄茶色の封筒を示した。エリコはわずかに驚いたあと、すぐに意図を理解して頷いた。
「紙幣なんて、シティの恐いお兄さん達と関わってた時以来だけど」
データ決済が九七パーセントを占める二二世紀において、現物の紙幣などという代物は、目にすること自体が珍しい。だが、リネットがわざわざそれを準備したのには理由がある。データ決済が主流の世界であっても、貨幣という間違いなく物理的に存在する通貨が、ものを言う場合もあるからだ。ことに、エリオのかつての商売相手だった「その筋のお兄さん達」の中には、データ決済など一切信用しない連中もいる。エリコは笑った。
「トリュフってあるだろ。第四次世界戦争のあと、戦乱で栽培方法が失われて、再び高級食材に返り咲いたキノコ」
「名前だけは知ってる。食べたことないけど」
「シティで、その取引を仲介した事がある。あの取引は現金オンリーで、データ決済は厳禁の世界なんだ。二〇世紀の取引が今も通用してる、って馴染みのおっさんが言ってたよ」
一般人は寄り付かない裏路地の物陰で、トリュフが詰まった強化炭素ケースと、汚れた古い紙幣の束を交換した光景をエリコは思い起こした。なんとなく、あの頃に戻りたいという気持ちさえあった。
「トリュフってお金になるの?」
リネットが目を輝かせて食いついてきたが、エリコは白い目を向けた。
「なるけど、簡単に手に入らないからお金になるんだよ。素人が思いつきで手を出せるとは
、思わないことだね」
当然の市場原理を七つ下の少年から指摘されて、元少尉は残念そうにうなだれた。エリコは、腕組みして眉間にしわを寄せる。
「まあ、いずれお金を稼ぐ事は考えないといけないよな」
「情報屋とかはダメだからね!」
「はいはい」
エリコの空返事に、リネットは白い目を向けた。だが、エリコに言わせればこの混迷の時代、情報屋くらいエリコに向いていて、金を稼げる商売もないのだ。そこでエリコは人差し指を立てて、ひとつ提案した。
「わかった。どこか適当なところに落ち着けたら、探偵社を開こう」
「ものは言いようね。やる事は情報屋なんでしょ」
「代表はリネットでいいよ。アンドルー探偵社。うん、いい響きだ」
冗談とも本気ともつかない笑みに、リネットは肩をすくめた。だがスキルがものを言い、さほど元手がかからないという意味では、確かにそう悪くない選択肢ではあった。
「……なるほど」
「あっ、乗り気だ」
「違う!ひとつの意見として検討してみただけ!」
頑張って否定するリネットに、エリコはケラケラと笑った。そうして正午が近付いてきた頃、ふとリネットは、隣にぴたりと付いて歩く、エリコと大差ないような少年らしき人影に気づいた。緋色のハンチング帽を目深に被り、この日射しの中で暑くないのか、というような短い丈の、グレーのジャケットを羽織っている。
「何の用? お金なら持ってないわよ」
清々しいまでの嘘に、となりのエリコは吹き出した。
「フェンリルの人? 君」
「えっ?」
リネットは、まさかと思って隣の少年を見た。少年は、ぎくりとして肩を緊張させる。
「そうなの?」
少年が頷いて、かすかに上を向いたその時、帽子のつばから覗いたその瞳に、リネットはわずかに驚いた。それは、透き通った金色の瞳だった。
「あなた……」
「今までエドモンドとかファジャルみたいなのばっかりだったから想像つかなかったけど、君みたいな女の子もいるんだな」
「えっ!?」
リネットは、驚いてエリコと「少年」を交互に見た。少年は驚いて、リネットごしにエリコをまじまじと睨んだ。よく見ると鋭い金色の瞳が、エリコの金色の瞳と交差する。明らかに敵意のような眼差しが、エリコを捉えた。
「僕は女じゃない」
その、少年とも少女ともつかない、高く鋭い声がエリコに向けられた。
「ついて来い」
そう言って、まだ名前も名乗らない「誰か」は、エリコたちを先導して歩き始めた。競歩選手かと思うほどの速さに、置いていかれそうになったエリコとリネットは、慌てて駆け足ぎみについて行った。
◇
予想外に、たっぷり四〇〇メートルほど歩かされたエリコとリネットが招かれたのは、ヤシの木に覆われたセメント舗装の路地を抜けた先にある、廃屋と見紛うベージュの平屋だった。建物に入るのかと思いきや、ハンチング帽の「誰か」は突然振り向いて、ジャケットと帽子を脱ぎ去った。
帽子の下から現れたのは、東アジア人らしい少し黄色の肌をした、眩い白髪の「少女」としか言えない顔だった。
「僕はレンレンだ」
そう名乗った直後に、レンレンは付け加えた。
「女じゃない」
つまり、十代の女の子にしか見えないが、どうやら男の子、ということらしかった。エリコは訝しげに一歩踏み出した。
「嘘だろう。これでも、人を見分けるのは得意なんだ」
見分けるも何も、エリコを困惑させるのは、ジャケットを脱いで露わになった、ノースリーブの黒いインナーを内側から持ち上げる、リネットほどではないが大きなふたつの膨らみだった。だが、レンレンは半歩踏み出して、エリコに迫った。
「そう思うなら、見せてやろうか!」
いきなり憤慨してそんな事を言いだしたレンレンに、リネットは小さく笑った。
「ごめんなさい。ばかにする気はなかったのだけれど、そんな事する必要はないわよ」
「頼まれても見ねーよ、そんなもん」
若干引き気味のエリコを、レンレンは口を尖らせて睨んだ。なぜかわからないが、エリコに敵意のようなものを向けている。悪意とか、殺意ではない。強いていうならライバル心のような印象をエリコは受けた。
「まあいい、お前が女だろうが男だろうが。それで、どうして僕らをこんな所に連れてきた?僕は……」
「エリコ・シュレーディンガー」
エリコの自己紹介を遮って、レンレンはその名を口にした。
「異常才覚者矯正施設島、P7から脱出した。同行者はリネット・アンドルー、もと少尉」
「お前……」
エリコがブラスターを引き抜くそぶりを見せた時、レンレンは履いているサンドカラーのカーゴパンツのポケットから、瞬時に小さなナイフを取り出してエリコの眼前に突き付けた。その捷さは、リネットも舌を巻くほどだった。
「21フィートルールだ。刃物を持った相手には最低21フィートの距離をもって相対すべし」
警察機構などで徹底される、刃物を持った相手を制圧するための基本の距離をレンレンは述べた。ほんのわずかに得意げな表情を浮かべたところで、レンレンは自分の右脇に突き付けられていた、黒い物体に気が付いて目を瞠った。
「21フィートルールは人間の移動速度を計算に入れた、あくまでも参考値。至近距離で刃物と銃、どっちが速いか、教えてあげましょうか。答えは『殺された方が遅い』よ」
すでにセーフティーを解除し、トリガーに指をかけた状態でリネットは凄んだ。それは脅しではなく、リネットがその気なら、レンレンは右脇から心臓をレーザーに貫かれていたのだ。レンレンは、悔しさを隠さずナイフをカーゴパンツに戻した。
「……来い」
そう言って、再び二人に背を向けたまま、レンレンはボロボロの平屋に向かって歩いた。少なくとも平然と背中を見せている以上、そもそも最初から殺意がないのはわかっていたので、安心というよりは毒気を抜かれた気分で、エリコとリネットは後に続いた。
「座れ」
男とか女とかいう以前に、人としてどうなのかという態度なのだが、不思議とレンレンからは卑屈さを感じなかった。エリコたちは通された白い壁の部屋の、真ん中に据えられた木製のテーブルにつくと、部屋を出ていったレンレンを目で追った。
「フェンリル団員で間違いなさそうだけど」
「なんか妙な感じね」
リネットは、言葉こそぶっきらぼうだが、仕草じたいは確かに女性のものを感じさせるレンレンに、何か妙な既視感を覚えていた。どこかで、会っているような気がするのだ。そこでリネットは、エリコを指さした。
「なんか似てると思った。あの子、あなたに似てる」
「どこがだよ!あんな、顔は可愛いけどぶっきらぼうで凶暴な奴!」
「ぶっきらぼうで凶暴で悪かったな」
いつの間にか戻ってきていたレンレンが、形相とは裏腹の優雅な手つきで、ティーポットとソーサー、カップが載ったトレーを静かに置いた。エリコはバツが悪そうに、明後日の方を向いた。
「可愛いって言われるのも嫌いだ」
「じゃあ何ならいいんだよ」
「顔について言われる事が嫌いだ。ついでに、胸のことを言ったら殴る」
その、取り付く島もないレンレンに、エリコは呆れ、リネットは笑い出した。
「ほら、そういう話が通じないところ。エリコにそっくり」
「どこが!」
「どこがだ!」
両サイドから返ってきた同一の反論に、リネットは腹を抱えて笑い出した。失礼極まる大人を、エリコとレンレンは同じ金色の瞳で睨んだ。レンレンは仏頂面とは正反対の丁寧な動作で、合成紅茶をカップに注いだ。
「毒は入ってない」
「入れる奴はみんなそう言うんだ」
「そんなに入れて欲しいなら入れてやる」
一瞬睨み合ったあと、エリコとレンレンは同時にカップを傾けた。エリコは、その上質な香りに驚いた。
「これ、本物の紅茶か?」
「違う。合成紅茶をブレンドした」
「お前がか」
化学合成の産物とは思えないその香りに、エリオは目を丸くした。リネットも驚いている。だが、レンレンは渋い顔をしていた。
「……正確に言えば、ブレンドだけじゃない」
「え?」
「飲んでみろ」
レンレンは、別なカップを持ち出して同じ用に紅茶を注いだ。だがその時一瞬、レンレンの目が妙に煌めいて見えたことに、リネットが気づいた。
「同じ紅茶だろ」
「いいから飲んでみろって言ってるんだ」
「お前いつか、『相手を怒らせる百の話術』っていう本を書けよ。絶対売れるぞ」
わけのわからない皮肉を言いながら、エリコは差し出された紅茶を一口飲んだ。すると、エリコは突然口を押さえて横を向いた。
「エリコ!」
リネットが慌てて吐かせようとしたが、エリコはそれを制した。
「違う、……毒じゃない」
「何を……」
「ほら」
エリコが差し出した紅茶を、リネットも怪訝そうに一口飲んでみた。リネットは首を傾げ、カップの紅茶を見た。
「何も変わらないじゃない」
「嘘だろ!」
エリコは、信じられない、という顔をリネットに向けた。
「そんな殺人的に甘い紅茶が、同じわけないだろ!」
「何ですって?」
いったい何を言っているのか、とリネットは、自分に出された紅茶と飲み比べてみた。
「どっちも同じじゃない」
「うっ、嘘だ!」
もう一度、エリコは同じ紅茶を口に含む。そして、舌に広がる狂気の甘さに悶絶した。歯が溶けるのではないか、というほどの甘さだ。そこで初めて、レンレンが意地悪く笑い初めた。
「凶暴なんて言ったお返しだ。ざまあ見ろ」
「こいつ!」
憤慨したエリコだったが、少女そのものの笑顔に、気が抜けてしまう。
「……どういうことだ」
「意外とカンの鈍い奴だな、エリコ」
何か、含みのある笑みを向けながら続けたレンレンの言葉に、エリコは絶句する。
「とても、同じ『方舟』とは思えないな」




