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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第一部
3/45

(3)チャールズの行方

 翌日リネットは、「自己顕示欲の克服」という講義を終えると、その日の仕事は終わってしまったために、自分の部屋に戻って溜まっている事務的な仕事を片付ける事にした。いくらコンピューターが飛躍的に発達したとしても、結局のところ人間による確認を飛び越えて、何もかもを機械とプログラム、人工知能に任せるには至っていなかった。

 もっとも、二〇七一年の大崩壊が世界のインフラや製造技術を大幅に後退させた事もあり、それがなければコンピューター技術は驚異的な発展を遂げていたはずだ、という見方で世界の学術的見解は一致していた。少なくとも居住できるレベルまで、地球環境を改善するだけで、相当な年月とリソースを費やしたのだ。環境悪化のために失われた生命の数も膨大だった。進歩の遅れを埋めるために、科学や産業界は血眼になっているという。


 自室に戻って、リネットはテーブルの上に浮かんだホログラムディスプレイを睨み、テーブル表面に浮き出した仮想質量ホログラムキーボードを叩いていた。結局のところキーボード以上の文字入力デバイスの概念を、人類社会は一〇〇年以上、考案することができなかった。百数十年前、何とかという名前のコンピューター・オペレーションシステムが世界中で使われていた頃と、基本的な配列は変わっていないらしい。この事を以前、リネットはエリコに訊ねた事がある。エリコの回答は、そもそも進歩のしようがない物もある、スープを飲むのにスプーン以上のカトラリーが考案できるか、というものだった。

 エリコの理屈を思い出して苦笑しながら不要になったデータを整理していると、担当しているグループのいなくなった生徒、チャールズの履歴書がたまたま目に入った。

「どうしているのかしら」

 リネットは、チャールズの気難しげな顔を思い起こす。明るいブラウンの髪が印象的だった。エリコのように厭世家ではないが、語彙が信じられないほど豊富かつ難解で、話も冗長すぎるため、違う意味でうかつに話しかけられない少年だった。

 そのチャールズが、遺跡発掘中に心肺停止で倒れたあとの事は、リネットはほとんど知らない。担当教官として医務室に連絡し、あとの事は医師とセンターに任せていたら、事後報告でどこか別な施設に移送され、このセンターにおけるチャールズの名簿は抹消されてしまっていたのだ。

 エリコは臓器売買のために連れていかれた、などと不吉な事を言ってリネットを怒らせたが、それは笑えないブラックジョークにしても、担当教官にもその後の行方が知らされないというのはどういう事なのか、というささやかな疑念が、心の片隅に巣食うのを感じていた。


 そしてリネットは、ひとつの別な疑問に行き着いた。そのことをリネットは、職員用のカフェルームでたまたま会った、一人の上官に訊ねた。その上官の名はラングレー中佐といい、四〇代前半のスリムだが筋肉質な軍人だった。

「中佐、そもそもこの国の異常才覚者矯正施設って、どうして軍の管理下におかれているんでしょうか」

 それは、ひとりの軍人としての、ごく素朴な疑問だった。異常才覚者矯正法は世界でほぼ同時に施行されたが、矯正センターの管理じたいはその国が個別に行う。国といっても、大崩壊をきっかけにほとんどの大国は事実上消滅し、リネットが属する国は「南パシフィック連邦」という名称のエリアになっていた。だが、基本的には医療、保健の範ちゅうにあると思われる問題を扱う施設の職員が、なぜ軍人なのか。ラングレー中佐は一瞬、少しだけ難しい顔をして首をひねった。

「なぜそんな事が気になる」

「いえ、別に……ただ、何となく。どっちかっていうと、医療とか、教育機関の人達の方が携わるような気がして」

「医療スタッフ、心理カウンセラーは保健機関から出向している。我々軍人が指導担当なのは、万が一不測の事態が起きたときのための対処だろうな。陸上車教習の教官が、全員警察官みたいなものだ」

 それは無難な回答ではあった。だがそこで、さらに次の疑問がリネットに浮かんだ。

「なるほど。けど、そもそもどうしてこの施設は、こんな孤島に造られたんですか?刑務所だって本土にあるのに、まるで隔離施設みたいに」

「孤島は心理的に、連帯や協調を促す環境だといえる。俺達が艦艇や潜水艦で長期間、寝食を共にするようなものだ。軍隊も、個を殺す事で成り立つ集団だからな」

 なるほど、とリネットはうなずいた。

「ここを出た子たち、元気にやってるんでしょうかね。私はいまの担当グループが最初で、まだ一人も送り出していないんです。一人、作業中に倒れてしまって、残念ながら別の施設に移送されてしまいました。私の指導に何か問題があったのか……」

 ラングレーは飲んでいたコーヒーのカップを無造作に使用済み棚に置き、リネットに向かって一言だけ言った。

「個人の資質の問題もある。後ろめたい事がないなら、貴官が気に病む必要はない」

 それだけ言うと、ラングレーはカフェルームを出ていってしまった。残されたリネットは、やや呆気に取られて一人コーヒーを飲み干したあと、話し相手もいないので、また自室に戻った。



 エリコは一時間二〇分ほどでエアポートへの連絡路の除草を終えると、リネットに通信を入れた。

「連絡路の除草は完了しました。あと四〇分、遺跡周辺の除草を行って今日は終わります」

 ほどなくして返信があった。

「わかりました。休憩は取ってる?」

「ご心配なく。食堂から携行食糧も、ビタミン飲料水も貰ってきてます」

「用意がいいこと。作業中、怪我だけはしないように」

 リネットの通信は簡潔だが、いつもどこか気遣ってくれるような所がある、とエリコは思った。他の教官とは違う。この施設で、いちばん人間らしいと感じていた。しかし、そんなリネットでも、世界のシステムそのものに疑問は持っていないように見える。それは軍人だからだろうか。

 人間とは何だろう、とエリコは思う。いま向かっている、黒い柱状玄武岩を組み合わせた石組みを造った古代人達は、何を考えていたのだろう。焚き火を囲んで、人間はこうあらねばならない、という講義をしていたのだろうか。

 この島の遺跡はギザの大ピラミッドなどには遠く及ばないが、こんな孤島で、わざわざ柱状玄武岩を丘の上まで運んで極小のピラミッドを組んだ、その理由はミステリーではある。だが少年少女の人格を否定するために、わざわざ多大な人件費と資源コストをかけて法律とシステムを整備した、二二世紀の人類の頭もだいぶミステリーだと言わざるを得ない。それよりは、丘に積まれた玄武岩の方がまだ理解できるかも知れない、などと考えながら、エリコは残りの除草作業を終え、センターの自室に戻った。



 その日の夕食時、矯正施設の食堂でひとつの事件が発生した。

「あああぎゃあああ!」

 その、悲痛な泣き声にも似た絶叫の主は、一三歳の黒い髪の少年だった。少年はまだあどけなさの残る顔に憤りと狂乱の色を爆発させ、椅子を振り回し、他の少年少女たちの夕食を中断させ、二酸化炭素由来パンや疑似蛋白ミートや培養サラダを化学合成スープとともに空中に乱舞させ、飲料水サーバーを蹴り倒した。床がバランス調整鉱物水のプールになりかけたところで、二体の警備ロボットが飛び出してきた。

 だが、少年の憤りは半端ではなく、およそその小柄な外見から想像できないエネルギーを発散し、警備ロボットに体当たりを食らわせた。二体の警備ロボットは互いのエネルギーで正面から激突し、システムに異常をきたして停止してしまう。

 

 やがて、騒ぎを聞きつけた兵士三名がやって来て、少年を取り押さえて鎮静剤を打とうとした。だが、ここでも少年は信じがたいことをやってのけた。兵士のひとりが腰に提げていたレーザー銃を奪い取ると、コンマ一秒も迷うことなく、三人の兵士に向かって発砲したのだ。

 すんでの所で兵士たちは回避したが、あとわずかで首や額を撃ち抜かれる寸前だった。とっさの出来事に不意をつかれ、その隙に少年はレーザー銃を所持したまま、食堂を飛び出してしまう。


 少年は銃を乱射しながら、矯正センター施設内を移動していった。緊急配備で施設内各所のドアの遮断が命じられたが、レーザーによって開閉システムが破壊されたドアは、少年の通過を許してしまった。

 少年の姿はいつの間にか、監視カメラの死角に入ったらしく、見えなくなってしまった。そこで、少年の手に埋め込まれたチップの反応を追跡すると、少年は管理中枢棟に向かっていることが判明する。そこで、隔壁を開けて少年が出てきたところに兵士六名が待機することになった。


 隔壁が開くと、少年めがけて六丁のレーザー銃の引き金が一斉に引かれた。だが、結果はまったく予想外のものだった。少年は一瞬早く身をかがめ、逆に兵士たちに撃ち返したのだ。およそ信じがたい事だったが、六人の兵士が少年のレーザー銃によって射殺されてしまう。少年は、恐るべき反応速度を持っていた。

 だが、少年の暴走もそこまでだった。兵士のうしろに控えていた警備ロボット三体が一斉に飛びかかり、うち一体によって電子式麻酔銃が撃たれたのだ。少年は紅潮した顔を引きつらせ、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。


 少年の名はミッキーといい、一一歳でプロのギタリストを凌駕する演奏能力および作曲能力の持ち主で、異常才覚者矯正施設に収容される時点で、すでに六枚の音楽アルバムをリリースし、高評価を得るほどの実績の持ち主だった。施設に収容された理由は、自律性に極めて異常があるという評価と、もうひとつはエリコによく似た理由からだった。つまり、社会の政治体制に対する批判を、作品上でもそれ以外の場でも活発に行なっていたのだ。

 ミッキー少年はこの施設において、表現の普遍化と共感性、という課題を与えられていた。すなわち、社会批判などを作品に含めず、大多数の人間が共感できるような作品を制作するよう、『矯正』プログラムが組まれていたのだ。体制を批判せず、親しみがもてるような作品に取り組むよう指導され続けた結果、抑圧されたミッキーの創造行為への欲求が、ついに物理的なかたちで暴走を迎えたのだった。

 ミッキーは意識を失ったまま、駆けつけた兵士たちによって、どこかへ移送されていった。その後の彼の姿を見た者は、少なくともこの施設に収容された他の者達の中には、ひとりもいなかった。


 騒動がおさまった頃、エリコ・シュレーディンガーは騒然としている施設内を悠然と歩いて、食堂を訪れた。食堂の一角に固まって、事件について話している他のグループに近づくと、何が起こったのかと訊ねた。聞き終えたあと、エリコの表情に一瞬、雷光のような怒りの色が閃くのを、その場にいた面々が見た。

 エリコはすぐにいつもの不敵な笑顔に戻り、眼鏡をかけた少女に訊ねた。

「君はたしか、シンシア教官のグループだったよね」

 そう切り出すとエリコは、それまであまり交流のなかった収容者たちと会話を交わした。どの棟に住んでいるのか、受けているのはどういうプログラムなのか、等など。

 エリコが感じたのは、自分のグループに比べれば、比較的取っ付き易い人間が多いことだった。全員何かしらの人並み外れた技術、才能を持ってはいるのだろう。だが、それと人格がトレードオフだなどという世迷い言は、嘘だということをエリコは実感した。天才性と人格は関係ない。天才で良い奴もいれば、凡才の人でなしだっている。政治家なんて、無能のくせに悪知恵だけは一丁前の、ろくでなしばかりではないか。


 なぜ、悪事をはたらいたわけでもない、たまたま才能があるだけの少年が、抑圧されなければならないのだ。食堂を飛び出した、天才音楽家だという少年ミッキーがどうなったのか、もはやエリコ達にはわからない。エリコの脳裏をかすめたのは、あの話が長いチャールズの、神経質そうな笑顔だった。


 ◇


 事件があった翌日の朝は、夜中から降りしきる酸性雨のため、屋外での活動が禁止された。この島は比較的酸性雨が少ないとされるエリアだったが、大気中にいまだ流入する汚染物質や粉塵の挙動は、最新の素粒子コンピューターをもってしても一〇〇パーセントの予測は困難であり、くわえて過去の大崩壊で世界中の海底に散らばった、発電用燃料廃棄物の位置も不明なため、空も海も環境汚染の解決は見通しが立たない状況だった。

「もう世界中、汚染されてないのは南極、北極の、氷床の内部くらいってことだ」

 矯正センター危機管理課の若い軍属スタッフのブルックは、壁に並んだモニターに映る、島周囲の酸性雨リアルタイムマップを睨んで皮肉な笑みを浮かべた。

「百年前の奴らが要らん事をしてくれたおかげで、俺達がこうして環境モニタリングのお仕事にありつけた、というわけだ」

「そいつらはもう、あの汚れた空の上だがな」

 隣のデスクで施設内に放送する警報メッセージを編集しているフリントという男が、不自然という意味では汚染された海水にも負けていない、化学合成コーヒーを飲んで言った。

「百年前の、『実業家』とかいうよくわからん人種の金持ちが言っていたそうだ。『人間の活動による汚染など微々たるもので、地球全体の環境を汚染する事などあり得ない。汚染を気にして経済が回らなくなる事の方が問題だ』、だそうだ」

「はっ!」

 モニターを見ていたブルックは、真っ赤な酸性雨アラートに向かって吐き捨てた。

「金で全てが解決するなら、旧時代の紙幣を大量に刷って、汚染濃度が上昇し続ける海にばら撒けばいいさ」

「コンピューターの予測だと、二万年ばかり経てば、居住可能地域は少しばかり増えるそうだ。その頃にまともな四肢の人間が、どれだけ残ってるだろうな」

 フリントは生まれつき小指がない左手を、悪魔的な目で睨んだ。

「ところでブルック、酸性雨はともかくだ。このデータをどう見るべきだと思う?」

 フリントは、別なモニターに表示されているログファイルを示した。それは過去一ヶ月間における、P7矯正センター島の半径二千キロメートル以内の、地震発生の記録だった。二五日前にマグニチュード一の海底地震が、東沖二〇〇〇キロメートル地点で発生したのを皮切りに、マグニチュード三未満の地震が四度発生している。

「人工知能は特に問題なし、と判断しているが」

「なら、問題ないんじゃないか」

 ブルックは、ほんの少しだけ怪訝な表情は浮かべたが、なかば無視するようにモニターから目を逸らした。

「素粒子コンピューターと人工知能が、そう予測してるんだろう」

「ああ。だが、もしこれが大きな地震の前兆だったらどうする? 人工知能の予測も超えるような」

 その指摘に、冷めかけたコーヒーカップを持ち上げようとしたブルックの手が一瞬止まった。ブルックはコーヒー豆など一粒も使われていない化学合成コーヒーを飲み干すと、冷笑ぎみに肩をすくめた。

「そうだったらお手上げだな。人工知能も推測できない大地震や津波なんぞ、人間の頭で予測できるはずもない」

「それがもし起きたら?」

 フリントは、横目に相方のほうを見て訊ねた。ほんの数秒の沈黙のあと、ブルックは手のひらを広げて降参のポーズを取った。

「汚染海水の津波でサーフィンでもするさ」

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