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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第三部
29/52

(19)方舟

 ブロンクスの一件で、エリコは事の全てをエドモンドに伝えた。海上で通信状態が悪く、文字の伝達しかできなかったのは、エリコにとっては逆に救いだった。いま、回線越しにでもエドモンドの声を聴く勇気が、エリコにはなかった。

 だが、エリコの罪悪感を察しているのかどうか、ホバーバイクのモニターに表示されたエドモンドからの返信は簡潔だった。

「エリコ、お前は自分の命をかけて、SPF海軍をあえて自分がいる海域に誘い込んだ。その結果、おそらく黒旗海賊に殺されていただろう、多くの島民が助かった。これは事実だ」

 それは、リネットがエリコに言った事そのままだった。

「もちろん、ラフマン達がブロンクスに殺された事はショックだ。エリコ、お前の存在がそれにつながった事も、冷酷に言えばその通りだ」

 いったん途切れた文章の続きを、エリコは心臓を掴まれる思いで待った。

「だが、恩人を命がけで守ることは、俺達フェンリルの最も重い掟だ。それに、もとはと言えばルーカスが裏切った事が、お前達を逃走に追い込んだ原因でもある。つまりお前とリネットは二度、俺達のために命を危険に晒したんだ。俺達はお前達に、恩義と責任の両方がある」

 エドモンドは、エリコのみならずリネットも含めて、恩義があると言ってくれた。それは、少なからずエリコの心を救う作用をもたらした。

「だからまあ、死んだ奴らに申し訳ないと思っているなら、お前は生き延びて、でかい事を成し遂げてみせろ。お前の罪悪感は、この俺が確かに預かった」

 エドモンドの通信文は、それで終わりだった。リネットは、ホバーの操縦に集中しているからと言い訳して、あえて読まずにエリコに訊ねた。

「読み終えた?」

「うん」

「よし。エリコ、どっちに向かえばいいのか、教えて」

 リネットもまた、通信文について一切訊ねることはしなかった。あとはエリコが自分自身で受け止めろ、とリネットは無言で示した。

 エリコは、通信文を閉じてモニターに映った海域マップを睨むと、頷いて告げた。

「北西に向かう。カリマンタンの東の入り江にある、タラカンだ」

「うん。いい声になってきたね」

「なにそれ」

 訝るエリコに、リネットは小さく笑った。陽はさらに沈み、東の空はすでに、星が瞬いていた。


◇ 


 これがただの旅行なら、どれほど夕闇に覆われてゆくこの空と海が、美しく思えただろう。

 だが、この美しい海も少しずつ、汚染が進んでいる。そう考えたとき、エリコの胸には言い知れない気持ちが去来する。それでもエリコは、幾人もの人間と出会ったことで、心に不思議な強さが芽生え始めていることを実感していた。

 だが、二人が無言の時間を共有していると、突然不思議なことが起こった。先に気付いたのはエリコだった。

「なんだ?」

 エリコは、ホバーの両サイドに波が立っていることに気付いた。その波から、三角の背びれのようなものが見えたとき、エリコとリネットは身構えてブラスターに手を伸ばした。エリコを襲ったメイド型アンドロイドが乗っていた、シャチのような水陸両用ホバーバイクを思い出したからだ。

 だが、それは思い違いだった。ホバーの左右を並走するのは、本物のバンドウイルカだった。

「エリコ、イルカよ!」

「すごい」

 エリコがキャノピーを開くと、リネットはイルカに手を振った。

「おいで!」

 イルカは、ホバーに近付いたり、離れたりを繰り返し、まるでエリコ達と戯れているようだった。

「このホバーのこと、仲間だと思ってるのかしら!」

「あんがいロマンチストだね」

「なんですってー!」

 二人の笑いが、赤く染まる海面に響いた。

 だが、エリコは何か奇妙だと思った。イルカに挟まれるかたちで、ホバーが誘導されているらしい事に気付いたのだ。少しずつ東寄りの方角に進路が寄り、太陽は左後ろに移動した。

 何分間進んだだろうか。エリコとリネットは、その先にあった影に一瞬、背筋が凍りつくような薄気味悪さを覚えた。 それは、海面に直立する人影だった。イルカに誘導されるように、エリコのホバーは、その人影の正面で停止せざるを得なかった。

 青年だった。グレーの上質なスーツをまとっている。エリコよりいくらか年長らしいが、まだ二十歳かどうか、という印象で、浅黒い肌に漆黒の髪をなびかせ、優雅な笑みを浮かべていた。

 奇妙なのは海面に浮かんだ、その乗っている物体だった。直径五メートルくらいの、丸いトレイをシンバルのように重ねたと言えばいいのか、とにかく『円盤』としか形容しようのない、沈む夕日を反射する銀色のボートだった。

 青年は、唐突に拍手を始めた。称賛そのものの拍手だった。

「見事だ、エリコ・シュレーディンガー。よくここまで、危機をくぐり抜けてきた。素晴らしいよ」

「……誰だ、お前は」

「誰? 残念だな、忘れてしまったのかい」

 それは、からかうのではない、心からの言葉にエリコには思えた。しかし、エリコは記憶を総動員しても、会った憶えなど一度もない。それなのに、奇妙な懐かしさを覚えずにはいられなかった。

 そのとき、エリコは青年が乗った円盤が、波にも風にもまったく煽られず、完全に停止していることに気がついた。いったい、どういう姿勢制御システムなのか。

「僕の名はクリシュナ。今はね」

「軍か、いや政府の手先か?」

 エリコの問いに、クリシュナと名乗った青年は、腹を抱えて笑い始めた。いささかの下品さも含まれない、それは優雅な哄笑だった。

「エリコ、それはないだろう。僕を、あんな愚かな人間たちと一緒にする気かい?」

 次の瞬間、クリシュナの金色の瞳に影が宿るのを、エリコは見た。

「エリコ、君はもう、人間などという欠陥種と関わる必要はないんだ」

 欠陥種。それは、エリコ自身がレポートに、皮肉と怒りをこめて記した呼称である。それを、他者から言われるのは初めてだった。

「いったい、お前は何者だ?」

「君と同じだよ。『方舟』さ」

 その一言に、エリコは自身の内側の何かを刺激され、全身を襲う寒気に身をよじらせた。

「エリコ!」

 リネットが、不安げにエリコを支えながら、クリシュナにブラスターの銃口を向けた。

「何のつもり!? エリコに何をしたの!」

「恐い顔をしないでくれ、リネット・アンドルー」

「気安く名前を呼んで欲しくないわね、得体の知れない奴に」

 トリガーにかけた指に力が入る。それが脅しではないことを見抜いたクリシュナは、優雅に微笑んだ。

「あなたが、エリコをここまで護ってきてくれたんだね。本当にありがとう。心から感謝するよ」

「私はあなたなんか知らないわ。あなたも、エリコの脳みそに用がある手合いかしら」

「脳、という意味ではね。けれど、あの何とかという悍ましい、原始的なシステム……そう、バイオコンピューター。あんな玩具と、僕らの計画を一緒にされちゃ、はなはだ心外というものだ」

 クリシュナの言葉に、リネットはこの青年が、全てを知っているらしいと確信し、ブラスターを向けたまま訊ねた。

「異常才覚者矯正法、あの法の真相をあなたは知っているの?」

「知っているとも。というより、もうすでにエリコ、君が推測してるんじゃないかい? なら、その通りだよ。全て、ね」

 それは、エリコにとって戦慄の再確認作業だった。震える身体で、エリコは質問した。

「お前は知っているんだな……あの施設で選別された、少年少女の運命を」

「もちろんさ。君に説明するまでもないだろうがね」

「みんなは、どこにいるんだ」

 それは、エリコの想像どおりだとすれば、少年少女から摘出された脳がどこに集められているのか、という問いだった。リネットは、吐き気を覚えて口元を押さえずにいられなかった。

「聞きたいかい。いや、言い方を変えよう。僕が教えたとして、君はそれを信じるのかい? 額面通りに。権力者や、教祖の言葉、あるいは使い古しの常識を疑いもしない、あの愚昧な人間どものように!」

「人間の愚かさなんて、いちいちお前に言われるまでもなく知っている。わかりきった事を何度も繰り返すな」

「懐かしいな、エリコ! 君は昔からそうだった。いつもクールで、誰よりも賢かった」

「僕はお前なんか知らない」

 突き放すようにエリコが言い捨てると、クリシュナは微かに淋しそうな表情を浮かべた。エリコは、抜きかけたブラスターを下ろして訊ねた。

「方舟、とはどういう意味だ」

「人類の神話にもあるだろう。洪水を乗り越えて、次代に種や知識を繋ぐための、神聖な船だ。そう、君や僕たちのようなね」

「僕は船じゃない、人間だ」

「違うさ。もう君は人間じゃない」

 その様子があまりにも素っ気ないため、エリコもリネットも理解に苦しんだ。いったい何を言っているのか、とエリコは真顔で首をかしげた。

「ふざけてるのか」

「エリコ。厳密に言えば、いま地球上に存在する、人間と呼ばれる生物種、その全てが『方舟』なんだよ」

「……どういう意味だ」

 エリコが訝る様子に、クリシュナは極めて真剣な眼差しで答えた。

「人間のDNAのほとんどは、蛋白質に翻訳される事がない、いわゆる『非コード領域』で占められる。それは過去の人類にとって謎だった。しかし、大崩壊による研究の途絶はあったが、この百二〇年ほどでDNAの『非コード領域』の解明は進み、完全とは言えないが、おおよそ九九パーセントまで人類は解明した。まあ、その努力は認めてもいい」

 突然始まった遺伝子学の講義に、エリコもリネットも面食らった。いったいこの男は何を言っているのか。

「しかし、素粒子コンピューターが発達した現在でも、なお未解明の領域が残されている。不必要なまでに複雑に暗号化された、謎の領域だ。科学者たちはその、DNAの未解明領域を『神のブラックボックス』と呼び、解明は永遠に不可能ではないか、とさえ言っている。その呼称がどれほど真実に近いか、彼らは知らないだろうがね」

「さっきから、何をわけのわからない事を言っているんだ」

「創世記、一の二六『我々を象り、我々に似せて人を創ろう』というくだりがあるね。では、『我々』とは、いったい誰なのだろう? なぜ神が、複数でなくてはならないのだろう?」

 こんどは聖書か、とエリコは舌打ちした。エリコが産まれた国は、キリスト教とは遠縁の宗教国だった。シティ時代にも、聖書はそれなりに興味をもって読んではいたが、宗教の信仰そのものには特に関心を持っていなかった。

「洪水を生き延びるため、神がノアに建造を指示した方舟は、三階建てとなっている。これはなぜだろうね?」

「知らないね。二階じゃ足りないと思ったんだろう。海の上じゃ、増築も大変だ」

 エリコの、皮肉とも何とも言いようがない冗談にクリシュナは笑い出した。

「エリコ。人間にも三層構造になっている器官がある。わかるかい」

 その問いに、エリコとリネットは薄ら寒い何かを感じた。クリシュナは、もうわかっただろう、という笑みを浮かべた。

「そう。人間の脳は根もとから脳幹、大脳辺縁系、大脳皮質という、三つの層で構成されている。ノアの方舟と同じなのは、偶然だろうか?」

「回りくどい話をダラダラと続けられても、面倒なだけだ。いったいお前は何を言うために、わざわざ海の真ん中で僕を待ち構えていたんだ」

「答えを言ったら面白くないじゃないか。いずれ君は真実に辿り着くだろう。いや、これは君だけが持つ能力に関する事なのだから、君が自力で辿り着かなくてはならない。僕はそのガイド役を引き受けたんだよ」

 その言葉に、エリコのみならずリネットも反応を示した。エリコの能力。それは、ここ数日間の出来事の、中核となる問題である。ひとりの少年を、なぜこれほど多くの人間が追跡しなくてはならないのか、その真の理由とは何なのか。すでにエリコもリネットも、クリシュナの言葉を聞かざるをえない状況だった。

「君は、自分が何か異常な感覚を持っている、と思った事はないか? なぜ、これほどまでに、自分は他人と違うのか。なぜ、他人にわからない事が、自分にはわかるのか」

 エリコは絶句した。それはまさに今、エリコ自身が疑問に思い始めている事だからだ。なぜ、これから起こる事が突然わかるのか。なぜ、人の行動を予測できるのか。そしてなぜ、軍は執拗にエリコを追跡するのか。クリシュナはエリコをよそに、話を続けた。

「科学者達は、バイオコンピューターを発達させ、そこに人間の頭脳を組み込む過程で、時に異常な構造を持つ脳が存在することに気付いた。同じ人間でありながら、ほかの個体とは異なる脳だ。そして、ある科学者が辿り着いたのは、そうした脳の持ち主に、一定の割合で『超能力者』と呼ばれる人間がいた事だった」

「……出来損ないの空想小説だな」

「まあ聞きたまえ」

 クリシュナは、円盤の上に座禅を組むように座った。その様はまるで、東洋の仏像であるかのような錯覚をリネットは覚えた。

「そうした脳は、コンピューターの演算装置としても非常にすぐれた結果を弾き出した。そこに、ある仮説を持ち込んだ科学者がいた。『ACSR仮説』と呼ばれる理論だ」

「ACSR仮説?」

 リネットがブラスターの銃口を向けたまま訊ねると、クリシュナは頷いた。

「一部の科学者の間で提唱されている仮説、研究だよ。何の略称か知ったとき、僕はあまりの陳腐さに、一分半くらい笑いが止まらなかった! なんだと思う? 『アカシックレコード・リッピング理論』の略称だそうだ!」

 突然、海の上で笑い出したクリシュナに呆気に取られつつ、エリコはしびれを切らして訊ねた。

「笑うのは後にしてくれ。その、ダサい名前の仮説は、いったい何なんだ」

「『アカシックレコード』は聞いたことがあるだろう。この世の全てが記憶されている、という領域だ」

 それは大昔から語られている、ほとんどオカルト、神秘主義の範ちゅうに属する話だ。そこにアクセスすれば何でもわかるという。大方の人間は、与太話としか思わないだろう。

「ACSR仮説は文字通り、アカシックレコード領域から科学的、技術的な手段で、情報を抜き取ることができるという仮説だ。たとえば、敵国がどんな新兵器を開発しているか、あるいはどこの国と手を結ぼうとしているか、とかね。あるいは、職場の可愛い女の子が自分に気があるかどうか、脈があるかどうかもわかるというわけだ!」

「雲を掴むような話だな」

「普通はそう思うだろう。けれどエリコ、それなら君の、予知めいた能力はどう説明するんだい?」

 エリコはまたも絶句した。それがアカシックレコード云々の話かどうかは知らないが、エリコ自身は確かに、そうした体験を繰り返してきたからだ。特にここ数年は、それが顕著になっている。しまいには、おかしな声や幻覚まで体験するようになった。

「その話と、僕の脳がどう関係するというんだ」

「まだわからないかい? つまり、その仮説を技術として実現するための、条件を満たすかも知れない特質を、君の脳が備えているということさ。つまり、君の頭脳をバイオコンピューターに用いれば、誰でもアカシックレコードという無限の図書館にアクセスできる、と一部の科学者や、軍の上層部が信じているわけだ」

 あまりにも夢想的かつ不確実なその理屈に、エリコは驚けばいいのか、脱力すればいいのか、言葉に悩んだ。だがその一方で、なぜそんな脳の構造を判別できるのだろう、という疑問があった。クリシュナは、呆れるエリコに同情するような顔で説明を続けた。

「彼ら科学者が見ているものは所詮、頭脳の構造という表面的な差異にすぎない。それでも、何らかの違いがある、という事実には気がついた。彼らなりに、脳の構造については研究を重ねているようだね。それが的を射ているかどうかは定かではないけれど」

「異常才覚者矯正法は、そんな事のために敷かれた法だっていうのか?」

「まさか!」

 クリシュナは、吐き捨てるように笑い飛ばした。

「敷かれた法を、科学者と軍が利用しようと考えたのさ。公然と脳を調べることができる、渡りに舟みたいなシステムだからね」

「それじゃ、僕みたいなケースが他にあるのか? 僕の脳は、それほど異常な脳だというのか?」

 エリコは捲し立てた。自分がまるで異常者のように言われるのは、不愉快を通り越して不安さえ覚える。だが、クリシュナは笑った。

「異常才覚者なんてのは、人間が造った差別用語だ。エリコ、君は特別な、選ばれた存在だ」

「何が違うというんだ。僕はただの人間だろう」

「まだ、わからないか? じゃあ、はっきりと教えてあげよう。君や僕は、DNAの『神のブラックボックス』にアクセスできる存在、ということだよ」

 クリシュナの言葉は、エリコにとっては理解しがたくも、またどこかで納得のいくものでもあった。神のブラックボックスなどという領域に、本当にそんな秘密があるとすればの話だが、エリコが異様な特質を備えていることの、ひとつの説明にはなる。だが、まだエリコには疑問があった。

「ちょっと待て。それなら、原則的には全ての人類が、そのブラックボックスとやらにアクセスできるんじゃないのか。全ての人類のDNAに、ブラックボックスがあるんだろう?」

「だから、さっきそう言ったじゃないか。厳密には全ての人間が方舟なんだ、って」

「どうして、そんなブラックボックスなんて代物が、DNAにあるというんだ? まるで、誰かが仕掛けたみたいに。方舟とは、どういう意味なんだ」

 エリコは、何度目かの同じ質問をした。すると、クリシュナは指をパチンと鳴らして、エリコを指さした。

「いいぞ、エリコ。君はもう、真実の木の実をもぎ取れる、その寸前まで来ている。もどかしいな! 僕がもぎ取って君に手渡してもいいんだが、姉さん達はそれを許してくれないからな」

「姉さん? お前の他にも、その『方舟』とかいう奴らがいるっていうのか?」

 エリコの問いにクリシュナは無言で微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。

「残念だけど、これ以上は君のためにならない。何度も言うけれど、真実とは自分の手で掴まなければ、意味がないからだ。けれど君はいつか、真実にたどり着くだろう。そのヒントを授けるために、僕はここに来たんだ」

 そのとき、エリコとリネットの眼前で、驚くべき光景が出現した。クリシュナが立っている銀色の円盤が、音もなく浮遊し始めたのだ。イオンエンジンの音も聞こえず、どのような原理で飛行しているのか、まったくわからなかった。呆気に取られて言葉も出ないエリコに、クリシュナは告げた。

「エリコ、ノアの洪水神話で語られる、『洪水』とは何か、わかるか?」

 クリシュナは、それまでの柔らかな微笑みに代えて、まっすぐな瞳をエリコに向けた。

「方舟は、洪水を乗り越えるために造られた。永い永い、混沌の時代を乗り越えて、約束された聖なる山に生命を送り届けるために。見たまえ、人間が生み出した、この汚れゆく混沌の海を!」

 広大な、沈みゆく夕陽に照らされる海をクリシュナは示した。その表情には憤りと、哀しみと、慈しみが同時に内在していた。

「もうすぐ洪水の時代は終わる。『方舟』だけが、約束の地に辿り着く。エリコ、君も一緒にね。そして、この地上には本当の楽園が訪れる」

「それが、お前の言う『計画』とやらなのか?」

「計画よりも、『約束』と言うほうが、ずっとロマンティックだね! 約束された生命だけが栄える、栄光の時代がやって来るんだ。胸が高鳴るだろう」

 滔々と語るクリシュナに、エリコは鋭い視線を向けた。なぜなら、エリコにはクリシュナの語る言葉の意味と、選択した先にあるものが、かすかだが『見えて』しまったからだ。それを知ったとき、エリコははっきりと告げた。

「クリシュナ、僕はまだ君と、君たちと、手を取り合える自信がない」

 その答えに、クリシュナは無言だった。エリコは、リネットの手を取って宣言した。

「僕には大事な人がいる。大切な友達もいる。君たちと手を取り合うために、みんなを失わなくてはならないというのなら、僕はこちら側に残る」

「変わらないな! 君はそういう奴だ。誰よりも優しくて、だから自分を傷つける」

 ふいに、クリシュナの瞳から涙がひとすじ流れ落ちた。

「だからこそ、僕達は君を救いたいんだ。一緒に楽園に行こう、エリコ。そうだ、せめてリネットや君の友達だけは、君と一緒に暮らせるようにしてあげよう」

「クリシュナ。お前に悪意がない事はわかった。まだ、思い出せない事、わからない事だらけだが、お前の善意だけは理解した。そのことだけは言っておく。けれど」

 エリコはリネットの手を強く握り、空に向かって掲げた。

「僕にはまだ、捨てられないものがあるということが、この、ほんの数日の旅でわかった。だから僕は、この世界を自分の目で確かめたい」

「君はそれを選ぶというのか、エリコ」

 クリシュナは、淋しそうな瞳でエリコを見つめた。エリコは、強く頷く。クリシュナは、力なく微笑んだ。

「わかった。君自身の目で、世界を見るといい。そして、僕らとともに在ることを選ぶかどうか、君が決めてくれ。選択を強いるのは、神の本質ではないからね」

 銀色の円盤は、回転を始めた。不思議なことに、円盤が回転しても、クリシュナはまっすぐに立ったままだった。

「また会おう、エリコ」

 そう告げた次の瞬間、閃光とともにクリシュナは、円盤ごと消え去った。その後には、エリコとリネットが乗るホバーバイクだけが残され、エリコ達をここまで導いてきた二頭のイルカの姿は、もうなかった。

 呆然と立ち尽くす二人は、ずっと握り合っていた事を思い出し、慌てて手を離した。暗く赤い夕陽のせいで、赤面しているかは互いにわからないのが救いだった。

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