(28)敬礼
水平線の真っ赤な夕焼けを追いかけるように、リネットがステアリングを握るホバーバイクは、スラウェシ島北方の海上を西に向け疾走していた。しかしエリコとリネットは、ブロンクスの脅威が、不可解な結末によってではあるが取り払われた以上、無理をして海を越える必要もないのではないか、という気持ちにもなっていた。
「スラウェシ島でひとまず夜を明かしてから、移動する選択もあるよね。北側には大きめの都市もあるし」
エリコの意見に、リネットは何とも判断がつかない様子だった。
「移動するタイミングよりもエリコ、このまま西に行けばカリマンタン島に突き当たる。スラウェシより何倍も大きいし、海軍基地もあるわ。敵の縄張りに、自分から飛び込むようなものだと思うけど」
「そこは問題ない。僕の指示するルートを正確に抜ければね」
なんだか久しぶりに、自信満々のエリコだなとリネットは思った。エリコいわく、敵はこちらの逃走ルートがおそらくフィリピン経由で、わざわざカリマンタンを経由するような自殺行為に及ぶ筈がない、と考えているはずだという。
「単純に、裏をかくって事さ」
「単純すぎない?」
「いま流れてきたニュースだけど、どうやらチリ沖で軍事的緊張が高まっているらしい。SPF軍の本隊は、そっちに注力せざるを得ないだろう。黒旗海賊がこの隙に動く可能性もある。もう、一五のガキなんかに構っていられるか! って、偉い将校さんとかがブチ切れてるんじゃないかな」
通信端末に表示された軍事情勢を、やや苦々しい表情でエリコは読んだ。冗談めかしているが実のところ、エリコはほとんど完璧にSPF海軍の状況を言い当てていた。だが、エリコの関心は別なところに向けられてもいた。
「また僕のせいで、何人もの人が死んじまった」
エリコは、自分自身に吐き捨てるように声を詰まらせた。
「ブロンクスの件をフェンリルに相談していなければ、ラフマン達は殺されずに済んだ筈なのに。僕のせいだ」
「エリコ」
どちらかというと嗜めるように、リネットは強く言った。
「あなたの責任じゃない」
「そう言うのは簡単だよ。あなたの責任じゃない、あなたは悪くない。何とでも言える。けれど、ブロンクスに撃たれて死んだ団員自身、あるいは彼らの家族、フェンリルの仲間たちは、僕を恨んでるかも知れない。この少年にさえ関わらなければ、って……」
「エリコ!」
今度こそ、烈しくリネットは叱りつけた。エリコは、矯正施設島でも聞いたことのない剣幕に、一瞬怯んでしまう。
「あなた、ファジャルやエドモンドが何て言ったか、忘れたの? あなたの事はフェンリルが命がけで守る、って言ったのよ。彼らはそれを実行した。あなたは、その覚悟を馬鹿にする気なの?」
覚悟。それは、エリコにとって縁遠いはずの概念だった。だが、リネットは静かに言った。
「あなただって、自分を危険にさらして、SPF海軍を呼び寄せて黒旗海賊にぶつけたでしょう。それと同じ事よ。あなたには覚悟があった。その覚悟に、フェンリルは応えてくれた。何も恥じる必要はない」
「……そうなのかな」
「あなたが自分を認めなくても、私は認める。ファジャル達も同じ事を言うでしょう。死を悼むのはいい。罪の意識を感じるのなら、その気持も大切にしなさい。けれど、それを自己否定にまで繋げるのは、死者を冒涜するのと同じ」
「じゃあ、僕はどうすればいいのさ!」
まるで一〇歳の少年のように、エリコは訊ねた。リネットは、迷うことなく答えた。
「生きるのよ。誰かが繋げてくれた生命を、いつ死ぬにしても、きちんと全うしなさい。それが死者に報いる、たったひとつの方法なの。あなたも、私も。いいえ、全ての人がそう」
その言葉は、エリコの胸を深く打った。こんなことを言ってくれる大人が、はたしていただろうか。そう思ったとき、エリコの口をついて、シンプルな言葉が紡がれた。
「わかった。……ありがとう」
「たまには先生らしい事も言わないとね」
夕闇の中のリネットのシルエットは、エリコにはとても大きく見えた。
気を取り直して、とりあえず目の前の移動プランを改めて確認したところで、リネットはつい先刻体験した、奇怪といっていい出来事に言及した。
「ねえ、エリコ。それで結局さっきのあれは、一体何だったの?」
それは、ブロンクス准将がどこからか飛来したレーザーによって、撃ち抜かれたミステリーについてだった。ブロンクスのライフルは、間違いなくエリコを射程内に捉えていた。たとえエリコがどのような直感力を備えていようと、光速に等しいレーザー銃に至近距離で狙われたのなら、助かる術はない。事実、エリコは自らの死を覚悟していたのだ。だが、その直後に起きたのは、およそ信じ難い出来事だった。
「ブロンクスを撃ち抜いたあのレーザーは、いったいどこから放たれたものなの?」
リネットの問いに、エリコは無言だった。そのとき思い出していたのは、リネットが白いトラに襲われた時のことだった。あの瞬間エリコは、現実から隔絶した意識世界としか形容できない、真っ白な空間で謎の少年と対峙し、理解を超えた会話のすえに、リネットを救う事ができたのだ。
ブロンクスに起きた出来事にも、その時と同じ何かをエリコは感じた。超常的としか表現できない『何か』によって、エリコに放たれるはずだったレーザーは、ブロンクスを貫いたのだ。
そこで、エリコはようやく、理解の突端に辿り着く事ができた。
「……ブロンクスは、ブロンクス自身に撃たれた」
「え?」
リネットは、エリコの言葉が波の音に遮られて、正確に聞けなかったのかと思い、聞き返した。
「なんて?」
「ブロンクスを撃ったのは、ブロンクスが撃ったレーザーだったんだ」
同じ事を繰り返されて、ようやくリネットは聞き間違いでないことを理解した。だが、それはさらに困惑を深めただけだった。
「何を言っているの?そんなこと、ある筈がないじゃない」
「じゃあ訊くけど、リネット。あのブロンクスを貫いたレーザーは、誰が撃ったの?」
さっき自分に投げかけられた問いを、そっくりそのままエリコはリネットに返した。今度はリネットが、答えに窮する番だった。言いよどむリネットに、エリコは救いの手なのかどうかわからない、さらに難解な解答を示した。
「こいつは間違いなく、僕を撃った。けれど、その行為の因果が、『前もって』自分自身に返ってきたんだよ」
「……ちょっと、待って」
リネットは、掌を向けてエリコの話を遮った。いよいよ理解のレベルを超えてきた、と思いながら。
「私にわかるように説明して」
「ええとね、因果の法則ってのが――」
もう初っ端から無理っぽいな、と諦めたリネットは、黙ってそのまま語らせることにした。
エリコいわく。
この世には『因果の法則』というものがあり、『放ったものは返ってくる』のだという。すなわち、ブロンクス准将がエリコを『撃った』行為が、そのまま准将に返った、ということらしかった。
この時点でもうリネットの、理解のキャパシティを超えかけていた。リネットは手を上げてエリコに再び「待った」をかけた。
「それはおかしいでしょ? ブロンクスはまだ、トリガーを引いていなかったはずよ。仮にレーザーが彼に跳ね返ったのだとしたら、まず彼が先に『撃った』事実が必要になるはず」
それは、リネットが精一杯、理解を超えた仮説に譲歩した質問だった。エリコは、矯正センター島でリネットに呼び出しを食らった時の表情に戻っていた。
「だから言っただろ。行為の因果が『前もって』返ったんだ、って」
「だから、そこがわからないって言ってるの!」
これはいったい何の禅問答なの、とリネットが夕焼けに向かって叫ぶと、エリコはゲラゲラと笑い出し、リネットは人が真剣に質問しているのに、と抗議の目を向けた。エリコは呼吸を整えると、さっそく例によって『だいぶ飛んだ』話を始めた。
「一九九五年、ドイツ・ケルン大学で、音声データのマイクロウェーブを『量子バリアー』と呼ばれる、特殊なフィルターに通す実験を行ったことがある。ヨーロッパからアメリカ大陸に向けて、ひとつは通常の電波、もうひとつは同じ電波を量子バリアーに通して音声データを送り、挙動がどう変化するか比較したんだ。推測ではフィルターによってマイクロウェーブ伝送は阻害される筈だったんだけど、まったく予想外の事が起きた」
唐突に始まるエリコの謎雑学も、いいかげんリネットは耐性がついていた。殺される寸前だったかも知れないのに、平然としている少年の豪胆さに呆れながら。
「よく聞いてよ。量子バリアーを通った音声データは、予想の全く逆の結果、つまり『発信する前に』目的地で受信されたんだ」
「そんな事あり得るの?」
「ブロンクスが撃たれたのは、彼がトリガーを引く『前』だった。推測だけど、これも量子バリアーの実験と同じ事が起きたんじゃないのかな」
エリコは淡々と推論を述べたが、リネットはまだ納得がいかなかった。
「じゃあ、何? ブロンクスはあなたを『撃とうとした』から『撃たれた』っていうの?」
「それが『因果の法則』だよ。行ったものは、戻って来る。コンクリートを素手で殴れば、衝撃はそのまま拳に返ってきて大怪我をする。ブロンクスは僕を『撃つ』と決心し、その行動はすでに確定していた。その時点で、ブロンクスに因果が跳ね返ることも確定したんだ」
エリコが話せば話すほど、話が理解を超えてくる。リネットは、ひとつの疑問に行き着いて、怪訝そうに訊ねた。
「ちょっと待って、エリコ……それって要するに、あなたがその……」
次のセンテンスが出てこない。というより、理性と常識が拒否している。だが、当のエリコはまったくの平常運転だった。
「うん、そうだね。僕が、一種の超能力で、因果関係を逆転させのかも知れない」
「超能力!?」
「それ以外に説明できる?」
リネットはもう言葉がない。何かおかしい、この少年はどうかしている、と今まで思ってはきたが、まさか、いやもしかして、本当に異星人の親戚なのではないか。聞いているだけで頭がおかしくなりそうなので、リネットは別な疑問に話を切り替えることにした。
「そもそもブロンクスは、どうしてエリコ、あなたを殺そうとしたのかしら。あなたの身柄を確保して本国に連れ帰れば、手柄になるはずなのに」
「そこなんだけど、あいつ僕らを『海賊ども』って言ってたよね。あれ、どういう事なんだろう」
一度記憶を失ったブロンクスが、突然軍人に戻ったかと思うと、今度は見境なくレーザーを放ってきたのは何故なのか。
「軍人の本能だけが目覚めて暴走した、って事なのかな」
「それだわ、エリコ」
リネットは、わずかに振り向いて指を立てた。
「以前、駐留部隊にいた時、極度のストレスで精神に障害をきたした同期がいたの。突然、次の演習がどうしたとか、教官がどうしたとか、戦場の任務とまるで関係のない事を言い出した。やがて、軍医の診断で驚くべき事実がわかったの」
「何だったの」
「彼は、精神が士官学校にいた時まで退行していたの。つまり、駐留部隊に配属させられて以降の記憶が、すっぽ抜けていたというわけ」
「……なるほど」
エリコは、ブロンクスの様子を注意深く思い出してみた。あの時のブロンクスは、三〇歳前後の、経験を積んだ兵士の挙動には見えなかった。ただただ、任務だけに集中する若い兵士のようだった。
「海賊と戦っていたような若い兵士の時代まで、記憶が退行していたってこと?」
「そう。それなら、あなたの存在を忘れていることも説明がつくわ。ブロンクス准将といえば若い頃、戦場では誰よりも果敢に戦った、と言われている」
「つまり僕らは、その若い頃の姿を目撃できた、というわけか」
エリコは、複雑な思いで聞いていた。間違いなくブロンクスは、エリコの『生命』を狙ってきた人物であり、『敵』だった。だがエリコは、どうしても心の底から、嫌悪を覚える事ができなかった。
ブロンクスは、ある種の悪党、と言っていい人物だったのだろう。だが、エリコにはブロンクスが、自分自身の『在り方』に忠実に生きた人間に思えた。それが『正しい』のかはわからない。が、悪党は悪党なりに在り続けたのが、ブロンクスだったのではないか。
エリコは無意識のうちに、深い海に向かって敬礼をしていた。
それが正しいのかどうかは、わからなかった。




