(26)リネットの過去
屋台の老婆が怪訝そうにエリコとリネットの様子をうかがう中、ぼさぼさの髪の男は、エリコの顔を凝視していた。エリコはリネットの様子から、ようやく相手が何者なのか把握した。あの神父が言っていた、漂着していた記憶喪失の軍人とは、ブロンクス准将だったのだ。
神父の話を総合するとブロンクスは、あの薄気味悪いメイドロイドにホバービークルを撃沈された際、おそらくビークルの座席によって爆風や破片から護られ、奇跡的に助かったのだ。その後、執念か幸運かはわからないが、シートとともに海流に乗って、この島に漂着したに違いない。
だが、ブロンクスは本当に記憶を失っているのか?エリコは訝ったが、少なくとも記憶があるなら、すでに無事を海軍本部に連絡して、救助を要請しているはずだ。
「……エリコ」
リネットは、どうするべきか慎重にエリコの反応を待った。エリコもまた、リネットと同じだった。ブロンクスが記憶を失っていたとしても、目の前にエリコが現れたことがきっかけで、記憶が戻る可能性もあるためだ。
だが、それが杞憂なのかどうか、口を開いたのはブロンクスの方だった。
「……何か、私の事をご存知なのですか」
その、鍛えられた肉体に似つかわしいとは言い難い、弱々しい口調にエリコは確信した。ブロンクスは記憶を失っている。いま目の前にいるのは、おそらく自身の名も、所属もわからない、三〇前後の男だった。
「い、いいえ。なんとなく、知り合いに似ているような気がしたもので。人違いのようでした、すみません」
「そうですか……」
ブロンクスは残念そうに、うなだれてその場を後にした。病院はこの状態であるにかかわらず、外出を許可しているらしい。
さすがにこうなるとエリコも、一度命を狙われた相手とはいえ、僅かに気の毒に思えてきた。記憶を失っているというのなら、襲ってくる心配もあるまい。とりあえず警戒はするが、この島に留まっている間何もなければ、それでこの件は終わりにしよう、とリネットも同意した。
念のため、リネットはエドモンドに、ブロンクス准将を見かけた件で通信を入れておいた。エドモンドからは、すぐに最寄りのフェンリル団員を向かわせて身柄を確保する、との返信があった。
老婆が作ったテイクアウトの炒めた麺は、得体の知れない人工の麺に、得体の知れない山菜か何かがぶち込んである代物だったが、化学合成の香辛料と塩辛さで誤魔化され、いちおう食べる事はできた。教会の隅の部屋でテーブルを挟んで、互いに腹を壊してない事を確認すると、エリコとリネットは残りを一気にかき込んで、ミント味の蒸留水を飲み干した。
「リネット、いま気付いたんだけど」
「なに」
「この部屋、もとは告解室だったらしい」
壁面に残る不自然な木枠の跡から、エリコはそう理解した。ここで過去、神父に何人が何の罪を告白したのかはわからないが、ここまで正当防衛とはいえ、少なからぬ人命を奪ってきた立場でもあるだけに、二人の心境は複雑だった。
だがリネットは、エリコがまた精神の深みにはまるのを防ぐため、エリコの手を握った。
「前にも言ったけど、いいとか悪いとか考えなくていい。あなたは命を脅かされて、抗う過程で何人かが死んだ。そういう出来事があった、それだけ」
リネットは、ごく淡々と言った。
「あなた自身、いつかレポートに書いたでしょう。善悪とは、出来事に対して人間が意味付けをした幻想に過ぎない、って」
「そんな、ひねくれたレポートを書いた奴がいたのか。ろくでもない天の邪鬼だな。担当教官は、さぞかし胃が痛かっただろう」
「本当にね!」
リネットは、エリコの目を直視しながら思いっきり手首をひねった。もと告解室に響く少年の悲鳴がおさまると、とりあえずエリコが通常営業である事に安心したリネットは、ブラスターを用意して椅子を壁際に引いた。
「長椅子はあなたが使いなさい。私は仮眠を取る」
「あのブロンクスが実は記憶が戻ってて、僕らを狙ってきたらどうする?」
「決まってる。正当防衛の権利を行使するだけ」
過去に告解室で、誰かを撃ち殺すことを堂々と宣告した人間はいただろうか、とエリコは考えた。
そもそもリネットは、軍人とはいえ相手を撃つことにためらいがない。その、苛烈ともいえる容赦の無さはどこから来るのだろう、とエリコが思ったとき、リネットが静かに語った。
「初めて人を撃ち殺したのは、一九歳の七月」
それまで見たことのない、リネットの切なげな表情に、エリコは背筋が寒くなる気がした。
リネットは一九歳の二月、士官学校卒業を目前にして、中東エリアのある戦闘区域に緊急配備された。軍からは異例の「卒業扱い」という名目で、制服その他官給品一式を手渡され、気がついた時には寮を引き払い、同期の士官候補生達と輸送艇に乗り込んでいた。通常は卒業とともに任命される少尉の階級も、「見込み」という扱いだった。
灼け付く大地で待っていたのは、植民地での村落の警備任務だった。要は、二二世紀でも僅かながら産出される石油利権を護るための兵士、ということだ。
ここでリネットは着任早々に、営倉入りするという伝説を作る。リネットがいる小隊を含む中隊を率いる大尉がある夜、リネットを強姦しようと試みた。しかしリネットは恐怖と怒りに任せて反撃し、徒手空拳で全治九ヶ月の重傷を負わせ、後日談になるが結果的に退役に追い込んでしまったのだ。
当初は過剰防衛との声があったものの、もともとその大尉は悪評高い人物であり、どちらかというと陰ではリネットに喝采を送る将官、士官の方が多かった。加えて、むしろリネットの度胸と戦闘能力はプラスに捉えられ、営倉入りは三日で終了した。
営倉を出たリネットは、その武勇伝のおかげで、色目を使ってくる男性はいなくなった。そして同時に、デートに誘おうとする男性もいなくなった。ついた渾名は「刃仕込みの白百合」「白いテレーズ・ファイアストン」だった。ちなみにリネットを襲った大尉は、入院している間に妻が若いミュージシャンと不倫のすえ逃亡、という悲惨なおまけまで付いている。
ともかくリネットはその事件以来、何かと周囲から頼られる事になる。それがもっとも顕著だった出来事が、その年の七月に起きた。
リネットは、駐留している村の地元民たちと、しだいに仲良くなっていった。現実にはリネットが属する国のエネルギー企業や軍需産業などの絡みもあり、政治レベルでは必ずしも良好な関係ではなかった。男性兵士による地元女性への強姦事件も起きており、当事者でもないリネットが石を投げられて、額を怪我したこともある。それでも、リネットという個人は不思議と、そのようなしがらみを超えてコミュニケーションできる所があった。
そんな七月中旬、それは起こった。北の、かつて存在した大国の軍の残党が、もはや戦略目標さえ持たない暴徒と化して、周辺国で侵略行為をはたらき始めたのだ。やがて暴徒の魔の手は、リネットが駐留する区域にまで及んだ。
結果的に暴徒はほぼ全滅する結果に終わるのだが、その過程で地元民や、駐留部隊の同期の兵士たちが死亡してしまう。生き残った者も、初めての戦闘で敵兵を殺害した事に耐えられず、精神を病んでしまう者が続出した。
リネットは村人や味方を守るため、殺し、殺される恐怖を圧し、文字通り必死でレーザーライフルを放ち続けた。その間、何人の泣き喚く同期を励まし、叱咤したかわからない。気が付いた時には一人で、敵兵士二七名を射殺していた。戦闘が終わってその事実を知ったときリネットは、それまでの人生で食べたものを全部吐き出したのではないか、と思えるくらい、乾いた大地に嘔吐した。
人を殺すとは、こういうことか。
名も知らない、自分が撃ち殺した敵兵士の遺骸を事務的に「処理」しながら、リネットは思った。人間とは何なのか、なぜ神は人が人を殺さなくてはならない、生命が生命を奪わなくてはならない世界しか創れなかったのか、それが神の望みなら、神とは何と悪趣味なろくでなしなのか、と三日三晩悩んだ。
そんなリネットの心の支えになったのが、四歳年長のシンシア・キンバリー少尉だった。シンシアは、同じ経験を自分もした事を打ち明け、納得のいく答えなどないが、同じ気持ちを共有できる相手がいる事それ自体が、リネットをぎりぎりで救ったのだ。
ともかく、その戦闘を経てリネットは、兵士として戦う心構えを身に着けてゆく。ほどなくしてリネットは正式に少尉の階級を与えられ、それとほぼ同時に異常才覚者矯正施設島・P7に教官として配属され、当時一四歳のエリコ・シュレーディンガーと出会うのだった。
「初めてあなたに会った時、なんて思ったか言ってあげましょうか」
「いらない」
エリコは、リネットの申し出を断固として拒否した。どうせ、何考えてるかわからない気味の悪い少年だったとか、ろくでもない感想の機銃掃射を受けるに決まっている。リネットは懐かしそうに笑った。
「あなたのレポートに反発を覚えたのはね。半分は、私自身どこかで考えていたことを、文字にして突き付けられたせいだと思う」
「ふうん」
「黙っていたけれどね。私もエリコ、あなたと同じ戦災孤児なの」
その情報に、エリコは驚きの目を向けた。
「そんなふうには感じなかった」
「極力、表に出さないよう振る舞ってきたからね。まあ詳しくは言いたくないけれど、孤児になった過程はエリコ、あなたと似たようなものかも知れない。両親の顔も覚えていないもの」
似たようなものどころか、全く同じではないか、とエリコは思った。だが、リネットは若くして少尉になっている。エリコがシティの裏通りで胡散臭い男たちと関わっていたような時分に、おそらく士官学校に通っていたのだろう。
「軍人になったのは、どうして?」
「他に道がなかったもの」
あっさりとリネットは答えた。
「頼れる人はだれもいなかった。そんな少女がすんなり入れる場所なんて、士官学校くらいしかなかったの。あまり好きな言葉ではないけど、まあ事実上の職業軍人ね」
ケラケラとリネットは笑うが、その笑顔の裏には重い気持ちを抱えているであろう事が、エリコには嫌というほどわかった。現在の世界情勢は実のところ極めて不穏な状況にあり、一〇年もしないうちに再び世界戦争が起きるのではないか、と予測する者もいる。とりあえず仕事口が欲しい若者は、士官学校に行かざるを得ないという事もあるし、もっとわかりやすく徴兵を敷いている国もある。
カトーによればかつて滅亡したJAPANでも、二〇四〇年代初頭には徴兵制度が復活していたらしい。記録によると、それまでネットワーク通信上のコミュニティで得意げに主戦論を唱えていた大勢の若者や中年たちが、いざ乾いた大地に立たされると、帰りたい、ごめんなさい、お母さん、と泣きながら、殺人ドローンに撃たれて死んでいったという。ある生き残った男性は、「アニメーションで戦争を知った気になっていた自分を恥じる」とネットワークコミュニティに日記を書き残し、残った右腕で頭を撃ち抜いた。
人間はどこまで行っても戦争を手放せない。それが自然界の掟、動物の本能なのだ、という理屈は何百年も前から言われているが、それほど自然界の掟が好きなら、さっさと文明なんか放り出せばいいではないか、とエリコは思う。
技術の発達は手放しで歓迎するのに、精神、倫理の発達はなぜか断固として拒絶し、原始人以下でいいとする、人間たちの思考は理解に苦しむ。そうして科学技術を神のように崇めた帰結として、いま人類文明は終焉の断崖に向け、ゆっくりと歩いているのだ。
リネットは、包帯を巻き直した左肩の痛みに眉をひそめながら言った。
「今でも、人を撃ち殺すのは恐いよ。当たり前だけど。できることなら、もう人なんか殺したくない。同期のみんなは、初めて相手の兵士を撃ち殺して、相手の死体が自分達と変わらないような年の若者だと知って、発狂してしまった」
むしろそこで耐え切った自分こそが異常なのだ、とリネットは断じた。
「今は、あなたを守るためなら、私は殺人鬼にでもなれる。あのブロンクスがもし襲ってくるというのなら、容赦しない」
リネットは今度こそ、身体を休める姿勢を取って腕を組んだ。
「夜になったら移動する。少しの時間だけど、眠りなさい、エリコ」
それは軍人、そして教官としての指導だった。エリコはリネットに自分と重なる部分があった事に、哀しさと暖かさの両方を感じていた。そして、リネットが危機にさらされた時、自分はリネットと同じ選択を取る勇気があるだろうか、と思いながら、エリコは木の長椅子に横たわって目を閉じた。
◇
病院を経営している浅黒い肌の地元の中年医師は、記憶がもどるきっかけになるかと思って散歩に出させた男性が、変わらない様子で戻ってきた事を残念に思った。診察室の古い木製の椅子に座る男性は、その頑健そうな肉体に似つかわしくない、気弱な表情を浮かべていた。医師はそれでも、精一杯励まそうと努力した。
「まあしかし、海を流されていながらこうして身体に何の異常もないのは、頑丈だという証明ですよ。記憶もきっと戻るでしょう」
「そうだといいのですが……」
「うむ。そうだ、女性看護師たちが、ひとまずあなたの名前を決めてはどうか、と提案しているのだが、どうでしょう。何かと不便でもあるし、だいいち人間らしくない」
「はあ……」
男性は、わずかに困惑の色を浮かべて気まずそうに笑った。
「何か、適当な名前がありますでしょうか」
「うん、看護師のひとりが、なんだか軍人みたいだということで、『コロネル(大佐)さん』とお呼びしてはどうか、と言っているんですが、どうです」
そのネーミングに、男性は一瞬、わずかに目を見開いた。
「……コロネル」
「いやあ、まあ適当に考えただけですから。この際、何か名乗ってみたい名前を名乗るのはどうですか。私なら、往年の名優の名前を拝借したいところですが」
冗談めかして笑う医師に、男性は力のない笑みを浮かべて答えた。
「いえ……悪くありません。そうですね、とりあえず『コロネル』と名乗ることにします」
コロネル氏は、まんざらでもないという顔で診察室をあとにした。すでに窓の外は、日が暮れ始めようとしていた。




