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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第三部
25/52

(25)亡霊

 エリコとリネットが、ファジャル達に別れを告げる間もなく島を脱出して四〇分ほど経過したころ、南パシフィック連邦海軍ダーウィン基地にはすでに、島の駐留部隊が独断でエリコ・シュレーディンガー確保に動き失敗した、との報告が届いていた。

 だが折悪しく、太平洋南東部に南アメリカ大陸某国の海軍部隊が「演習」と称して艦隊を展開し、両国間に緊張が走る。また黒旗海賊が再び動きを見せているとの報も入っており、本部会議室では海軍総司令、総参謀長と将校、事務官、情報部主任らもまじえた会議が、やや紛糾をみた後、膠着した空気になっていた。

「これ以上のエリコ・シュレーディンガー追跡は、私は反対です。手に入れたところで、どの程度の戦略的価値が見込めるかもわからない子供の脳みそに、これ以上海軍が振り回される必要はない。まして人的損害まで出ているんだ。いま、現実に海に展開している軍事的問題に目を向けるべきではありませんか」

 五十代半ばの白髪が目立つ痩身の提督が、同意を求めるように居並ぶ諸提督を見渡した。現場の提督は何となく、同意に流れている空気が感じられた。一人の老提督は、椅子に反りかえって会議室に睨みをきかせた。

「同感だ。ACSR仮説だのと言われても、我々にはその詳しい内容はさっぱりわからん。何やら予言、予知めいた方法で、一歩先をゆく戦略を立案する? そんな雲をつかむような話に予算と人員を割くぐらいなら、老朽化した戦艦や艦装を何とかしてくれ。兵士の質も落ちる一方だ。それとも海軍本部は、オカルトに傾倒したヒムラー親衛隊の生まれ変わりか?」

「口を慎んでいただきたい! それ以上は侮辱とみなしますぞ」

 まだ若い参謀次長が、まぶたを痙れんさせながら声を張り上げた。だが、提督は怯まないどころか、さらに火がついたようだった。

「侮辱でも何でも言ってやるとも。たかが少年一人、取り逃がしたところでどれほどの損失だ! それとも海軍は、学生の脳みそに頼らなければ戦略ひとつ立てられない、烏合の衆とでも言うのか!? それこそ、われわれ軍人への侮辱ではないか!」

 テーブルを叩く痩身の提督の気迫に、年長の総参謀長までもが一瞬気圧された。張り詰めた空気をよそに口を開いたのは、初老の事務官だった。事務官は壁面に浮き出したスクリーンに、ここ数日間の人的、物的リソースの変動を示すグラフを映した。

「ちょっとこいつを見てくれ。P7矯正センター島の津波被害による、人的および金銭的損失だが、ご覧のとおりけっこうな数字だ。これに、くだんのエリコ何とかという少年の追跡にかかった費用、リソースの消耗、そして人的損失を加えると」

 そこに表示された計算結果に、会議室にいた面々の間でどよめきが起きた。たった一人の少年によって、海の藻屑と消えた軍事力や物資、人員の大きさに、驚愕の声をあげる提督もいた。

「なんということだ。実質たった一人に、我々はこれだけの被害を受けたのか。いっそ、その少年をそのまま参謀として迎えた方が良いのではないのか」

 それが冗談交じりの皮肉であったのは明らかだったが、いっぽうで全くの皮肉に留まらないこともまた、数字が示していた。事務官は沈黙がおとずれたタイミングで、ふたたび口を開いた。

「もちろん国家の政策にまでは具体的な意見をする立場にはないが、そもそも例の異常才覚者矯正法によってカネ、リソースが圧迫されているという現実も、ひとつの現場の意見として述べておくよ。兵士が足りない足りないと言いながら、またあの孤島に人員を配置するというなら、個人としては反対だ、とだけ言っておこう。ところで、ラマヌジャン監察官のご意見も聞いておいたほうがいいのかな」

 目上に対して物怖じしない事務官は、冷たい笑みを浮かべて黙っている、銀髪の若い女性監察官を見た。ヴィジャヤラクシュミ・ラマヌジャン監察官の金色の瞳は、北欧の雪原に反射する陽光めいていた。

「私は事務官と同じく、政策の方針そのものに意見はできません。ですが、かりに海軍の活動が、政策の範囲を越えて誰かの人権を脅かしているというのであれば、その点について看過することはできません」

 その、流氷のような声色は、一瞬で会議室の熱量を奪った。

「民を守るべき組織が人権の侵害を容認するというのであれば、こちらとしても意見を述べるに如くはありませんが、これは越権行為でしょうか、総司令官閣下」

 その問いかけ自体がすでにひとつの意見である事は明白だったが、黒人の総司令官は表情を変えずに答えた。

「ここは会議の場だ。意見を述べる権利は、席につく全員にある」

 ラマヌジャン監察官は、少し険しい笑みを総司令官に送った。意見を受け入れたとて、それを考慮するも、ダストボックスに放り込むも、上層部の裁量次第ということである。だがそれでも、総司令官はひとつの結論を述べた。

「俎上の全ての意見を同時に是とする事も、否とすることもできない。エリコ・シュレーディンガーの追跡は継続するが限定的なものとし、軍全体としては、差し当たって直接的な軍事上の脅威を優先する」

 遠回しではあるが、要するにエリコ・シュレーディンガーの追跡はSPF領内の各地駐留部隊に任せ、本部は太平洋南東海域で発生した軍事的緊張、および黒旗海賊の動向に警戒すべし、という決断だった。あるいは、厄介な問題を先送りする口実と見る者もいたが。


 会議を終え、最後に室内に残ったのはアーノルド少将と、ラマヌジャン監察官だった。

「申し訳ありません、監察官。テレーズ・ファイアストン大佐の手にも余るとは、我々も予想できず……ブロンクス准将まで行方不明になるとは」

「そうではないでしょう。むしろ、熟練のファイアストン大佐の手に余るほどの、可能性を秘めた少年ということではありませんか」

 ラマヌジャン監察官は微笑んだが、それはアーノルド少将には、冥界からの使者の微笑みにも見えた。

「とはいえ、総司令官がああ仰る以上、追跡は見合わせる必要はありそうですわね」

「はっ」

「下がってよろしい。ひとまず、諸々ご苦労さまでした、アーノルド少将」

 高原の風に揺れる花のように、ラマヌジャン監察官は立ち去った。アーノルド少将は無意識のうちに、総司令官に対するそれよりも、深い礼をして見送った。



 エリコは左腕が自由に動かせないリネットの代わりに、操縦訓練がてら海上にホバーバイクを走らせていた。数日ぶりに『先生』に戻ったリネットの指導が後部座席から飛んでくる中、エリコは持ち前の頭脳で、とりあえずシステムはほとんど理解し終えていた。が、リネットは容赦がない。

「知識と実践は別だからね。ビークル、それに船舶の運転もどこかで覚えないと」

「厳しいな。リネットも軍人続けてたら、テレーズみたいになってたのかな」

「あんな迫力ある女性に見える?」

 少なくとも精神的には対抗できるんじゃないのかな、とエリコは思いながらも、口には出さなかった。もう陽が沈みかけている海を進んでいると、ホバーの通信パネルにテキストメッセージが届いた。送信者はニューウェイだった。

「なんだろう。挨拶もする暇なかったからな」

 パネルをタップすると、操縦に集中するエリコのかわりに、リネットが読み上げた。

「エリコ、そしてリネットへ。無事という想定で送るが、ファジャルからの伝言だ。『ルーカスがお前達を危険にさらした事は、心から謝罪する。お前達がSPF領を出られるよう、全域のフェンリル団員に、命がけで協力するよう通達したので、これを罪滅ぼしとさせてほしい。なおルーカスはこちらのやり方で、ケジメはつけさせた』」

 ケジメという表現で、大体察したエリコとリネットは無言だった。

「『リネット、うちの女団員の忠告だが、エリコは無自覚に女が寄ってくるタイプだそうだ。変な虫がつくのが不安なら、首輪つけてきっちり躾けておけ、だとよ。じゃあな』」

 読み上げながら、リネットは眉間にしわを寄せてエリコの首をつねった。エリコは理不尽に対して、涙目で抗議の視線を送る。文章の続きはニューウェイからだった。

「エリコ、この世に正解なんてものはどこにもない。お前にとっての最大の権威は、お前自身だ。ホバーが壊れたらまた来るといい。リネット共々、良い旅になるよう祈っているぞ。元気でな」

 技師のニューウェイから、祈っていると言われるのは奇妙だったが、悪い気はしなかった。が、そのあとの文章に、二人は肝を冷やした。

「追伸。お前が遠隔発進させたホバーバイクがぶち破った、ガラスとトタンの代金はツケにしておいてやる」

 二人は同時に額に手を当てて、眉間にしわを寄せた。ツケと言っても、いったいいくらなのか。冗談めかしてはいるが、冗談とも思えない。しかし、払わせたいなら送金先を記載しても良さそうなものである。とりあえず保留、ということで二人はこの件を、脳内のメモリーの隅に追いやった。



 陽が傾いてきた洋上は漁船の影もなく、水上を走るのはエリコのホバーバイクだけだった。エリコは、見晴るかす水平線を睨む。

「これじゃ見つけてくれって言ってるようなものだ」

「SPF軍がすぐに動くと思う?」

「可能性はある。少なくともSPF領内の島々に駐留している部隊には、警戒するよう指令が下っているはずだ」

 エリコは、モニターに表示された安っぽい海域マップを見た。現在ホバーバイクは、SPF領インドネシア・スラウェシ島に向かって西方向に移動している。島は大きな手が掴みかかってくるような地形であり、島を迂回するには数百キロメートルも移動しなくてはならない。ホバーバイクのエネルギーが保っても、乗っている人間の体力と神経が保ちそうになかった。

「北側の湾に入って、ゴロンタロ市から陸を横切るかたちで、北のセレベス海に抜けるのが理想的なようにも思えるけど、どう?」

 エリコの提案に、リネットは渋い顔をした。

「ゴロンタロは比較的大きな市街地がある。真っ先に軍が網を張ってるはずよ」

「じゃあ山を突っ切る?道があればだけど」

「うーん」

 その後、あれこれと議論しながら海上を進んでいるうちに、島がまた見えてきた。小さな町もある。ここは多島海であり、海を移動すれば島にぶつかる。都市はないが、中小の港町は点在しているようだった。

「この島にSPF軍の駐留軍はいるの?」

「私もそこまでは知らないわよ。スラウェシ島には間違いなく基地があるけど、周辺のこんな、せいぜい幅一〇キロメートルあるかどうかっていう島に、部隊が駐留してるとは考えづらい」

「なるほど」

 ここで、ふたりの意見はほぼ同時に一致した。

「フェンリルを頼るとしよう。この島に団員がいればいいけど」

「それしかなさそうね。彼らならスラウェシ島を通過するルートも、知っているかも知れない」

「持つべきものは海賊の知り合いか」

 物騒だが、頼もしくはある。周囲に追跡者の様子がないことを確認すると、ホバーは大小のボートが停泊している、小さな港に入った。


 島の漁師らしき老年の男性に訊ねると、町はフェンリルの縄張りではあるものの、団員が常駐しているわけではないようだった。それでもフェンリルとの繋がりはあるため、事情を話すと快く応じてくれた。

「あのホバーを停めておくぐらい、どうということもない。もう、日も傾いてきたし、今日はここで泊まっていけばどうだ。部屋ぐらい何とかなる」

 ここまで散々な目に遭ってきたエリコとリネットは、人間というのはこれほど親切だったのか、と思ってしまうほどだった。町の様子からして、あまり上等な宿は期待できそうにないが、ホバーの中で寝るよりは千倍ましである。

 その宿だったが、手を差し伸べてくれたのは、まったく予想外の人物だった。


「当教会で良ければ、一晩お泊りください」

 さっきの漁師よりさらに老齢の、どうやら神父らしい眼鏡の男性が、れんがと木造の古い教会の一室を貸してくれるという。こんな罰当たりな人間が泊まっていいのか、とエリコが冗談めかして訊ねると、神父は笑った。

「罪のない人間など、この世におりませんよ。しかしなんというか、不思議な縁もあるものです。今朝も、どうやら記憶を失われている方が、この教会にふらりと立ち寄られました」

「記憶を?」

 エリコは、教会の屋根の十字架を見上げながら訊ねた。

「ええ。服は焼け焦げていてボロボロで、たいへんな目に遭われたようです。あるいは海賊に襲われたのかも知れません。何か、座席のような黒いものにしがみついたまま、この島の浜辺に漂着されています」

「そんな目に遭って、歩く事はできるの?」

「ずいぶんと鍛えられた方のようで、ひょっとして軍人ではないかと思われるのですが、身元を確認できるものが何もなく……」

「軍人!?」

 エリコとリネットは、声を揃えて背筋をひきつらせた。

「そっ、その人いまどこにいるの!?」

「はい? ああ、病院におられる筈です。だいぶ消耗されていましたので、私がお連れしました。ただ、この町にある設備では顔認証による本人特定ができないので、明日にも西にある、もう少し大きな町の警察署に行ってみる、という話です」

 

 案内された教会の一室で腰をおろしながら、エリコとリネットは神父から聞いた、軍人かも知れないという人物について考えていた。

「軍の人間がいるとしたら厄介だな」

「でも、記憶を失っているんでしょう? それなら、まあその人には気の毒だけど、別に私達が心配する必要もないんじゃないの」

「うーん」

 エリコは唸った。が、いくら考えたところで、ひとりの見知らぬ軍人のことなどわかりようもない。そうしているうちに二人はお互い、空腹になりかけていることに気が付いた。ルーカスの一件でさんざん走り回って以降、何も口にしていないのだ。

「この町って、何か食べる所あるの?」

「あまり期待できそうにないけど」

 

 エリコとリネットは、最悪でもリュックに突っ込んである携行食がある、とダメ元で町を歩いてみた。すると、屋台というのも憚られるような掘っ立て小屋に、老婆が不気味な笑顔を浮かべて店を出していた。ファジャルに案内された酒場で出たのとよく似ている、炒めた麺がテイクアウトできるらしい。だが、お世辞にも衛生的には見えないし、店の雰囲気はどちらかというと、魔女の占い館に近い。リネットは眉間にシワをよせた。

「ここ、食べて大丈夫かどうか、あなたの予知能力でわからないの、エリコ」

「さあ、知らない。なにごともチャレンジだよ。食べてみたら美味しいかも」

「挑戦と無謀は違うわ」

 食べるべきか否か。小声の問答のすえ、意を決して二人は、魔女の屋台へ向かった。


 だが、屋台に声をかけるべくエリコが息を吸い込んだその時、屋台の奥に見える路地から、ひとつの影が現れ、エリコとリネットは息を飲んだ。

 それは、大男というわけでもないが、鍛え上げられた肉体をもつ男性だった。髪はぼさぼさで、洗いざらしのデニムシャツを羽織った惨めな風体だが、軍人である事は一目瞭然だった。すぐに、どうやらあの神父が話していた、記憶を失っているという男のことを思い出した。

 だが、エリコはその顔に見覚えがあった。どこかで見ている。話した事はないが、確実に見ている。そこでエリコは、隣のリネットが蒼白になっているのに気がついた。まさか、という表情をしている。リネットは、亡霊でも見たかのように驚いた。

「まっ、まさか……!?」

 リネットがその名を口にしようとして思いとどまったその人物は、あの黒服のメイドによってホバービークルとともに海に沈められたはずの、ブロンクス准将だった。


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