(24)海賊の誇り
エリコの意識が元に戻ったとき、白い虎はリネットに踊りかかろうとしていた。リネットが死を選択している? そんなことは、エリコには信じられなかった。エリコはその一瞬の中で、心でリネットに訊ねた。
君は本当に死にたいの?
そう問いかけた瞬間、信じられないことが起こった。
エリコは、リネットと自分の間に、境界がなくなるのを感じた。エリコはリネットであり、リネットはエリコだった。そして、リネットの意志の在りようを知ったエリコは、驚愕せずにいられなかった。リネットは、死と生を同時に望んでいたのだ。
リネットの表層の意識は、生きる事を願っていた。だが、その核となる部分 ――魂としか言いようがない―― が望んでいたのは、この現実的な世界からの逃亡だった。
エリコは、リネットの魂にもう一度訊ねた。君は本当に死を望んでいるのか、と。答えはやはりイエスだった。
そこでエリコは告げた。僕はまだ、リネットとこの世界を体験したい。見て、触れて、聴こえるこの世界で、リネットと共に歩みたい、それが僕の選択だと。
そのとき、リネットの魂に、変化が起きた。その変化を受けて、エリコは自分が何をすればいいか、一瞬で理解した。
「リネットー!」
エリコはブラスターを放った。放たれた閃光は、リネットの左上腕を掠め、その身体は衝撃で回転しながら、すぐそばの木の陰に倒れこんだ。リネットに踊りかかった虎は、木に遮られて喉に噛み付く事ができなかった。
エリコはその隙をついて虎の前に立ちはだかると、ブラスターを下ろしてその瞳を見た。エリコと同じ、金色の瞳だった。
「君の棲み家を荒らしてごめんよ。僕達は、君の敵じゃない」
エリコがそう告げると、虎の唸り声は静まり、まるで道路端の野良猫のように、大人しくなってしまった。エリコが虎の左頬を撫でてやると、虎は無言で茂みの中に戻ってゆく。エリコは、倒れるリネットに駆け寄った。
「リネット!」
「……エリコ」
「ごめん、リネット」
エリコは、血のにじむリネットの左腕を申し訳なさそうに見た。リネットは笑う。
「あなたのした事だから、意味があるんでしょ」
「わからない」
エリコは、困惑の中でつぶやいた。
あの瞬間エリコは、リネットを救うには、自分がリネットを撃つ以外に方法がない、と確信したのだ。それがどんな意味を持つのか、エリコにはわからなかった。それを説明しようとしたとき、エリコの口をついて出てきた言葉があった。
「……因果の転移」
「え?」
「どういう意味なのか、わからない。ただ、僕がした事を説明すると、そういう言葉になる」
エリコの説明に、リネットは痛む腕を押さえながら笑った。
「あんたの言葉が意味不明なのは、出会った時から慣れてるわよ」
「そういうリネットは、言葉遣いがちょっとずつ荒くなってきたかな」
エリコは笑いながら、リネットの上半身を起こしてやった。出血はしているが、傷は思ったほど深くないようで、リネットはそこから自力で立ち上がる事ができた。
「足止めを食らっちゃったわね」
「急ごう」
二人が改めてその場を離脱しようとした時、上空から丘を照らす光があった。それは、軍の哨戒機だった。エリコは、苦々しげに吐き捨てた。
「くそっ!」
「走るわよ、エリコ!」
リネットは右腕でエリコを引っ張ると、兎にも角にも街へ向けて走り出した。そのときエリコは、ふと思い出した事があり、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。
だがエリコとリネットには悪いことに、哨戒機がやって来るタイミングで、ようやくエリコ達を捕捉した駐留部隊のハーマン少佐と兵士たちが、坂の途中の広いスペースでエリコたちを先回りしていた。
「そこまでだ、エリコ・シュレーディンガー!」
少佐は汗まみれで息を切らせながらも、兵士たちに号令を発する精一杯の威厳を示してみせた。前面には兵士の群れ、後方には機銃を向ける哨戒機。もはや、エリコの知略をもってしても、逃走は不可能に思えた。
「前門の虎、後門のなんとかって奴かな」
「なんとか、って何よ」
「さあ。カトーに聞いた東洋の諺だ。用法が合ってるかは、今度会ったときあいつに聞いてくれ」
絶体絶命の状況でジョークを飛ばす自分たちに、エリコとリネットは思わず笑い出した。それは、ここ数日間で最大級の、心の底からの笑いだった。その光景を、ハーマン少佐は怪訝そうに、そして兵士たちは不気味そうに見ていた。この二人はまだ何か、奥の手を隠しているのではないのか。だが、少なくとも今この場所で、そんなものはない。兵士達が行動に出れば、それで終わりである。
「もう助からないと悟っておかしくなったか。捕らえろ!」
少佐が命じるも、兵士たちが一瞬行動をためらった、その瞬間だった。茂みの中から、地を揺るがすような太く鋭い咆哮とともに、巨大な影が飛び出した。何事かと思った時には、兵士が三名、喉から血を噴き出して倒れてしまった。
「なっ、なに!?」
ハーマンが驚いたそれは、先刻エリコとリネットの前に立ちはだかった、あの白いトラだった。トラは兵士たちが放つレーザーを軽やかにかわしながら、さらに二名の兵士の首を、その凶器としか呼べない爪で切り裂いた。ハーマンが悲鳴を上げかけた、そのときだった。斜面の下から、雄叫びのような甲高いエンジン音が響いた。
「なんだ!?」
少佐が振り向いた次の瞬間、斜面を駆け上がってきたそれは、ハーマン少佐もろとも兵士たちを一瞬で弾き飛ばしながら、エリコとリネットの眼前で急停止した。それはヘッドライトを輝かせた、クリスタルコーティングが蒼く煌めくホバーバイクだった。
「なっ、なんで!?」
追跡者たちと一緒になって驚くリネットをよそに、エリコは颯爽とコックピットに乗り込むと、ステアリングを握った。
「リネット、早く!」
「えっ!?」
「急いでってば!」
剣幕に押し切られ、リネットは痛む左腕をかばいながら、後部座席に乗り込む。エリコはステアリング中央のコンソール設定を確認すると、アクセルを踏み込んだ。
「いくぞ!」
ホバーは急発進し、よろよろと起き上がってきたハーマン少佐を、ご丁寧に真正面からもう一度跳ね飛ばした。イオンエンジンの出力が、以前とは段違いだ。ニューウェイが何らかの改造を施したためらしい。少佐は兵士たちを巻き込んで二〇メートルほど弾き飛ばされ、広葉樹の幹に激突して地面に落下すると、そのまま頸部を折って即死した。
エリコの操縦で、ホバーは暗くなってきた斜面を猛スピードで駆け下りていった。リネットは腕の痛みも忘れ、怒鳴るように訊ねる。
「エリコ! あなた動かせるの!?」
エリコは答えない。操縦に全神経を集中しているようだ。つまり、いっぱいいっぱい、ということである。リネットはもはや生きた心地がしなかった。レーザーで撃たれて死ぬはずだったのが、事故死に代わるだけではないのか。後方の上空からは、哨戒機が煌々とサーチライトを照らして追跡してくる。腕の痛みを押してでも自分が先に操縦席につくべきだった、と後悔しても、もう遅かった。
ホバーバイクは、都合よく自分の意志に目覚めて、主のもとに駆けつけたわけではない。哨戒機から逃げる直前、エリコはニューウェイから受け取った、ホバーの新機能のメモの内容を思い出していた。その中に、一定の範囲内であればホバーバイクはエリコのもとに自動運転で到着できる、という説明があり、エリコは機体の調整が終わっていることに賭けて、遠隔発進を試みたのだ。
ルートが正しければとっくに街に出ているはずだったが、操縦に手一杯のエリコが見事に道を間違えたおかげで、ホバーは森を北方向に向かって爆進していた。たまたまホバーのオート衝突回避機能が働いているおかげで、木々はかろうじて回避できているが、そのたびにホバーは森の深みに入って行く。ひとつだけメリットがあるとすれば、森が深くなればなるほど、哨戒機にとっては追跡が困難になることだった。
「エリコ、よく聞いて! 私の言うとおりにして!」
やっぱり生命は惜しいと思ったリネットが、必死でエリコに怒鳴った。
「なに!?」
「どこか広い面に出たら、コンソールの緑色のランプがついたボタンを押すの!」
「押すとどうなるの!?」
「いいから押しなさい! わかった!?」
むちゃくちゃだ、あんたが言うな、という低次元な罵り合いののち、ホバーバイクは真新しい塗装面を草や泥まみれにしながら、広い草地に飛び出した。急に開けた視界の中を、後方から哨戒機が迫ってくる。エリコは、もうどうにでもなれと、緑色に光るボタンを押した。
すると、ホバーバイクは突然スピードを落とし、静かな水面を進むボートのように姿勢が安定した。これは、地形に関係なく、可能なかぎり水平を維持するシステムである。進行方向の地形を読み取って姿勢を制御するために、速度が落ちるデメリットがあった。後部座席のリネットはコックピットに仕舞ってあったレーザーライフルを取り出すと、後ろを向いて右腕だけで、哨戒機に向けて照準を合わせた。
「二階級特進だ!!」
夕暮れの空を眩いレーザーが切り裂くと、哨戒機はイオンエンジンの中枢部を撃ち抜かれ、機体はきりもみ状態で地面に激突すると、そのまま爆発四散した。リネットの射撃の腕に頼もしさよりは恐怖を覚えながら、エリコはひとつ質問した。
「こういう状況は二階級特進の対象になるわけ?」
「さあ。知らない」
少なくともこっちは理不尽に命を狙われたのだから、襲ってきた相手のその後の運命がどうであろうと知ったことではない、とリネットは言ってのけた。エリコも、もはや敵の処遇や生存などを気にしていられる状況ではないので、黙ってうなずくしかなかった。
リネットは、エリコが危なげながらも操縦できている事に驚きながら、手を前部座席に伸ばして、キャノピーを閉じるスイッチを押した。ニューウェイはキャノピーのコーティングもやっておいてくれたらしく、透明度が向上しているのがわかった。
「エリコ、ここからどうするの!?」
「もう街には戻れないでしょ、この状況だと」
街にほど近い山中で軍隊との戦闘行為があり、哨戒機まで墜落炎上したとあっては、本国からSPF海軍の調査隊が駆け付けるのは目に見えていた。いま街に戻れば、確実にファジャルやニューウェイを巻き込むことになる。そうなると、もうエリコたちの行動は決まったも同然だった。
「島を出る」
「またか」
リネットは溜息をつきながら、力なく笑った。もう、島から島への放浪に慣れてきた感さえある。いつか自伝でも書く事になったら、この章にはだいぶページを割く事になりそうだ、などと考えていると、ようやく本格的に左腕が痛み始めた。買ったばかりのデニムに血がにじむのを、リネットは恨めしそうに睨んだ。
「エリコ、ちょっと脱ぐから後ろ見ないでね。腕の応急処置するから」
「見れるわけないだろ」
「見れたら見るってこと?」
「人を変態みたいに言うなよな!」
エリコが声を上げると、機体は大きく揺れた。リネットはシャツを脱ぎかけの状態でどうにか姿勢を維持しながら、今日何度目かの生命の危機を感じていた。
「サスペンションモードをソフトに切り替えて!」
「どれ?」
「コンソール左側のレバーをいちばん下にするの!」
「これ?」
「それはシートウォーマー!」
熱帯の島で唐突に熱くなるシートに悲鳴を上げながら、二人が乗ったホバーは例によって、島を飛び出して行った。
◇
森のはずれをルーカスは、誰にも見つからないようにと慎重に進んでいた。計画は全て水泡に帰した。エリコ・シュレーディンガーを軍に売り渡し、恩を売って軍属の技師として取り立ててもらうはずだったが、結局一人の少年と一人の元女軍人に、駐留部隊がほぼ全滅させられたのだ。
だがこの事は、ファジャル達は知らない。軍の連中は再起不能だろうし、自分の企てを知っている者はもういなくなる。何食わぬ顔で、またもとの海賊家業に戻ればいい。
そう思っていると、木の陰から突然、いくつかの人影が現れてルーカスを取り囲んだ。
「ひっ」
もしや軍の残存兵士かと身構えたルーカスは、それが海賊組織フェンリルの、知った顔だったことで安心した。すると、奥からファジャルがゆっくりと姿を現した。
「ファジャルですか、誰かと思いました」
「ルーカス。探したぜ」
ファジャルは、どこか切なげな笑顔を浮かべ、ルーカスの正面に立った。ルーカスは、周囲を見渡しながら駆け寄った。
「無事で安心しました。SPF軍が何かやらかしてるみたいですね」
「もう終わったらしい。いま、連絡があった」
そのファジャルの返答に、ルーカスは一瞬、訝しげな表情を浮かべた。だが、ファジャルは関する様子もなく、すぐに話を切り出した。
「なあ、うちの組織に入ったとき、言ったこと、覚えてるか」
「え?」
その全く予想外の切り出しに、わずかに心拍数が上昇するのをルーカスは感じた。周囲を、五人のフェンリル団員が取り囲む。ファジャルは小さく溜息をついた。
「恩人は命がけで守ること。組織の面子に泥を塗らないこと。このふたつの掟は特に重い、って言ったよな」
ファジャルは、真っ黒なブラスターを抜くとルーカスの心臓に突き付けた。ルーカスは蒼白になり、全身を震わせ始めた。
「なっ、何のことですか!? 私が何をしたと!?」
「見苦しい真似はよせ。海賊らしく、せめて最後くらい、毅然としていろ」
「まっ、待ってください!」
「全部わかってるんだよ。海軍の兵士を捕らえて痛めつけたら、全部吐いた。お前がエリコを軍に売って、軍属に取り立ててもらおうと企てていた事もな」
そう告げられて、ルーカスはガクリと膝を草むらに落とした。もう、何もかも失った男の、生気を失った顔がそこにはあった。ファジャルはブラスターを突き付けたまま、淡々と語った。
「まあ、お前にしてみれば、海賊に身をやつすなんて、納得しがたい事だったんだろう。もと大企業のエンジニアだもんな。それはそれで、別にいい。お前がふさわしいと思う仕事口が見つかったら、いつでもフェンリルを抜けて良かったんだぜ。仲間の意志は尊重する、それが俺達フェンリルだ」
けれど、とファジャルは言った。
「エリコとリネットは、エドモンドやマリーたちを守ってくれた恩人だ。その二人の命を、お前は自身の利益のために、軍に売り渡した。それは、俺達フェンリルの誇りを、著しく傷つけた。残念だが、もはやお前を許すことはできない」
ルーカスは反論しなかった。最後に見せた矜持ではなく、恐怖と諦観の両方が精神を圧し、言葉を紡ぐことができなかったのだ。内実はともあれ、ファジャルの前で見苦しく喚く事だけはなかったのが、わずかな救いなのかどうか、誰にもわからなかった。
「残念だよ。これは俺達の本心だ。言い遺す事はあるか」
返事はなかった。ファジャルは、周りのメンバーと視線を交わし、頷くと無言でトリガーを引いた。暮れゆく森に閃光が走り、生命を失った身体が崩れ落ちる、鈍い音が響いた。




