(23)もうひとりのエリコ
「こちらA班、エリコ・シュレーディンガーおよびリネット・アンドルーの姿はありません」
茂みの中を睨む簡易光学迷彩をほどこした軍服の兵士が、通信端末に告げた。
「旧式の通信端末二台が、木の枝に引っ掛けてあります。どうやら発信機の存在に気付き、我々を欺くためにここに置いたものと思われます」
「なるほど。噂どおり、カンの鋭い小僧らしいな」
端末の向こうから、兵士の上官の舌打ちが聞こえた。兵士は、周囲に展開する味方兵士たちの数を確認すると、端末のモニターに不安げな視線を向けた。
「ハーマン少佐、ダーウィン基地に連絡を入れるべきではありませんか。この島の我々駐留部隊のみでは、目標の包囲能力にも限界があります」
「だめだ。絶対に我々だけで、エリコ・シュレーディンガーを確保する。手柄を他の部隊に分けてやるわけにはいかん」
手柄の独占という本音を、ここまで包み隠さないその正直さに、兵士は辟易と僅かな感嘆を覚えながら訊ねた。
「では、モスキートの使用許可をお願いします」
その要求に、ハーマン少佐は一瞬間をおいて、渋い声で答えた。
「許可する。ただし、ひとケースのみだ」
「ひとケースですか?」
「そうだ」
それ以上、少佐は言わなかった。兵士は聞こえないようため息をついて「了解」とだけ答えた。
飛行型の極小情報収集端末、通称『モスキート』は、指に乗るほどのサイズで広範囲を飛行し、遠隔端末に映像と音声を送る事ができる。非常に高性能でよく使用されるものの、事実上の使い捨て探査機で運用コストが高く、成果が得られなかった場合の損失が大きい。予算も人員も少ない駐留部隊では、その後の予算を考えると使用が憚られる、という側面があった。
結果を欲しながらも、現場に与えるリソースは渋る。そういえば数十年前に滅亡したジャパンという国も、官から民に至るまで、そんな経済政策が没落の要因だったと、ネット記事の経済論で読んだことを兵士は思い出し、身震いした。
格納ケースひとつ分で二四機のモスキートが飛ばされ、移動物体の情報が逐次送られてきたものの、その多くは鳥や動物だった。肝心のエリコ・シュレーディンガーの姿は見当たらない。臨時にひっそりと置かれた作戦本部で、豊かな髭をたくわえた壮年のハーマン少佐は、次期の予算を頭の片隅に浮かべて唸っていた。すると、横に控えていた黒い短髪の白人男性が、自身のコンピューター端末を手に進み出た。
「私にモスキートを預けていただければ、より高度な運用が可能です。解析プログラムの精度向上で、より確実に目標を探し出す事が…」
「お前がエリコ・シュレーディンガーをいちいち、山に移動させるからこんな事になったのではないのか!」
ハーマン少佐に怒鳴られると、ルーカスは顔を引きつらせて後退した。
「酒場の部屋にいたというなら、その場に留まれと指示しておけば良かったのではないのか」
「お言葉ですが、あのまま酒場に留まらせていた場合、酒場の常連客であるフェンリルのメンバーに、事態を察知される危険があったのです。奴らが動けば、エリコ確保は厄介になります。まず、二人を人のいない山地に隔離する必要があったのです」
「ふん」
もっともらしいルーカスの説明に、ハーマンは腕組みして眉間にしわを寄せた。
「あの小僧に協力している元兵士の小娘はどうでもいいが、エリコ・シュレーディンガーを確保できなければ、お前を軍属技師に推薦する話もないものと思え」
ルーカスは音を立てず歯ぎしりした。
海賊のせいで職を失い、それでいて海賊などに身をやつしていた現状に耐えられなかったところへ、降ってわいたように軍が探しているという、赤毛の少年が現れた。
頭が切れるなどと言っても所詮一五の子供、かつてはエリートコースを辿ったこの自分の掌で、踊らせられない筈はない。せいぜい、失ったキャリアを取り戻すための踏み台になってもらおう。そう考えていたルーカスは、八割程度は計画どおりに少年を罠にはめることに成功した、と考えていた。坂を登らせたのは、あのろくに鍛えてもいなさそうな身体では、すぐにへばると計算したからだ。
だが相手は、発信機を仕込んだ通信端末を放置して、こちらを欺いてきた。もっとも、この程度の事はルーカスも想定の範囲内だった。
「ハーマン少佐、相手の女兵士は海軍の通信端末を所持しています。おそらく、こちらが放ったモスキートの位置情報を、逆に傍受して逃走しているものと思われます」
「それではモスキートを無駄に放っただけではないか!」
「違いますよ」
ルーカスは自信たっぷりに、底意地の悪い笑みを浮かべて、携帯端末に映る現在の戦況マップを示した。
「我々の兵士は、ここ作戦本部を除いて合計で一二名。ですが見てください、探索エリアに展開する、海軍支給の通信端末のGPS反応は、十三あります」
「……なるほど」
「そう。その中で、この島の駐留部隊員に支給された端末とは、IDナンバーが異なる通信端末。それが例の元女兵士、そしてエリコ・シュレーディンガーの居場所です」
「つまり、捜索活動に参加しているこちらの兵士を装っているというのか!」
その相手の知略に、ハーマン少佐は苛立ちと感銘を同時に覚えた。何食わぬ顔で兵士を装い、モスキートが展開しているこのエリアから離脱するタイミングを測っているということだ。だが、ルーカスはすぐに相手の行動を把握した。
「わかりました。この、南西斜面の下部で停止している、SP701352というIDナンバー。これがリネット・アンドルーです」
「ここから近いな。よし、私が直接向かう。そこの二人、来い! 他の連中にも連絡しろ、挟み撃ちにして確保する! アンドルーとかいう元女兵士は射殺して構わん。小僧はいざとなったら、動けないように手足を痛めつけてやれ!」
ハーマンは付近にいた兵士二名を引き連れ、慌ただしくレーザーライフルを構えてその場から駆けて行った。残されたルーカスは、エリコの顔を思い浮かべながら胸を撫で下ろした。軍用のシステムをこうして活用できる所もアピールできた。あとはあの少年が捕まってくれれば、軍属技師としての未来が待っている。汗臭い海賊とはおさらばだ。
◇
敵の追跡エリアからの離脱を計っていたエリコとリネットは、軍用通信端末の小さなディスプレイで、兵士たちに動きがあった事を察知した。
「動いたわ、エリコ。ここからどうするの」
「相変わらず切羽詰まってるなあ」
「呑気なこと言ってる場合?」
リネットは急かしたが、エリコはどうも、まだ自分自身の感覚が以前のような鋭さを取り戻していない事に、かすかな苛立ちを覚えていた。ちょうど寝起き直後のような、思考にやや霞がかかっている状態に似ている。だが、モニターの動きを見ていたエリコは、膝をポンと叩いた。
「よし、このタイミングだ。脱出するよ」
エリコは、電源を入れたままの軍用通信端末をポイと草むらに放り投げると、周囲を警戒しつつ立ち上がった。
「いいかい、リネット。僕達は丘の頂上に逃げる。丘からは、街の東地区の裏通りに抜けるルートがあるようだから、ニューウェイのガレージに移動して、ホバーを受け取ってこの島を出よう」
「わかった」
「まずモスキートが展開していない、北東斜面を抜けて頂上に行く」
エリコの指示で、先導役はリネットが引き受けた。茂みの中を、音を立てないように移動する。まるで、矯正センター島の脱出の再現だな、とエリコは苦笑した。
そのとき、エリコは頭の中にかかった薄い霧の向こうに、誰かがいるような気がした。自分より背の低い誰か。こちらに向かって何かを語っているような気がしたが、たぶん昨夜見た夢の記憶がぼんやり残っているのだろう、と思うことにした。
◇
IDナンバーSP701352の通信端末の位置に辿り着いたハーマン少佐は、歯をむいて地面を蹴りつけた。エリコとリネットがいると踏んでいた場所にあったのは、茂みの中に電源が入ったまま放置された通信端末と、脚を撃ち抜かれて猿ぐつわを噛まされ、両手も縛られた状態の駐留軍兵士だったのだ。縛られていた兵士の猿ぐつわを乱暴にむしり取ると、ハーマンは怒鳴った。
「何があった!」
怒鳴られた兵士は痛みに脂汗を流しながら、顔を歪ませて涙目で答えた。
「しょ、少年と女に拘束され、通信端末を奪われました」
「なんだと! では、この端末は何だ!?」
自分で質問しておいて、ハーマンはハッとして蒼白になった。そう、要するにエリコ・シュレーディンガーは、この兵士とリネットの端末をすり替えたのだ。駐留兵士たちはエリコとリネットを追っていたつもりが、負傷した味方のところに誘導されたのである。すなわち、すでにエリコ・シュレーディンガーは逃走したと見るべきだった。
だが、こうして平然と兵士を負傷させ、拘束する事をためらわない一五歳の少年に、ハーマンは幽かな戦慄を覚えた。あるいは同行しているリネット・アンドルーの仕業かも知れないが、この二人は何をしでかすかわからない、いざとなれば血も涙もない行動も取れるのだ、という認識が、兵士の間で共有される事になった。
エリコの逃走計画は、ほぼ完璧だった。木々に囲まれた真っ黒な玄武岩の石組みに辿り着くと、エリコは逃走経路を確認し、リネットと頷き合った。だが、予測を超えてくるものがある、ということを、エリコはそのとき思い知らされた。野太く鋭い咆哮が、エリコとリネットの鼓膜を叩いた。
「なんだ!?」
驚くエリコが振り向くと、そこにいたのはなんと、真っ白な一頭の虎だった。虎はエリコの目をジロリと睨んで、いつでも喉笛を切り裂いてやる、とばかりに唸り声を響かせた。
それは初めての戦慄だった。これまで、洪水や軍隊、正体不明のアンドロイドなどと戦ってきたが、野生動物に襲われた事はない。エリコに津波や人間の行動は予測できても、本能に従う野生動物が相手となると、そう容易くはなかった。
だが、リネットは迷わなかった。瞬時にブラスターを虎の額に向け、トリガーを引く。陽がやや傾き暗くなってきた森に、一条の閃光が走った。しかし、虎は一瞬早く、横に飛びのいていた。
「エリコ!」
リネットは、エリコにも射撃を促す。だが、エリコはこの状況に及んでなお、まだ思考の霧を払えずにいた。それでもどうにかブラスターを放つものの、手元が怪しく、レーザーは虚空に吸い込まれてゆく。
白い虎は、リネットに襲いかかる態勢を取った。そのときエリコの脳裏に浮かんだのは、首筋から鮮血を噴き出して斜面に転げ落ちる、リネットの姿だった。
その感覚は、エリコが今まで何度も何度も体験してきた、未来の姿だった。その『モード』に入ったとき、エリコにはどうする事もできない。それは未来であると同時に、『いま』だからだ。厳密に言えば、時間の流れですらない。時間などというものは存在しない。ものごとが移ろう間隔を、人が時間と呼んでいるだけだ。それを、エリコは深層意識のレベルで理解していた。
リネットが死ぬ。その、永遠にも思える一瞬の中で、エリコは底知れない戦慄と虚無感に襲われた。なんのために腐心して、リネットとともにあの忌まわしい島を脱出したのだ。リネットと、一緒にいたいからではなかったのか。そのリネットがいなくなった世界で、エリコは何を心の拠り所とすればいいのか。
そのときだった。容赦のない現実に絶望しかけたエリコに、『何か』が起きた。
エリコは、真っ白な空間にいた。目の前にいるのは、薄汚れた服とマント、ブーツを身に付け、腰に幅の広い剣を提げた、ひとりの金髪の少年だった。
「やっと会えたね。本当に長かった」
その、透き通る金色の瞳は、エリコに向けられていた。少年は、エリコよりいくらか若く見えたが、その鋭い眼光は、まるで十年も死線をくぐり抜けた兵士のものに思えた。
「君は誰なんだ」
エリコの問いに、少年は微笑んだ。
「僕は君だよ、エリコ」
その答えに、エリコは困惑した。目の前に対峙しているのに、なぜ自分だというのか。エリコは、これまで何度か聞こえてきた、不思議な声のことを思い出していた。
「いつか、僕の心に声を届けたのも、君なのか」
「いつか、じゃない。僕はいつだって、君に語りかけている。時にはイメージ、感情を利用してね。君はなかなか気付いてくれなかったけれど」
からかうように、少年は笑った。
「たぶん、明日にはまた、僕の声は聞こえなくなるだろう。けれどこれからは今までより、僕の声がはっきりと聞こえるようになるはずだ。君は悩みの淵に沈んで、あの人に助けられ、目覚めの岸に辿り着こうとしている。全部、必要なプロセスだったんだよ」
少年の言葉は、エリコには意味不明だった。あの人とは、リネットのことなのか。
「なぜ、僕に語りかけるんだ」
「思い出して欲しいからさ。本当の君を」
「本当の僕だって?」
なにが、本当の僕だ。エリコは、胡散臭いセミナーに参加させられている気分だった。自分なら、ここにいるではないか。今こうして思考している、これが僕、エリコ・シュレーディンガーではないのか。少年はエリコに微笑んだ。そこに嘲りの色はなく、ただ純粋な微笑みだった。
「そのうち理解できるさ。けれど今は、しなくちゃならない事があるんだろう、エリコ」
その言葉に、エリコの心は急速に冷えていった。いま、リネットが死の淵にいる。それは、可能性ではなく、確定した現実なのだ。予言でも予知でもない。目の前の冷凍ケースから化学合成シャーベットを取り出す事を、予知とは言わない。
「もう、変えられない。今まで何度もあった。僕にはわかってしまうんだ。これから、何が起こるのか。何ができるのか。くだらない予知能力だ。何もできやしない」
自嘲するエリコに、少年は笑った。
「予知能力なんて陳腐な呼び方をしているうちは、何も変えられないさ」
「じゃあ、何だっていうんだ。未来を変えられる、とでも言うのか?」
「変える、なんていうのは便宜的な言葉でしかない。それ以外に表現の方法がないから用いざるを得ない、不完全な言葉だ。強いて言うなら、『選択』と呼ぶべきだね」
少年は、優雅な動きで腰の剣を抜き放った。それは見たこともないような虹色の輝きを放つ、諸刃の剣だった。
「この剣を君の心臓に突き入れたら、どうなると思う?」
「そりゃあ、死ぬだろう」
「けれど、君は死ぬことを選ぶ?」
少年は、切っ先をエリコに向けたまま訊ねた。エリコは、首を横に振った。
「僕にはまだ、行きたい場所、やりたい事がある」
「けれど僕が、どうしても君を殺したいと考えたら?」
「困るな。君に、その考えを改めるよう頼むよ」
「それでも結局、今にも剣が君の胸に突き立てられようとしたら、どうする?」
エリコは答えに窮した。それはもう、死ぬ以外に選択肢はないだろう。物理的な現実が形を取ってしまったのなら、もう変える手立てはない。すると、少年は言った。
「エリコ、現実とは何だと思う?」
「それは、僕らが見たり、触れたり、聴いたりしてる、この世界や物質や、出来事だろう」
「本当にそう思うかい?」
少年は剣を鞘に収め、エリコに一歩歩み寄った。
「エリコ、いいかい。君はもう、真実に近いところにいる。それは、ある意味ではとてつもなく危険なことだ」
「どういう意味だ」
「君には歴史をも創造できる力がある、ということだよ」
事も無げに少年が言うと、エリコはいよいよ、苛立ちがつのるのを感じた。真実とか、歴史とか、スケールが大きいだけで具体性も何もない、まやかしのような言葉の連続。エリコは声を張り上げた。
「わけのわからない話はどうでもいい! 僕はただ、リネットを救いたいだけだ!」
「それは彼女の選択だよ。彼女が死を望んでいるのなら、それを変える事はできない。魂の選択は絶対だ」
「リネットが、死を望んでいるだって!?」
そんな筈があるか。リネットはブラスターを虎に放った。それは生きようという意志があるからだ。死など望んでいるはずがない。
だが、そこでエリコはひとつ訊ねた。
「魂の選択とは何だ? 僕の意志と選択が、すなわち魂の選択だろう」
「違うね。まあ、千回に一度くらいは、同じ事もあるけど」
「どういう意味だ」
「もう、わかっているだろう? 何をどうすればいいか。わからない自分を選択している間は、永遠にわからないさ。けれど、君はもう、そんな人間のレベルは卒業するべきだ」
少年の姿は、だんだん輪郭がおぼろげになり、声も遠くなり始めた。エリコは叫ぶ。
「お前は誰なんだ!」




