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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第三部
22/57

(22)Traitor

 リネットとエリコは屋台で買い込んだ、なんだか得体の知れない材料だが塩味はついている謎のフライをかじりながら、酒場の二階の部屋で再び今後の計画を練っていた。

「今日じゅうにホバーは仕上がるそうだから、問題は出発をいつにするかだけど」

ホログラムスクリーンの海域マップを睨みながら、リネットは横目にエリコを見た。

「エリコってば」

 二の腕を突かれて、エリコはようやく我に返ってリネットを見た。いつものクールな眼光は後退し、まるで世間も何も知らないような少年がそこにいた。

「迷っていても仕方ないよ。どのみち人間がその時できる事なんて、たかが知れてるんだから」

「……」

「あなたらしくないわね。いつもみたいに、偉そうに構えていればいいじゃないの」

 ずいぶんな言われようだが、これもリネットなりの励ましではあった。もっとも、一人の少年が何かに迷う事など当たり前の話であり、むしろ人並みはずれた才覚を秘めるエリコにも、そんな普通の側面がある事に、リネットは安心を覚えるのだった。

 ただしそれは、エリコが『ただの少年』になってしまうという事でもあり、いつもの研ぎ澄まされた直感や計算能力が後退してしまうとすれば、不安も勝ることになる。それでも何もしないわけにも行かず、リネットはエリコがチェストに載せたままの、ニューウェイから預かったホバーバイク調整メモを手渡した。

「ほら。ニューウェイはこれをあなたに預けたんだから、あなたが目を通して、あとで私に教えて。私は持ち物をチェックする」

 文字通りエリコに押し付けると、リネットはエドモンドから預かったバッグの中身の整理を始めた。いかにも古着でございます、といったシャツに眉をひそめながら、エドモンドには申し訳ないが着ずに捨てそうなもの、エリコに着せておけば良さそうなもの、ほか生活物資などを仕分けしてゆく。これは下級兵士時代の物資搬入仕分けの経験がものを言った。


 エリコはニューウェイの神経質そうな筆跡で書かれた、ホバーバイクの調整箇所や新機能などの説明に、無表情で目を走らせた。内容は理解しているが、頭に入っているかどうかが怪しい。

 ここにきてエリコは、自分が何をするべきなのか、という問いに苛まれていた。それは究極的には、なぜ人は生きるのか、何かを達成したところでそれに何の意味があるのか、という所まで一瞬で到達し、底知れない虚無感がエリコの心を支配していった。


 そんなエリコが僅かながら我に返ったのは、リネットの懐にあるルーカスから預かった通信端末の、音声通話コールが鳴った時だった。それはフェンリル専用の回線を使用してのものだった。

「もしもし」

「リネットさん、突然申し訳ない。ルーカスです」

 スピーカーモードで聞こえてきたルーカスの声は、何か急いでいるようだった。

「どうしたの」

「今、どちらですか」

「酒場の二階の部屋よ。エリコも一緒」

「落ち着いて聞いてください。もし窓のところにいるなら、すぐに身を隠して」

 その指示で、二人はすぐに大体の状況を察した。リネットは素早く荷物を手元に寄せると、外から見えない位置でブラスターを構えた。

「追っ手ね?」

「フェンリル内部にどうやら、お二人の動向を探っている者が数名いるようです」

「例の裏切り者ってやつ?」

「おそらく。まだ氏名はハッキリしませんが、いまこの港町で行方が掴めていないフェンリル構成員の洗い出しを、私が行っています。その中に裏切り者がいるはずです」

 これはエリコとリネットだけでなく、フェンリルにとっても見過ごせない問題ということだ。この機会に不穏分子を見付け出せれば、フェンリルには好都合とも言える。

「リネットさん、いま酒場にいるのなら、お二人は南面の裏口から、南の山の方向に移動してください。丘を登ったところに、古代人の黒い石組みがあります。そこを目印に落ち合いましょう。フェンリルの者が護衛に向かいます。ファジャルにも連絡済みなので、これ以上は傍受される危険もあるため、電源は切ってください」

 ルーカスは指示を出すと、接続を切った。

「エリコ、聞いたわね。ここを出る」

 リネットがエリコを見ると、エリコはなんだか頼りない表情で頷いた。いつもなら、リネットにあれこれと指揮を飛ばしてくるところである。

 エリコがこれほどまでに、自己の目的意識について悩むとは、リネットは考えもしなかった。他人の言葉など歯牙にもかけない、強靭な自我の持ち主ではなかったのか。だが、今は悩んでいる暇はない。ここまでエリコが頑張ってきたのだ、もと軍人の自分が今度はエリコを守ろう、とリネットは気を引き締めた。

「エリコ、ブラスターを手離さないでね」

 リネットは、ブラスターのグリップをしっかりとエリコの右手に握らせた。

「身の危険を感じたら、すぐにトリガーを引きなさい。あなたの射撃の能力は本物。相手が人間だとか考えてはいけない。生きるために、殺す。善も悪もない。いいわね」

 リネットは、エリコの目を見据えた。エリコは、戸惑いの色を浮かべながらもう一度頷く。



 二人は酒場のマスターにチップを渡して礼を言うと、古く建て付けの悪い裏口ドアから、草の茂る裏道に出た。ほとんど獣道のようなそれは、ルーカスが言うとおり、南側の丘に向かって伸びていた。

 湿気と熱気が、リネットのように鍛えてはいないエリコの体力を奪ってゆく。そのうえ、緩やかであっても斜面を登る労力は、平地とは比べものにならない。息を切らせるエリコを、リネットは心配そうに振り向いた。

「エリコ、頑張って」

 リネットの声に、エリコは荒い息で返すのが精一杯だった。それにしてもエリコが、ここまで体力がない事をリネットは奇妙に思った。体力トレーニングの時、エリコは平均以上の体力がある所を見せていたはずだ。体格そのものが違うカトー少年ほどの持久力には及ばないが、十数メートル斜面を登るくらいで、音を上げるはずもない。

 これは、精神的な問題だ。一年以上エリコに接してきた、リネットはそう看破した。エリコは恐るべき知能や直感を備えていると同時に、感性や思考力が深すぎるあまり、一度自分を疑い始めると、斜面を転がる石のように、底へ底へと落ちてゆくのだ。普通の人間なら、こうはならない。この世が不条理であることを、上手に受け入れて生活できる。だが、エリコはそれを自分自身に許さないのだ。納得できない事を、有耶無耶にして納得する事など、この少年には許されない事なのだ。そして、それを他者に押し付ける事もしない結果、どうなるか。

(この子は、自己崩壊に向かうのだわ)

 リネットは、そう理解した。エリコは己の内部で折り合いがつけられない難題に遭遇したとき、それでも精神の暴走だけは食い止めようと、暴走するかわりに精神を自ら蝕んでゆくのだ。それはやがて、肉体にまで影響を及ぼす。


 今、エリコは内的な崩壊の一歩手前にいる。呼吸は徐々に荒くなっており、リネットはやむなく、座らせて呼吸を整えさせた。だが、リネットが愕然としたのは、呼吸や汗ではなかった。エリコの金色の瞳が、まるで死人のように輝きを失ってしまっているのだ。

 無意識に、リネットはエリコを抱きしめていた。それ以外にできる事はなかった。エリコは今、自分がどこに行くべきなのかと自らに問いかけた結果、どこに向かっても意味はないのだ、という究極の現実に行く手を阻まれてしまった。

「エリコ」

 リネットは、いつもの不敵な笑みを失ったエリコを哀れに思い、涙を流した。これほどまで純粋な人間が、この世にいるのかとさえ思った。どうすれば、エリコを立ち直らせる事ができるのか。とにかく今は、フェンリルを頼って安全な場所にエリコを移動させることが最優先だった。


 ほとんど這うようにして丘を登っていると、丘の上に既視感のあるシルエットが見えてきた。それは、あの矯正センター島の丘の上にあった、柱状玄武岩を組み合わせたピラミッド状の石組みと酷似した遺跡だった。

「エリコ、見て。まるで同じ石組み」

 リネットはエリコの両肩を抱えて、丘の上に視線を向けさせた。一瞬、エリコの目が開かれたような気がした。

「あの島から千キロメートルも離れているのに、同じ遺跡があるって、どういうことなの」

 考古学に詳しくないリネットの、それはごく純粋な問いだった。そのときリネットの口から、自然と言葉が紡がれた。

「エリコ。ギザの大ピラミッドを、一緒に見に行こう」

 リネットは、エリコの目を正面から至近距離で見つめ、そう言った。

「いつか、そう言っていたじゃない。あれを直に見るのが、あなたの夢なんでしょう? そうよ、エリコ。あなたには目指すものがある。古代文明のことを語る時、あなたの瞳はキラキラ輝いている。きっとそれがエリコ、あなたの心が求めているものなのよ。それが、あなたの真実なのよ、きっと」

 エリコの呼吸がほんの少し、落ち着くのがわかった。強張っていた表情は、わずかに緩みを見せた。

「エリコ。世界なんて信じられないかも知れないけれど、信じられる人間はいる。私はあなたを信じている。あなたは、私を信じられない?」

 リネットの潤んだ瞳に、エリコは首を横に振った。

「じゃあ、一人でも信じられる相手がいるのに、人間を信じてないなんて、言える?」

 そのとき、エリコの目が開かれた。金色の瞳は、朝の光のように煌めきを取り戻しつつあった。リネットは、エリコの手を強く握った。

「じゃあ、信じられる人間がどれくらいいるか、知りたいと思わない?」

「……」

「エリコ。私ね、今あなたと一緒に、旅をしたいと思い始めてる。汚染が進んでる世界だけど、まだ旅はできる。ううん、きっと、そのために私は、あなたと出会ったんだと思う」

 リネットの言葉に、エリコの瞳から涙がぽろぽろと溢れはじめた。それはリネットが初めて見る、エリコの涙だった。リネットは、ゆっくりとエリコに唇を重ねた。お互いの気持が、交わっていくのをエリコとリネットは感じていた。

「リネット」

「なあに」

「一緒に来てくれる?」

「当然よ」

 その返答に、エリコは笑った。

「当然か」

「あなたみたいな面白い子、見てるだけで飽きないもの」

「ひどい言われようだな」

 エリコは、リネットの手を握り返す。その手に、僅かに力が戻ったのをリネットは確認し、力強く頷いた。

「行けるわね」

「うん」

「あの丘で、フェンリルの人間と落ち合う事になっている。急がないと」

 リネットがエリコの手を引いて、立ち上がろうとした、その時だった。エリコは逆にリネットの手を引いて、強引に茂みの陰に座らせた。

「何を……」

 言いかけたリネットに、エリコは人差し指を立てて静かにするよう合図した。それはリネットには、ものすごく久しぶりの感覚に思えた。エリコは周囲を警戒しつつ、声を潜める。

「リネット。ごめん」

「何が」

「僕が、くだらない事で落ち込んでたばっかりに、気付けなかった。僕のせいだ」

「謝るのは後からでいい。何なの」

 訝るリネットに、エリコは答えた。リネットは、血の気が引く思いでそれを聞いた。

「あのルーカスという男が、フェンリルの『裏切り者』の張本人だ」


 エリコはニューウェイからもらった精密ドライバーを取り出し、ルーカスから手渡された通信端末のカバーを開いた。するとその内部のバッテリーから、明らかに取って付けたように電源を取っている、極小の四角いチップ状の部品が現れた。

「発信機だ」

「!」

「あの男が仕掛けたに違いない」

「どうして、彼が怪しいと思ったの」

 エリコの根拠はこうだった。ルーカスはリネットに通話をかけてきた時、『ファジャルには連絡済みだ、傍受の危険があるので電源を切れ』と指示してきた。この時点で疑うべきだった、とエリコは言った。

「要するにあいつは、僕らが直接ファジャルたちと連絡を取る事を封じたんだ」

「つまり、ファジャルは……」

「ルーカスの行動を知らないか、あるいは気付いた時にはもう遅いってことだ」

 エリコはリネットの端末のカバーを開けた。案の定、そちらにも発信機が取り付けられていた。

「僕らがここにいる事は、もう敵さんは把握ずみって事だ」

「もう、囲まれてるって事?」

「おそらくね」

 エリコは、自らの判断の遅さを悔いた。無用に気落ちして判断力を失ってなどいなければ、とっくの昔にこの事態を察知し、先手を取って相手を罠にかける事さえできた筈だ。自身の精神面の弱点を思い知らされ、エリコは下唇を噛んだ。

「問題は、敵がルーカス以外に何人いるかだ」

「裏切り者が、ってこと?」

「黒旗海賊に連絡をつけたかも知れない…あるいは、フェンリルに属していない、ただのチンピラを雇う事だって考えられる。僕らを捕らえたあとで、黒旗に売り渡す事だってできるしね。いずれにせよ、ルーカスは腕っぷしは大した事なさそうだし、実行は他の人間に任せるだろう」

「それなら、もうとっくに襲って来てるんじゃないの?私達、だいぶゆっくりこの坂を登って来てるわよ。ひとまず、ファジャルに連絡を入れて状況を確かめましょう」

 リネットの指摘に、エリコは小さく頷きながらもしばし思案し、そしてすぐに蒼白になってリネットを見た。

「……大変だ」

 エリコの表情に、リネットは眉をひそめて訊ねた。

「聞きたくないけど、何が大変なの」

「やって来るのは、チンピラなんかじゃない!」

 そうエリコが叫んだ瞬間だった。上空にイオンエンジンの甲高い音が響いて、ひとつの影が旋回するのが見えた。それは、軍用の無人哨戒機だった。

「まっ、まさか」

「ルーカスの野郎、僕らをSPF軍に売り渡しやがったんだ!」

 エリコの罵声は、哨戒機が巻き起こす風にかき消された。

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