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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第三部
21/52

(21)リアリズムの船

 ニューウェイが塗装作業の邪魔だというので、エリコとリネットはガレージの外に出た。防水の点検も含めて、明日までかかるという。

 すでに陽は落ちかけている。ファジャルが組織のメンバーがやっている酒場に声をかけて、とりあえず今夜はそこに宿を取る事になった。看板に真っ黒な三角の山が描かれているパブ「グヌンパダン」は、いかにも東南アジアの庶民のパブ、といった様子で、ファジャルとともにテーブルについたリネットとエリコは、注目の的となった。髭面の偉丈夫が、合成酒のジョッキを手に近寄ってきた。

「ファジャル、またきれいどころを連れてきたな! 女房に言いふらすぞ!」

「ばかやろう! 例の、エドモンドが世話になったっていう二人連れだ!」

 酒場には豪快な笑いが響いた。リネットは士官学校からずっと軍隊の規律の中で過ごしてきたので、体験したことのない空気に戸惑い、圧倒されてしまう。そんなリネットを、エリコは楽しそうに見ていた。

「大丈夫、リネットもこういう空気にすぐ慣れるタイプだよ」

「なんでそんな事わかるのよ」

「シティで、子供から老人まで、女の人もたくさん見てきたからね。人間観察の年季は入ってるつもりだよ」

 悠然と真っ赤なお茶を傾けるエリコの隣で、リネットは訝りながらも、久しぶりのきちんとした食事を口に運んだ。真っ赤な辛いソースをかけた白い麺は、素材そのものはやはり化学合成の産物なのだろうが、それなりに独特の風味があり、ここ数日の文字通りの野戦食とは雲泥の差だった。


 ファジャルはエリコ達の事情を適当にぼかしながら、酒場の顔見知りに紹介してくれた。エリコとリネットはテーブルで食事をしていると、それまでの疲労が一気に押し寄せてきて、その日はもう休むことにして二階の部屋に上がった。部屋のドアを閉めるなり、二つあるベッドの左側に、エリコは身体を投げ出した。

「小汚いベッドに寝転ぶのが、こんなに至福の体験だとはね」

 矯正センター島の脱出からここまで、壮絶な出来事の連続だった。いま無事でいられる事が、もはや奇跡にも思える。リネットも体力の限界で、となりのベッドに仰向けに寝転んだ。はだけた白いシャツの胸が盛り上がっているのを見て、エリコは慌てて目をそらした。

「ここからどうするの」

 しんと静まった部屋に、リネットの気が抜けたような声が響いた。エリコは、ほんの少し冗談めかして答えた。

「フェンリルに居候するっていうのも、そう悪くはないけどね」

「本気で言ってるの?」

 リネットは天上を向いたまま訊ねた。エリコは少し思案したのち、眠そうに口を開いた。

「悪くはないけど、ふたつリスクがあるから、やっぱり出て行かざるを得ない」

「リスクって?」

「ここはまだSPF軍の縄張りだ。まずこの時点で、フェンリルに属すかどうかに関わらず、留まることはできない。そして、僕らがいることでフェンリルや、街の人間にも危害が及ぶ可能性がある」

「じゃあ、どこに行くの?最初に話してたように、アフリカだかを目指すの?」

 リネットは、ホバーバイクで移動中に聞かされた、エリコの想定する潜伏先を思い出してみた。資源がなく、異常才覚者矯正法の条約に批准しておらず、かつ交易の要衝である、という条件だ。エリコが例に挙げたのは、アフリカ大陸に近い島の都市、ザンジバルだった。だがエリコは、あくまで例として考えただけで、まだ考えあぐねていた。

「現状では、兎にも角にもSPF……南パシフィック連邦領を抜ける事が最優先だ」

「そうなると結局、シンガポールからマレーシアあたりのルートで、ユーラシア大陸に渡る事になるわね」

 ルーカスからもらった端末でホログラムスクリーンを展開し、今現在いるインドネシア・バンダ海近辺のマップを確認する。南パシフィック連邦に属していない、ミャンマーにたどり着くだけでも数千キロメートル移動しなくてはならない。しかも、移動したところで国境を越えられるかどうかは不明なのだ。

 どこに行けばいいのか。何をすればいいのか。そう考えると、エリコがフェンリルに留まると言ったことも、リスクを考慮したとしても選択肢から除外することはできなかった。


 だが二人の思考はその夜、睡魔という、人類が時のはじめから相対してきた友であり敵によって遮られた。翌朝ふたりの目を覚まさせたのは、窓をたたく強烈な雨の音だった。照明がついたままだったことに気付いたのは、数分だけ先に目を覚ましたリネットだった。古めかしい壁の片切りスイッチを押しながらリネットは、七つ年下の少年と、特に何もなかったものの、同じ部屋で夜を明かした事に気が付いた。

「……軍の規律だと、どうなってるのかしら」

 寝息を立てるエリコの寝顔を見ながら、リネットは自分がエリコに対して、一線を越えた時のことを想像して表情を強張らせた。逆もあり得るが、今のところ、筋力はどう考えてもリネットの方がだいぶ上回っている。もしリネット側から「それ」を実行した時、エリコはどういう反応を見せるのか。あらぬことを考え始めた時、唐突にエリコが上半身を起こしたので、リネットは心臓が停まるかと思った。

「わああ!」

「ひいい!」

 エリコもまた、自分を凝視して声を上げる不審な女に驚いて、全身を硬直させた。

「なに!? なんかあった!?」

「……何でもない」

 どちらかというと自分を落ち着かせるために、リネットは場を取り繕った。一五歳の少年の怪訝そうな視線に目を逸らしながら、リネットは時計を見た。時刻は朝八時四七分。たっぷり九時間半以上眠った事になる。これほどまとまった睡眠も数日ぶりなので、身体の快調さは異常に思えるほどだった。とはいえ前日調子に乗ってあれこれ食べすぎたので、まだそれほど食欲はなかった。

 酸性雨の中で外出するのも憚られたので、二人はそれぞれシャワーを借りて汗を流し、雨が止んだ一〇時すぎまで取り留めのない会話を交わした。雨音が気持ちを落ち着かせる中、まるで緊張感のない時間を過ごせた事が、お互いに幸せに思えた。



 ニューウェイのガレージを訪れると、塗料の匂いが充満する塗装ブースに、深いコバルトブルーに塗装されたホバーバイクが鎮座していた。その仕上がりに、エリコもリネットも思わず息をのんだ。

「すごい仕事だ」

 エリコの感嘆に、ニューウェイはニヤリと笑った。

「まだ触るなよ。硬質クリスタルコーティングをかけたからな。仕上がるのは午後だ」

「何てお礼を言ったらいいのか」

 申し訳なさそうなリネットに、ニューウェイは手をひらひらと振ってみせた。

「こっちも久しぶりに面白い機体を弄れたからな」

 そのときリネットは、先日海で遭遇した、ある機体のことを思い出した。

「ニューウェイ、あなたなら知ってる?まるでシャチのような、なめらかな流線型のホバーバイク」

「なに?」

「私達を襲った相手が乗っていた機体よ。海上も海中も、恐ろしい速度で移動していた。エリコの機転で破壊できたけど、あんな性能のホバーバイクは、軍でも見たことがないわ。しかもそれを操縦していたのは、恐ろしい運動能力を持ったアンドロイドだった。あなたのような技師なら、知ってるかしら」

 リネットの問いに、ニューウェイは長い沈黙で応えた。

「知らん」

 ようやくの返答は、素っ気ないものだった。

「コストを惜しまなければ、何だって作れるだろう。ただし、知識と技術と創造性の全てが備わっていれば、だがな」

「そういう能力を持った技術者は、いるの?」

「天才というのは、俺達が思っているより、多くいるものだ。俺も若い頃、そういう人間は何人も見てきた」

 ニューウェイは、ふとエリコを興味深そうに見た。

「エドモンドから話は聞いた。お前さん、例の施設から逃げてきたそうだな」

 エリコとリネットは一瞬身をすくめたが、ニューウェイの屈託のない、かつ人間的な深みを感じさせる笑みに、自然と頷いた。

「うん」

「エリコといったか。それを聞かなくとも、お前さんの目を見れば、只者じゃない事はわかる」

 ニューウェイは、傍らのツールボックスの上に無造作に載せてあった、古いウエストポーチをエリコに示した。中からは、ガチャガチャと金属音がする。

「工具一式だ、持っていけ。何かと使う事はあるだろう」

「いいの?」

「中古だが、安物じゃない。いいメカには優れた品質の道具が必要だからな」

 それよりも、とニューウェイは言った。

「エリコに、リネット。お前さん達、これからどこに行くつもりだ」

 それは、ゆうべ二人で話し合っていた事だった。今後どうするかさえ、まだ定まってはいない。エリコは思い切って、計画を打ち明けることにした。それを聞いたニューウェイはまず目を丸くして、次に苦い顔で首を傾げ、しまいには笑い出した。

「呆れたものだ。世界のシステムを変えてやる、か」

「僕は、あんな悍ましい法律がまかり通っていることが許せない。それを『仕方ない』と受け容れている人々も。僕自身、あの島に押し込められるまで、結局それを看過していたんだ」

「まあ、そう気負うな」

 ニューウェイは、ハッカ味のミネラルウォーターのボトルをあおると、手を組んでエリコの目を見た。

「お前さん、人間は愚かだと思っているだろう」

 少年の心を採点する教師のように、ニューウェイはエリコの表情をうかがった。エリコは、精神の未熟さを指摘されるのだろうかと身構えたが、ニューウェイが続けた言葉は意表を突くものだった。

「人間の愚かさってのは、お前さんが考えているような単純なものじゃない。もっともっと根の深い、拗れた、深刻な愚かさなんだ。お前さんが憤っているのは、さしずめ海に顔を見せた氷塊の、頭の部分でしかない」

 ニューウェイの表情は重かった。いったい過去に何を見てきたのだろう、とエリコは思い、黙って話を聞いていた。

「エリコ。異常才覚者矯正法という、あの衆愚政治と排他思想、反知性主義に支えられた狂気の法が、仮にお前の行動をきっかけに無くなったとして、世界はどうなると思う」

 それは、エリコがまだ、深く考えるに至っていない次元の問題だった。

「答えを言おう。『何も変わらない』のが現実だ。世界中に民主主義が息づいて、人間のやる事は変わったか?何も変わっちゃいない。ふりかざすものが王権から民主主義に変わっただけだ。これは民主主義のための戦いだと叫んで、軍隊を送り込み、ミサイルを撃ち込む。これは偉大な共栄圏を構築するためだ、信仰のためだ……つまるところそれは、資源と安全保障を求めての、侵略行為を正当化する試みにすぎん」

 自分で考えていたことを、はるかに年長の人間から言われて、エリコは背筋がこわばるのを覚えた。

 少なくとも今のエリコは、異常才覚者矯正法という、広範囲ではあるが個別の問題に憤っているに過ぎない。つまり、その問題を支える、根幹の問題については認識できていなかったのだ。しょせん一五の少年にすぎない事をエリコは悟らされ、足もとがぐらつく気がした。

「二一世紀初期、いよいよ地球温暖化が加速し、それが明らかに人間の活動が原因だと誰の目にも明らかだとわかった時、彼らはどう反応したか、お前も知っているだろう、エリコ」

 エリコは答えに窮した。二一世紀の人類は、地球温暖化は自然の温度上昇だと言い張り、良識ある科学者たちの警告を無視したのだ。彼らは過激で屈折した環境保護活動家と同一視され、環境保護思想は偽善であると見做された。その結果、世界中で気候変動は加速し、干ばつや洪水、ハリケーンが多発し、最初の世界的な食糧危機が訪れ、第三次世界戦争につながったのだ。ニューウェイはエリコの答えを待たず言った。

「聖書、ペテロ第二の手紙にもある。終わりの時、あざける者たちが、あざけりながら現れるだろう、とな」

 目の前のニューウェイという男は、おそらくエリコと同じ考えを持っている。だが、同じ事を考えていたとしても、その理解のレベルで、この老齢に差し掛かろうという男には及ばないのではないか、とエリコは思った。

「人間は変わらない。そのつど理不尽に立ち向かう者は現れるが、ひとつの理不尽を壊れるまで振り回して飽きたら、また次の理不尽に手を伸ばすのが、人類という名の、宇宙の幼稚園児だ」

 その、エリコを上回る皮肉ぶりに、傍らで聞いていたリネットはほとんど感銘すら受けつつ、エリコがどう反応するかを見守っていた。エリコは唇を結んだまま、思考を混乱させているようだった。

「大人が世界を諦めるのにも、それなりの理由があるということだ。変わるはずのない世界で無駄に足掻くくらいなら、理不尽に折り合いをつけ、目を瞑って自分のささやかな生活だけを守る。それが、『ふつうの人間』だ。我が家を暖かくできるなら、遠く離れた土地で発電用燃料の鉱石を掘らされる原住民が、白血病になろうと奇形で産まれてこようと、知った事ではない。それが、『ふつうの人間』なんだ」

 エリコが、何かに打ちのめされているのが、隣のリネットにはわかった。ニューウェイが語る事はみな、かつてエリコが自らキーボードを叩いて、リネットが読まされた文章と変わらない。だが、それを年長者から語られることは、エリコにとって全く異なる体験だった。

「お前はそのへんを自分なりに考えて、これから何をどうするか決めなきゃならない。何も変わるはずのない世界に、それでも一石を投じるか。諦めて、理不尽の海をリアリズムの船で漂い続けるか」

 ニューウェイは、エリコにホバーバイクの起動キーと、くたびれたメモ帳を差し出した。

「俺が用意できるのはマシンだけだ。ステアリングはお前が握れ。それはお前の義務であり、権利であり、自由だ」

 エリコの右手にしっかりとキーを握らせると、ニューウェイは力強く微笑んだ。

「そのメモも目を通しておけ。少しばかり機能面を調整しておいたからな」

 ニューウェイは少年に、厳しいことを告げてガレージの奥に引っ込んだ。残されたエリコは自らの心に生じた戸惑いが、さらに大きくなるのを感じていた。

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