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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第一部
2/22

(2)認証チップ

 「共感と他者性」という座学の教材を手にリネットが講堂に向かっていると、先刻のリックマン大佐とすれ違った。大佐は立ち止まると、リネットに訊ねた。

「アンドルー少尉。君は以前から、あのシュレーディンガーという少年の指導に執着している傾向が見られるな。呼び出し回数が他の生徒に比較して、明らかに多い」

 その指摘に、リネットは背筋が引きつる思いがした。執着。そんな風に自分で考えた事はなかった。

「……私自身は、そのような意識はありません。彼は、生徒のひとりです。ただ、彼の思考には飛び抜けて問題がある、と認識しているのは事実です」

「それならいいが、個人を特別扱いするのは、集団の協調性を欠くことに繋がる。気をつけるように」

「わかりました」

 それだけ答えると、リネットは講堂に向かった。


 講堂でエリコを含む五名の生徒が、スクリーンに映された「協調性と効率」という映像教材を見ながら、リネットの講義に耳を傾けていた。以前はチャールズを加えた六名だったことを、エリコは思い出していた。

 テキストによれば協調性を持った平均的な集団の組織は、特別な能力の個人を擁する組織より生産性が高い、という。また協調性は生産だけでなく、芸術についても同じ事が言え、共感を大事にした作品ほど多くの民衆の支持を集めることができ、必ずしも芸術性が高い事だけが重要なのではない、ということだった。突出した個は全体としてはマイナスに働く事が多く、個を集団に同調させる方が良い結果を生むらしい。


 では、二百年前にナチスドイツと呼ばれた集団のもとで、ポーランドにおいてユダヤ人虐殺を実行した警察予備隊の多くが、もと一般の凡庸な中年男性だった事はどう説明するのか。この場合、指導した少数の「個」に問題があるのであって、参加を望んだ集団の「協調性」は問題にはならないのか。民族弾圧だってひとつの「協調」だろう。それどころか、侵略行為こそ無慈悲な協調、連帯がなければ達成できない。凡人の協調が最悪の結果をもたらす事もあるのだ。


 だが、今日のエリコはとりあえず言いたい事を我慢した。講義が終わると、よく我慢した、と自分の忍耐力を称賛しながら、講堂から真っ白で無機質な廊下に出た。

「珍しく今日は、稀代の厭世家の講義を聞けなかったな。残念だ」

 後ろから、クスクスという複数の笑い声とともに、意地悪そうな声が聞こえた。細い目に短髪の背が高い東洋人と、その後ろに控える三人の、金、茶、焦げ茶というグラデーションの髪をした白人の少年たちだ。東洋人の姓はカトーといった。

「おとなしくしてくれれば、僕らも助かるというもんだ。君と同じグループにいるせいで、とばっちりでペナルティを食らったらたまらない」

 ここでエリコの癇に障ったのは言われた事ではなく、四人で固まって同じ笑みをエリコに向ける、その光景それ自体だった。エリコは精一杯の理性を保っていた。

「君は出会った頃は、もっと面白い奴だったな、カトー。最低何人いればこの施設を制圧できるか、というシミュレーションは最高に面白かったんだが」

 エリコの返答にカトーは一瞬けわしい顔を見せたが、すぐにまた意地悪い笑みを浮かべた。

「怒らせようとしても無駄だ、その手には乗らないさ。いまの講義を聞いてなかったのかい。協調を欠いてはならないんだよ」

「協調?偉い奴らに尻尾を振る、の間違いだろう。会った時は黒豹みたいな奴だと思ったが、牙も爪も丸められて、飼い猫に成り下がってしまったな」

 いよいよカトーの目に怒りの色が浮かんだが、向こうも全力で怒りを抑えているようだった。

「ふん、まあいい。最初につっかかったのは僕だ。おあいこって事にしてやるよ」



 その日は運動の科目があり、ランニングの先頭を走る海軍所属のリネット教官は、座学より活き活きして見えた。

「この中でいちばんやる気のある人は誰ー!?」

 先頭を走りながら、教官が叫ぶ。カトー達は「僕です!」などと叫んで教官に追随しようとするが、いちばん鍛えているカトーも、パッと見では『ただの二◯代前半の女性』にしか見えないリネット教官に追い付けない。遠慮しているのではなく、本当に追い付けないのだ。軍隊ユニフォームの下には、想像するより鍛えられた肉体が納まっているらしい。

 エリコは肉体的に劣っているわけではなく、カトーが体格も体力もやや上回るので普通に見えるだけなのだが、訓練などで身体を壊したくないのでいつも後ろのほうで流している。すると、必ずリネット教官が叫ぶ。

「エリコ、あなたの脚はその程度!?」

 そう言われると腹が立つのが、しょせん一五の少年ではあった。カトーにも負けないという事はあまり目立たせたくないのだが、少しくらいなら年齢相応に、見栄を張るフリを見せる必要もあるだろう。エリコは温存していた脚で、一気にカトーを追い抜いてみせた。リネット教官の、キラキラ光る金髪が眩しい。カトーが躍起になって速力を上げてきたので、適当に負けたふりをしてやったし、実際に持続力では負ける。だが、身体の俊敏さ、軽快さではカトーに勝っている気がする。


 海岸に沿って合計二キロメートルのランニングを終えたのち、ほぼ軍隊式のトレーニングメニューが待っている。これにはウンザリする。メディカルボールとかいう、それこそ百年前から進歩がない重い球を投げたり、ウェイトを持ち上げたり。ここでは明らかにカトーに負けるのも悔しい。リネット教官の輝くような笑顔も、この時は悪魔の親戚に見える。

 教官には申し訳ないが、このメニューが協調性の訓練になるとは思えない。だいたい、協調しろと言われると、がぜん協調性などゴミに出してしまいたくなるエリコだった。



 夕食をとっていると、エリコはリネットからひとつの連絡を受けた。エリコの手の甲に埋め込んである生体チップの、位置情報反応がおかしいという。故障の可能性もあるため、医療センターでチェックを受けて欲しい、ということだった。

 真っ白で、無機的なのか有機的なのかわからない医療センターの一室で、四〇代くらいの男性医師によって、エリコのチップが専用のセンサーにかけられた。金属で覆われた場所にいなかったか、あるいは金属製の機械類の内部に左手を入れていたか、などと質問された。

 その場では特に異常は見られなかったが、念のためチップを新しいものに交換するという。皮膚を切開して埋め込むため、消毒も念入りに行われる。施術のあと五時間は、巻いてある保護シートを剥がすな、と言われた。

 ひととおり終わったようなので、もう戻っていいのだろうかとエリコが立ち上がりかけたとき、ふいに医師のデスクの通信機が鳴った。医師は何事かの連絡を受けて頷くと、通話を切ってエリコを向いた。

「済まないが、どうも前回の健康診断時に、君に使用した頭部のスキャナーにメンテナンスの不備があったようでね。君を含めて何名か、再検査の必要がある。ここに来ているついでに今検査をしておいてくれ、と連絡があった」

 何だそれは、面倒くさいな、とエリコは思ったが、そう答えるとまた面倒なことになりそうなので、おとなしく再検査を受けることにした。検査結果を見た医師は、何度か首を傾げていたので、よもや脳に何かまずいものでも見つかったのか、と一瞬不安になったが、前回と特段変わったところがないので、再検査の必要などなかった事に対して首を傾げていたらしかった。ひととおり終わって、エリコは診察室を退出した。


 自室に戻る途中、エリコは黒いシートが巻かれた手を見て苦笑した。

「まるで囚人だ」

 個人認証などに用いられる埋め込みチップは、現代において埋め込むのが一般化しているが、位置情報については、通常はプライバシーの問題もあって任意でオフにできる。だが、エリコ達がこの島に来てから交換されたチップは、そのような変更が許可されていなかった。つまりエリコ達は、施設管理センター、そしておそらくは本国からも、つねにその位置を把握されているのである。

 なぜ、そこまでする必要があるのか、とエリコは思う。自分たちはべつに犯罪者ではないし、クーデターを計画しているわけでもない(将来計画しないという保証もないが)。あるいは精神や認知機能に、医学的なレベルで異常があるわけでもない。位置情報を常に提供しなくてはならない義務がどこにあるのか。まして脳の再検査など、いったいなぜそこまで執拗にしなければならないのか。いかれた政治家達こそ、全員脳の検査を受けるべきだろう。どうせ、使い古しのスポンジしか詰まってはいまい。

 意味不明の措置に苛立ちは覚えるが、これも『矯正』の一環なのだろう、とエリコは皮肉めいた笑みを浮かべて、医療センターを後にした。エリコにはどう考えても矯正どころか、逆の結果しか想像できなかった。その夜は何となく釈然としないまま、かろうじて許可されているエンターテインメント端末で、百数十年前のガンマン二人組が逃亡する映画を観たあと床についた。



 翌日午前、「建設的思考と判断」という座学で、痩せぎすな中年男性教官は、破壊からは建設的な成果は生まれない、とスクリーンを示しながら言った。すでに秩序が構築されている場合、それを壊すことは建設には繋がらない、と少佐の男性教官は説明した。

「自分が大国による支配に抵抗して、貧窮する小国に属しているとする。この場合、国体を守ろうと抵抗を続ける道と、降伏して併呑される道、どちらもそれぞれの視点からは正しいと言えるが、抵抗することで血が流れるのは歴史的な事実だ」

 淡々と、教官は言った。となりのカトーは頬杖をついて、難しい顔をしている。教官はそのカトーを指名した。

「カトー、君ならどう考える」

「大国に対抗するための同盟国がなければ、停戦のため、第三国に仲介してもらえるよう働きかけるべきでしょう」

 即座にカトーはそう答えた。すると、横から質問をかぶせる、赤毛の少年がいた。

「その第三国が、状況を利用してこちらを脅してきたら? たとえば軍事力でこちらを守る代わりに、こちらの領土内での資源開発の権利を条件として、形ばかりの仲介を持ちかけてくるかも知れない。その結果、駐留軍を置かれて監視され、資源も向こうに体よく奪われることになったら?」

 捲し立てるようなエリコの意見に、講堂内は静まり返った。教官は教壇を軽く叩くと、低い声で言った。

「シュレーディンガー、君には質問していない」

 教官は咳払いして、改めて訊ねた。

「ではシュレーディンガー、君なら先ほどの問いに、どう答えるのかね」

「彼我の支配体制によります」

「ほう」

「自分の国の政治体制が腐っていて、向こうがまともだったら、さっさと国を売り飛ばします。でもその逆だったら」

 誰も想定していない回答に多少面食らいながら、教官は話を続けさせた。

「逆だったら?」

「降伏、併呑、いずれの形にせよ、敗北が避けられず、仮に属国となったと想定しましょう。その場合、宗主国の軍人になります」

「ほう」

「そして、宗主国内でクーデターを起こして政権を奪取するでしょう。国家を滅ぼして、あらたな国を建国します。民主制ではなく、独裁体制かも知れない。僕が君主になってもいい。僕の故国を侵略した旧体制の指導層は、全員公開処刑です。独裁なら軍事裁判もいらないから、経済的だ」

 さすがに、この回答には講堂にいたエリコ以外の全員がぎょっとして、返す言葉がなかった。教官はエリコが問題児だという話だけは聞いていたが、じかに体験すると、顔面蒼白でそれを理解したようだった。

「な、なかなかユニークな意見だが…」

 そのあと、教官がどう言葉を濁したのか、エリコの耳には入ってこなかった。この程度の皮肉で膝をぐらつかせるようだから、あんたは少佐どまりなんだ、と心の中で罵倒すると、あとはただ時間が過ぎるのを待った。


 百年くらい前の書籍アーカイブで読んだ本に、自分が何者かを知るには、自分でないものが比較対象として、この宇宙のどこかに現れなくてはならない、と書かれてあった。その教えに拠るなら、この孤島の施設こそ、エリコにとって最悪の比較対象だ。ひとを勝手に分類して矯正するなど、体制、権力の傲慢にほかならない。エリコは強権的、独善的な考え全てが嫌いだったし、言い訳をして強い相手に媚びる民衆も嫌いだった。

 そこで、エリコに葛藤が生まれる。もし、この施設に来たおかげで自分自身の在り方に気付けたのだとしたら、悍ましい法律や、高圧的な軍人たちに、「感謝」しなくてはならない、という事になるからだ。冗談ではない。エリコにとって、嫌いな相手は嫌いな相手であり、逆説的にであっても依存する対象であってはならなかった。

 だが、エリコ・シュレーディンガーという一五歳の少年にとって、逆境であればあるほど自分の在り方について、迷いがなくなっていったのも残酷な事実だった。エリコの知性は一五歳の平均を凌駕していたが、精神の成長度合いは年齢に比例する程度でしかなかった。



 昼すぎ、センターの地震計がわずかに反応した。二千キロメートル離れた海底が震源で、マグニチュードは3、との事だった。

「あなたが楽しみにしてる津波の心配はなさそうよ」

 意地悪く笑いながら、リネットはエリコに特殊な非磁性金属でできたトランク大のケースを渡した。

「レーザーグラスカッターの使い方はわかるわよね」

「大丈夫」

 ケースを開けると、折り畳まれたオレンジ色のフレームの機械が現れた。展開すると、特殊なレーザーで無機物と動物を避け、植物だけをカットする刈り払い機になる。

「ペナルティポイント解消のノルマは時間制で、トータル二〇時間。バッテリー駆動時間が二時間くらいだから、一日二時間で一〇日やってもいいし、任せるわ。管理センターから、やるならまずエアポートまでの連絡路を除草してほしいって」

「了解」

「先月のメディカルチェックの結果通知は受け取った? 健康状態に問題はないわね」

 エリコは頷いて、支給されている通信端末に届いたメールを見せた。

「身体機能に特に異常なし。脳スキャン結果も正常」

「よろしい。それでは、これより慈善活動を開始してください。万が一、基準値を超える酸性雨が降った場合は、すみやかに作業を中止してセンターに戻るように」

 屋外活動の規定を伝え、立ち去ろうとしたリネットに、エリコは訊ねた。

「もし津波が来たら、そのときは警報は鳴るの?」

「え?」

 リネットは、怪訝そうにエリコを振り返った。

「だって、慈善活動の最中に津波が来たら、僕だけ外に孤立する事になるかも知れない。最悪、流されてしまうかも」

「津波に限らず災害の際は、全員に支給された通信端末に必ず緊急警報が届きます。端末は必ず所持しておくようにね。もしセンターから遠く離れていた場合、チップの位置情報をもとに、水陸両用救助艇が向かいます」

「僕が連絡したら、リネット先生に来て欲しいな」

 その、いつになく柔らかな声色と穏やかな表情に、リネットは驚きを隠さなかった。

「そんな顔、初めて見たわ。いつもクリスタルモールドの彫刻みたいなのに」

「ずいぶんだな」

 エリコが苦笑すると、つられてリネットも吹き出してしまう。するとエリコは改まって、リネットを向いて言った。


「あの遺跡発掘で、ひとつだけ面白い事がわかったよ。あの古代の石組みはバラバラに崩れているように見えるけど、最上段の石組みは、まったく崩れていないんだ。わずかな隙間も出来ないくらいに。僕の推測だけど、頂上部と下部では、手がけた世代が違うんじゃないかな。だから技術レベルに差が生まれたんだ」

 その唐突な報告に、リネットはまた首をひねった。エリコと会話していると、何度首をひねるかわからない。エリコはリネットに構わず、いつものように勝手に話を続けた。

「もし外にいる時津波が来たら、いっそあの頑丈な石組みにしがみついているのが、一番の安全策かも知れないな。うん、そうしよう」

「いったい何を言っているの?」

「僕の計算だと、たぶん明後日の午後三時台に地震が発生して、三時から四時の間に、この島に津波が到達する。波の高さは一五から二〇メートルに達するだろう」

 あまりにも淡々と語るので、リネットは何を言われたのか、一瞬理解に苦しんだ。センターの四進数素粒子コンピューターと人工知能システムでも、津波発生の予測など立てられていない。それをこの、くすんだ赤毛の髪の少年は、簡単な整数の足し算でもしたかのように語っているのだ。まるで、午後は雨になりそうだという程度の口調で、島全体が壊滅しかねないほどの津波の予測を立てている。リネットはつい、声を上げて笑ってしまった

「あなたがそんなジョークを言うとは思わなかったわ」

「冗談なんかじゃないさ。地震は起こるし、津波は来る。でも、このことはまだ、他の人に言っちゃ駄目だよ。今は僕と先生だけの秘密さ」


 その、思いもよらないロマンチックな口ぶりに、リネットは心の中の何かを刺激された気がした。いったい自分は、この七つも年下の少年に、何を想っているのか。エリコは微笑んで、グラスカッターのケースを左手に提げて、草むらの奥に歩いて行った。

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