(18)あてのない旅
海賊であり漁業組織『フェンリル』の支部がある港町は、SPF海軍と黒旗海賊の遭遇戦が終結をみていた。島民の死者一六名、黒旗海賊の死者三四名および捕縛者一三名、海軍の死者一八名という、戦場が極めて限定された戦闘としては比較的大きな数字だった。
海軍はこの遭遇戦によって、当初の目的であるエリコ・シュレーディンガーの行方を見失うことになり、また行方不明者リストの中に指揮官のブロンクス准将が含まれていることも判明すると、ダーウィンの海軍本部には小さくない動揺が広がった。ただ一人の一五歳の少年を追って、小規模ではあるが艦隊が出動した結果、少年とはまったく関係ない海賊を掃討させられる羽目になったのだ。しかも戦略的には今回の件で、かねてからの懸案だった黒旗海賊を、本格的に攻撃する口実ができた事になる。上層部の中には口にこそ出さないが、このことを好機とみる将校さえいた。
しかし外の世界で、誰と誰がどういうレベルとスケールでどんな議論を交わそうと、当のエリコ・シュレーディンガー少年にとっては、さしあたって自分と同行者の生存が最大の問題だった。
「所持金は十万Pドル、水陸両用ホバーバイク一台、エネルギーパックふたつ、ブラスター二丁。着替えと食料、そして明日以降の保証はゼロ」
海風が吹き付け、陽光が降りそそぐ浜辺で、エリコは淡々と現在所有しているものを確認した。リネットは汗ばむ胸元を押し広げ、エリコの正面に座っている。十五歳の少年は、リネットと目線を合わせようとするたびに視線がその胸元を通過せねばならず、この二二歳の元軍人はわざとやっているのではないか、との疑念を強めた。
あてのない旅。文章にするとロマンに満ちているが、実際にその立場におかれてみると、ロマンよりまず生存、安全保障が先に来る。ここからどうするべきか。エリコが立てたプランは、悉く変更を余儀なくされている。まだエリコは全体的な構想を変えてはいなかったが、そこに至るまでの困難と、到達したからと言って何ができるのか、という疑念もある。
そんな不安を抱えるエリコとリネットのもとへ、水しぶきを上げて一隻のボートが走ってきた。乗っているのは浅黒い肌の海賊、エドモンドである。
「しけた顔してるな、ご両人」
係留したボートから、エドモンドは草臥れたリュックサックを背負って降りてきた。
「とりあえず、今お前らにやれるのはこの程度だ。少なくて申し訳ないが、マリーの命を救ってくれたお礼だよ」
広げてみせたリュックには携行食糧や飲料、医療品などが詰め込まれていた。
「島にはまだ、軍の奴らが後処理で居座ってる。そうでなけりゃ、部屋も用意できたんだが」
済まない、と詫びるエドモンドに、エリコとリネットは首を振った。
「これだけで十分すぎるくらいだよ」
「エリコ、お前達は西を目指すんだろう?」
エドモンドは、西から吹く潮風に目を細めた。
「うん」
「例の、テレーズからの情報だ。どうやら、海軍は艦隊を編成しだい、『黒旗』どもの本格的な討伐に乗り出すらしい。荒れるぞ」
つまり、今いる海域も程なくして、戦場になる可能性が高い、ということだ。黒旗の根拠地は北にあるが、追い詰められてどの方角に退避するかはわからない。
「エリコ、そのへんは考えてるのよね」
「僕に丸投げするかな。三日前まで少尉だったんでしょ」
仏頂面で、エリコは当面のプランをかいつまんで説明した。
「とにかくまず、この軍用ホバーを改造しないといけない。GPSにも繋げないんじゃ、不便すぎる」
するとエドモンドは、通信端末の海域マップにある細長い島を示した。
「ここが、説明したジャンク屋だ。ニューウェイって名前のオヤジで、機体のID書き換え、パスコードの解除、たいがいの事はやってくれる。俺の名前で、サービスするよう伝えといてやるよ」
まさしくモグリの職人だ。シティにもその手の知己がいる。エリコは頷いた。
「ありがとう、助かる。そこでホバーバイクの軍の識別コードを民間用に書き換えて、ネットワークにアクセスできるようにしよう。塗装も変えるべきだな。あと、リネットが軍服なのが一番まずい」
「あんたの収容者制服もね」
エリコとリネットが睨み合うと、エドモンドは笑った。
「とりあえず、町に行けばたいがいの物は揃う。そこからは、お前達の仕事だ」
エドモンドは、わずかに真剣な眼差しをエリコに向けた。
「エリコ。お前は何をしようとしてるんだ」
それは、咎めるでも脅すでもない、真っ直ぐな問いかけだった。
「俺達は、目的を定めて船を出す。漁もそうだし、港から港へ物資を輸送するのも、人を送り届けるのも。そして、黒旗どもと一戦交えるのもな」
エドモンドが差し出したドリンクを、エリコは口に含むと、それが酒だとわかってすぐに吐き出した。むせるエリコを見て、エドモンドは大口を開けて笑った。慌ててリネットが瓶を取り上げ、エドモンドを睨む。
「お前は、例の法律のシステムを暴くのが目的だ、と言ったな。その先はどうする」
「えっ?」
エリコは、面食らって言葉を詰まらせた。
「俺達が黒旗どもと戦っているのは、島の平穏を脅かすからだ。島の奴ら、女子供が、平和に暮らせるようにする、それが俺達の目的だ。お前には、何がある。目指すものはあるか」
今度こそ、飲める水をエドモンドは差し出した。リネットが先にその未開封の瓶を開け、臭いを確かめ、味を確認してからエリコに渡す。喉を潤したエリコは、うつむいて考え込んだ。
異常才覚者矯正法の闇を暴いて、白日のもとに晒す。それが、エリコの当面の目的だった。
では、その後は?
エドモンドは問うたのだ。お前は何者か、お前の在り方、自分自身はどこにあるのか、と。エリコは、即座に答えることができなかった。いまのエリコの原動力は、システムへの反逆心だ。異常才覚者矯正法が、少なくとも『間違った』システムである事に、エリコは疑いを抱いていない。それを破壊する事にも、何の迷いもない。
だが、それを達成した後は? そのとき自分は何を目指すのか? それを考えたとき、エリコは何か、無重力空間に放り出されたような、言い知れない寒気を覚えた。
エリコは、あの孤島に収容されていた時、どうしようもない葛藤に苛まれていた。あの忌々しい島に押し込められて、初めてエリコは自由の意味を、少しだけ知ることができたのだ。呪いの対象のおかげで、僅かに自分の真実の一端を垣間見たこと、それがエリコには許せなかった。
エリコは見つけ出さなくてはならない。何ものにもよらず獲得する、絶対的な、ほんとうの何かだ。自分の中で燻っていたその戸惑いと葛藤が、エドモンドの言葉によって呼び覚まされた。そのときエリコが思い出したのは、あの孤島が津波に飲み込まれた日、リネットと二人きりで、頼りないホバーバイクでしがみついていた、あの丘の上の花崗岩の石組みだった。
あの、ただのちっぽけな石組みは、現代科学の粋を集めた建築を打ち砕いた津波にも耐え切った。いったい何千年、いや何万年前のものかわからない、古い古い石組みだ。
古代人はほんとうに、無知な原始人だったのか? かつてスペイン人は、侵略し滅ぼしたインカ帝国のビラコチャ神殿の上に、征服の証としてキリスト教の教会を建てた。その教会は一七世紀、二〇世紀の二度の地震で、それぞれ崩れ落ちて再建された。だが土台となった、「野蛮人」が築き上げたはずの古代の石組みは、微動だにしなかったのだ。
古代には、科学で解明できていない謎が確かにある。人間は、それを妄想、オカルトだと一笑に付してきた。現代の科学こそが歴史上でもっとも偉大な、人間の智慧の到達点だと信じ、古代人が高度な技術や科学知識を有していたはずはない、と決めつけてきた。その文明は自ら制御を失って暴走し、今ゆるやかな滅亡の淵にいる。
そのときエリコは、かつて滅びたという伝説の文明の名を思い出した。
「アトランティスだ」
エリコは、遠く西の方角を向いてそう言った。その、まったく予想外の固有名詞に、エドモンドとリネットは目を見合わせ、次に怪訝そうにエリコを見た。そしてエリコ自身、どうしてその言葉が自分の口から紡がれたのか、理解してはいなかった。
「遠い昔、海に沈んだという伝説の島。僕はその謎を追ってみたい。強大な文明が本当にあったとして、それは一体どんな文明だったのか。その文明はなぜ、どうやって滅んだのか、それを知りたい」
冗談なのか、本気なのか? エドモンドは、興味深そうな笑みを浮かべ、顎の不精ひげを指で擦った。
「なるほど。面白い野郎だな、お前」
「笑わないの?」
「笑ってるさ。今まで出会ってきた中で、最高に面白い奴だ、お前は」
その瞳に嘘はなかった。エドモンドは、エリコが咳き込んだ酒を豪快に飲み干し、空になった瓶を突き出した。
「エリコ。酒が飲めるようになったら、また俺達の港に来い。マリーの店で、待ってるぜ。博打と女遊びも教えてやる」
「青少年をたぶらかさないで!」
リネットが凄むと、エドモンドは盛大に笑った。エリコは、今まで出会った事のないような人間がこうして生きていることを知り、喜びを感じていた。そして同時に、同じ人間でありながら人間を否定する、そんな仕組みを生み出す事に何の痛痒も感じない人間が存在することに、憤りを覚えてもいた。




