(12)逃走者
ホバーバイクで海上を移動しながら、エリコは必死で考えた。この状況は、どんなパターンが考えられるか。かりに軍がこちらを追って来るとしたら、どういう網を張るか。そうこうしているうちに、どんどん空は暗くなり、雨もポツポツとキャノピーを叩き始めた。
「エリコ、陸が見えるまでどれくらい?」
「さすがに予測は難しいけど……このペースじゃ、あと三時間はかかるかも。リネット、スピードは上げられる?」
「上げられるけど、当然エネルギー消費は大きくなる」
「予備エネルギーパックがあるよね。あれも使って、スピードを今の二〇パーセント上げてほしい。そして、二時間後に島が見えてきたら、西に進路変更するんだ」
ステアリングを握るリネットは、正気か、と問い返した。
「そんなことしたら、嵐の中に横から突っ込むわよ」
「だからだよ。最初からそれが目的だったんだ」
エリコは、いくぶん自信なさげではあるが、順をおって説明した。エリコが嵐に合わせて動いたのは、嵐によって追跡者の行動を制限するためだった。悪天候になれば艦艇や哨戒機は自由には動けなくなる。
さらに、嵐の中を移動すれば、追跡者は完全にこちらを見失う。ただし、こちらが遭難する確率も高くなるが。
「いいかい、リネット。南進して陸が見えたら、キャノピーだけ水面から出して、半潜航状態で周囲を警戒する。そして、嵐が強まるのを待って、陸伝いのルートで海上を西へ向かうんだ」
「順を追って自殺行為を説明されても、すなおに首肯しかねるわね」
わざわざ嵐を待って、小さなホバーで海上を進むなど、正気の人間の選択ではない。だが、エリコの様子は多少焦りはあっても正気そのものであり、リネットはなおさら正気を疑わざるを得なかった。
「西へ向かってどうするの」
「たぶん、いくつもの島が見えてくる。運がよければ、物資が補給できるかも知れない」
運が良ければ。結局最後はそれか、とリネットは小さくため息をついたが、矯正センター島の脱出プランを実行してみせたエリコの言うことなので、もう黙って肯くほかない、と諦めて、リネットはアクセルを踏み込んだ。
「落ち着いたら、あんたにも操縦の訓練つけてやるからね!」
「そこは役割分担でしょ?」
「甘い!」
ホバーバイクは、暗雲が背後から迫る海上を南へと爆進した。
◇
ヴィジャヤラクシュミ・ラマヌジャン監察官は、ダーウィン市郊外にある私邸のティールームで、一人の若く、浅黒い肌の青年とテーブルを挟んで紅茶を傾けていた。
「姉さんは、あの少年が本物だと思うの?」
ヴィジャヤラクシュミを姉と呼ぶ青年は、微笑みとも無感情ともつかない顔でティーカップを置くと、テーブルに浮かんだホログラムスクリーンに映る、エリコ・シュレーディンガーの顔写真を確認した。
「本物だと思っているのなら、どうして軍の連中などに任せておくのか、聞かせてもらえるかな」
「本物だという確信はないわ」
ヴィジャヤラクシュミは、穏やかな笑みを弟に向け、端的に述べた。
「確信を得るために、軍に追わせておく。今はね」
「もし彼が本当に生きているとして、軍に捕まったら? 彼らは脳みそをほじくり出すかも知れないよ。なにしろ自分たちが、賢い生き物だと思ってるからね」
青年が訊ねると、ヴィジャヤラクシュミは窓から射し込む光に目を細め、遠く広がる水平線を見つめた。
「彼が本物ならば、軍などに捕まる筈はないわ。何らかの目的で、意図的に捕まる以外はね」
「つまり姉さんは、軍を試験紙扱いしているわけだ」
「人聞きの悪い言い方は心外だわ、クリシュナ」
ヴィジャヤラクシュミは、弟に意地の悪そうな笑みを送った。クリシュナは肩をすくめ、立ち上がると白いスーツの襟もとを整える。
「それじゃ行くよ。つまらない連中の、権威主義で構成された会議に顔を出さなきゃならない」
「ご苦労さま」
「じきに終わるさ。そうそう、いい茶葉があるんだ。届けさせておくよ」
それだけ言うと、クリシュナは手をヒラヒラと振って、真っ白なティールームをあとにした。ヴィジャヤラクシュミは控えていたメイドにテーブルの上を片付けさせると、窓を叩き始めた海風の音に耳をかたむけた。
「方舟は、辿り着けるかしら」
◇
ファイアストン大佐の指揮する哨戒艦は、あたかも嵐を引き連れるように西パプア海域へと南進していた。
「大佐、こんな海を逃亡するバカはいませんよ。大佐の言う通り、もう海に呑まれたか、あるいは最初から逃亡者なんていなかったんだ」
「マーカス、本当に頭のいい奴ってのは、どういう奴か知ってるかい」
「さあ。俺は頭が悪いんで、わかりませんね」
そうだろう、とテレーズが言うと、マーカスは面白くなさそうにモニターの天候ハザードを睨んだ。テレーズは、黒くなってゆく空を睨む。
「本当に頭のいい奴ってのは、自分の中にいる『バカ』を、飼い慣らせる奴のことを言うんだ」
テレーズは、通信担当の若い金髪の少尉を振り向いた。少尉は音もなく、フィジカルキーボードを叩いていた。
「すまないね、急場に引っ張り出したもんで。名前は何だっけ?」
「アトキンソン少尉であります」
「アトキンソン、いったん本国への逐次報告は停止しな」
「ええっ!?」
金髪の少尉は、驚いて大佐の目を見た。大佐は、にんまりと笑っていた。
「ちっ、逐次状況は報告せよと」
「何分おきに、っていう指示はあったかい?」
「いえっ、それは」
「十分おきだろうが、十時間おきだろうが、あたしが逐次っていえば逐次なんだ。なあに、あんたはあたしにそう命令されたって言えばいい。航海長!」
テレーズが叫ぶと、航海長はびくりとして背筋を伸ばした。
「ここからいちばん近い港は?」
「ソロン港ですかね」
「よし、あたしと他に五人、高速艇三隻で出る。艦はソロンに停泊させておいてくれ」
「この嵐の中を、ボートで出るんですか!?」
さすがにその決定には、全員が驚きとともに恐怖の色を浮かべた。なぜなら、どの五人が選ばれるか不明だったからである。航海関連の担当官たちは、選ばれる心配がない事を神に感謝した。
「もしあたしが逃げる立場で、かりに小型のボート類で移動しているなら、狭い海域を利用する。大形の艦艇は動きづらい。嵐がくれば哨戒機も飛ばせない。追っ手の動きを制限するには、天候や地形を利用するのが一番だ」
「じゃあ、そいつは今どこにいるってんですか」
「決まってる。もっとも入り組んだ、浅瀬の多い海域だ」
テレーズはモニターのマップ上の、群島がひしめく一帯を指さした。
「どのみち、逃げるとしたらそいつは大陸に渡るか、大陸づたいに移動して、南パシフィック連邦領を脱出するつもりだろう。つまり、最終目的地かどうかはともかく、おそらくはインドあたりに向かわざるを得ないね」
「つまり……」
「そうだ。この入り組んだ地帯から、インドに向かうルートに網を張る。ただしこの事は、軍にはまだ連絡は入れないこと。軍の動きが大きくなるほど、そいつは身を隠そうとする。けれど逃亡するにも食糧がなきゃ死んじまうから、どこかで補給はしなきゃならない」
テレーズはマップを拡大し、いくつかの港町や集落を選定した。
「このあたりは海賊が出る。海賊を避けつつ補給ができるとすれば、だいたいこの三箇所だろう」
あたりを付けた三つの小さな町や村を示すと、隊員たちはなるほどと頷いた。過去に何度もテレーズと、任務をこなしてきた面々である。
「マーカス、お前はあたしと来い。残りはデルガルデとヴォルフ、チルトンとウェバーだ。いいね」
「了解」
仕方ねえなあという風に、ぞろぞろと五人の兵士が艦橋を出ていった。その後を幼稚園の引率の先生といった様子で、巨体を揺すってテレーズが続く。テレーズがいなくなっただけで、艦橋の気圧が下がったように航海長は思った。
海軍の標準的な高速艇は、最大八人が搭乗できる。二一〇八年現在、船舶や航空機の動力はイオンエンジンが主流だが、同じ名称でも二一世紀に存在したイオンエンジンとは別物で、段違いの出力と耐久性を備えている。擬似的な慣性制御も可能であり、水上を毎時二百から四百キロメートルで移動しながら、スムーズに速度を落として停泊させる事も可能である。
テレーズが後部でレーダーを睨むなか、マーカスはいよいよ波が高くなってきた海上を、慎重に進んでいた。
「ヴォルフとウェバーはそれぞれ、予定のエリアに着いたようです」
「よし。あたしらも急ぐよ」
テレーズの高速艇は、北マルク諸島に近い細長い島の、南側にある小さな港町を目指していた。
「なんだい、この雨は! あたしが移動中は降らないで欲しいもんだね!」
「大佐が出るって言ったんですよ!」
「なんでもいい、飛ばしな!」
テレーズの分厚い手に背中を叩かれ、マーカスはやけくそでボートを加速させた。
◇
エリコとリネットはひとまず予定どおり、陸地が見えてきたのを確認すると、思ったより急速に嵐が強まってきたため、いったん潜航して様子を見るプランを捨てて、すぐに西へ向けてホバーを走らせた。リネットは、せっかく見えた陸地を名残り惜しそうに振り返った。
「さっきのが西パプア?」
「パプアか、ワイゲオ島のどっちかだ。いずれにせよ、このまま西に進めば北マルク州にぶつかる」
「この天候じゃ、追っ手がいたとしても心配ないんでしょ? それなら、どこかでいったん休んでもいいんじゃない?」
リネットの提案ももっともではあった。波はホバーバイクの運転も難しくなってきており、追跡者にとっても条件は同じである。だが、エリコの選択は違った。
「最初の選択は変更しない。このまま、行けるところまで悪天候の中を突っ切る」
「まるで特殊部隊ね!」
視界を遮る波に悪態をつきながら、リネットはステアリングを切った。
エリコには、ふたつの不安があった。ひとつは単純に、追っ手が迫っている可能性。そしてもうひとつは、自分の逃亡ルート選定が間違っている事への不安である。
嵐を障壁として移動する、という発想は間違っていない。最初からリスクを承知での選択である。だが、そこにこそエリコの不安があった。
「もし、追っ手が僕の逃亡プランを予想できるような奴だったら、このルートを予測して網を張っているかも知れない」
「えっ、なに?」
波の音でかき消されたエリコに、リネットは訊ねた。エリコの危惧を理解すると、リネットは楕円形キャノピーの天頂部に向かって意見を述べた。
「さすがにそれはないんじゃない? この嵐の中を逃げるバカがいるなんて、誰も考えないよ」
「相手が本物のバカだったら、バカの考えに気付くだろう」
自分ですごいセリフだと思いながら、エリコは周囲を見渡した。遠くにいくつか、島の影が見える。するとエリコは突然、叫ぶように言った。
「リネット、潜航だ! 最低深度まで!」
「わあ! びっくりした!」
「後でゆっくり驚いてよ! 早く!」
無茶苦茶な指示を出しながら、エリコは身をよじって、シート脇にある予備のエネルギーパックを取り出した。
「潜航して、ホバーのエネルギーパックを交換する。そして、海中を南に向かう」
「予定と違う!」
「いいから、僕の言う通りに!」
息が合ってきたのか、きていないのか、リネットはぶつくさ言いながらホバーを海底に潜航させた。水深は七・六メートル、ギリギリの深度である。海中はほとんど見えない。この状況でエネルギーパック交換など、ほとんど自殺行為に等しかった。しかもその作業は、後部座席にいるエリコに任せなくてはならない。
「はい終わり!」
エリコは、驚くほどの早さで作業を完了させた。本当にきちんと交換できたのか、恐る恐るリネットはイオンエンジンをスタートさせる。表示された「オールグリーン」の文字に、リネットは心から安堵した。
「今日だけでもう三回くらい死んだ気分」
「そんなジョークを飛ばせる余裕があるなら大丈夫だね」
「お褒めにあずかって光栄だわ。で、天才厭世家さん。ここからどうするの」
「いいかい、リネット。今から僕が指差す方向に機首を向けて、そのまま時速五十キロメートルで、三三分間まっすぐ進む。そこでいったん浮上する」
「もう何でも指示してちょうだい」
リネットは、エリコの細かい指示に悪態をつきながら機首の向きを変え、きっちり時速五十キロメートルで海中を進んだ。
ほとんど深海魚の気分になりかけた頃、ようやく三三分が経過してキャノピーだけを水面に出すと、自殺志願者以外は海に出ようと考えないであろう嵐だった。
「うおっ」
リネットは、ふと左を向いて見えたものに驚いた。そこは小さな島だった。だが、きのう上陸した島と異なり、木々が生い茂っていた。狭いが浜辺もあり、揚がる事ができそうだった。
「よし、リネット。ここに上陸して、茂みの中に潜む。嵐がおさまったら、改めて状況を確認しよう。砂浜だとホバーの跡が残るから、なるべく草の生えてるところを揚がって」
「あんたって、工作員か何かで食っていけそうね」
褒めているのか呆れているのか、リネットは再び地面にあがれる事の喜びを覚えながら、ホバーを木々のあいだの茂みに隠して停止させた。
残りのエネルギーを確認し、貴重な食糧を少しずつエリコと分け合うと、だんだん生存すること自体への不安感が襲ってきた。なんとなく、木々の間に亡霊の影が見えるような錯覚にとらわれ、リネットは後部座席のエリコに呼びかけた。
「エリコ、いるよね」
「いるよ」
「良かった」
それは、軍人らしからぬ弱音ではあったが、同時に人間らしいともエリコは思った。
「リネット、交代で仮眠を取ろう。どのみち夜になれば、追っ手だって……」
その時だった。二人は思わず息をひそめ、海上を凝視した。嵐に遮られてはっきり見えなかったが、それは間違いなく、南パシフィック連邦海軍の高速艇だった。
「おいでなすったか」
エリコは、まるで待ってました、とでも言わんばかりに不敵に笑った。高速艇は目視でおよそ六〇〇メートルくらいの距離を、左手方向に横切っていった。
「危ない。もし潜航していなければ、今頃捕まっていたところだね」
「あなたを捜してるとは限らないかも」
「こんな嵐で、ずぶ濡れで高速艇を出すような奴、よほどのバカか、重大な任務を負ってる奴に違いないだろ」
そして、それがエリコのいる海域に現れた以上、『偶然』と片付けることはできない。それはすなわち、向こうがエリコ生存と逃亡の可能性を認識しているという事だった。
「やはり、矯正センター収容者のなかで、一人だけいない事を不自然に思われたんだ。当然だろうな、僕なら同じように考えるだろう」
「悠長にかまえてる場合? ここが見つかったら終わりよ。一隻とは限らないし、最高速度では明らかに負ける」
「うーん」
数秒間考えたあと、エリコは仕方なしに言った。
「やむを得ない。また潜って、夜中までやり過ごそう。夜のほうが動きやすい」
「本気で言ってるの?」
「僕は本気だよ、いつだって」
「私に告白したのも?」
一瞬の沈黙が訪れて、エリコは答えた。
「もちろん。だから今度デートしようよ」
「あなたはロマンティシズム、という概念を勉強するべきね」
切羽詰まった状況ではあったものの、ここまでくると二人とも肝が座ってきたのか、冗談を言い合いながら再び水の底に身を潜めた。今度は水深五メートルほどの所で、アンカーを打って機体を固定する。
「ベッドで寝たいわね」
ふと呟いたリネットに、エリコは無言だった。
「いま、変な意味に受け取ったでしょ」
「僕の事、なんだと思ってるのさ」
「頭の切れる、思春期真っ只中の偏屈な厭世家」
「後半は言わなくていいだろ!」
エリコの抗議に、リネットは笑い声で応えた。もう、このやり取りもだいぶ慣れてきた。いや、ひょっとしたら出会った時から、二人のコミュニケーションは変わっていないのかも知れない。もし、どこかに無事逃げる事ができたら、二人で穏やかな時間を過ごす事もあるのだろうか、とエリコは考えた。そんな時間が訪れてくれたら、今までの事も多少は報われるのだろうか。
だが、エリコは矯正センターで出会ったチャールズという友達を失ったし、まだ真相はわからないものの、得体の知れない理由で軍に追われていることもはっきりした。すでに帰る場所もない。リネットもシンシアと離れ離れになってしまったし、リネット自身の行動と、エリコに同行した事とによって、命運を共にする事になってしまった。逃げ場のない海中に、ちっぽけなホバーバイクでじっとしていると、地球上でいま頼れる存在がお互いだけだ、という事実が実体のない水圧となって、二人の心を圧していった。
だが、二人の心の距離が少しずつ近くなっている事も確かだった。それは不安の中にあって、ささやかな温かさをもたらした。




