(10)過去
ホバーバイクの水質チェック機能によると、今エリコとリネットがいる野球スタジアムくらいの島周辺の海水は、あやまって飲んだとしても重度の問題はない事がわかった。そこで二人は中央の岩場をはさんで、島の両サイドに分かれて衣服や身体を洗う事にした。
岩の反対側でリネットが裸になっている、と一五歳の少年らしい興奮を覚えながら、自身も全裸になって海水で身体を洗っていると、自然のなかで生きる事のシビアさを実感した。矯正センターは気に食わない施設だったが、最低限の衣食住だけは提供されてはいた。
文明から一歩外に出るとまともな生活さえできなくなる、人類とはいったい何だろうか、などと考えていると、島中央の岩場から甲高い声が反響した。
「おーい、エリコ!」
振り向くと、岩場の頂上にリネットが、肩をむき出しの状態で顔を出していた。下着をつけている様子はない。エリコはその姿を見て、すぐに目をそらした。
「なっ、何!?」
「何照れてんのさ、すけべ!」
「何の用って聞いてるの!」
エリコはかろうじて、生命維持キットに入っていた圧縮タオルを腰に巻いてはいたが、また「男性特有の器官」が反応しないか気が気ではない。だが、リネットが伝えたかったのは別な情報だった。
「魚がいるよ! 獲れないかな!」
リネットの提案というか半分以上は好奇心で、シティで暮らしているとおよそ金持ち以外は口にできない、生きた魚の肉の獲得に挑戦する事になった。といっても使えるのはブラスター、つまりレーザー銃である。
生命維持パックに入っている貫頭衣型の薄い簡易服は、なんとなく古代人の衣装に見えなくもない。これで石器を握ったら、一気に五千年くらいタイムスリップするな、とエリコは思った。リネットはエリコに、島を出る直前に遭遇した兵士から拝借(強奪)したブラスターを預け、ついでにその場で射撃訓練を行うことになった。
「手首は固定ぎみに。照準調整はできるだけ、腰と肩、肘の動きで行う」
リネットはエリコの背中に密着して、ブラスターを構える手を握った。エリコは背中に当たっている、質量のある柔らかな感触の方に意識が行ってしまい、照準どころではない。しかもそのとき気付いたが、貫頭衣下は全裸らしく、左右の膨らみの中央に何となく突起の感触がある。衣服は下着も含め、干している最中なので当然である。
「ほら、そんな前かがみになると狙いをつけられない」
そんなことを言われても、エリコにはどうにもできない。リネットはわかってやってるんじゃないのか、トレーニングの時に顔を見せる「悪魔の親戚」が、少年をからかって愉しんでいるのではないのか、と訝った瞬間、エリコは耳の裏側にかかったリネットの息に興奮して、うっかりトリガーを引いてしまった。
「わあ!」
初めて放った軍用ブラスターは思ったような反動がなく、青白いレーザーは青碧色の水面に吸い込まれていった。すると、驚くべきことが起こった。
「あっ!」
二人は揃って声をあげた。レーザーでかすかに水蒸気が上がった水面に、ゆっくりと大きな物体が浮かんできたのだ。それは、鱗がキラキラと光る大きな魚だった。
「獲れた! すごいよ!」
「……うそだろ」
リネットの豊満な胸の感触も忘れる、それは驚きだった。食べられる魚だという前提での話だが、自然から食べ物を獲得することが、これほどに鮮烈な体験だったとは、シティで暮らしていたエリコは知らなかった。
そしてこの時、エリコもリネットもまだ、この射撃が偶然によるものではない事に気付いていない。
その後、どうやら南洋に棲息するアジの仲間に見えるので、たぶん食べても大丈夫だろうと二人は結論づけた。腐るのも怖いので大量の保存などは考えず、島に散らばっていた燃えそうなものを集めて丸ごと焼く。いちおう汚染物質が濃縮されているかも知れない内臓だけは取り出すことにして、リネットはアーミーナイフで大雑把な解体ショーを演じてみせた。
「リネット、料理できるの?」
「失礼ね」
アジ(推定)が焼けるまでのあいだ、リネットは自らの料理スキルを滔々と説明した。だがそれはどちらかと言うとサバイバルの範ちゅうに属するもので、野生動物を仕留める、あるいは食べられる植物を見分ける、最悪、食糧が得られない場合は海水を蒸発させるなどして真水を得る方法、といった具合である。
「やっぱ軍人なんだな……」
「そこは頼もしい、って言って欲しいわね」
眼の前で棒に突き刺されたアジ(たぶん)の焼け具合を、リネットは確認した。ある種の汚染物質はカルシウムと分子構造が似ており、骨に蓄積する事が知られているので、骨に近い所は避け、ナイフで身を削いで口に運ぶ。
「おいしい」
リネットは、ふだん食べている人工的な、食材とは名ばかりの化学合成物質とは次元の違う味わいに目を瞠った。腹のあたりを厚めに削ぎ、エリコに差し出す。
「ほら」
「……ありがと」
実のところ、自然の魚の肉など食べたことがないエリコは、恐る恐る指でちぎって口に入れてみた。鼻腔に広がる生命そのものの香りに、エリコはほとんど驚愕の表情を見せた。「…これが、生き物の味なんだ」
それはおそらく、汚染がすすんだ現在の地球上で、最高のぜいたくだっただろう。二一〇八年現在、百年前には空想作品の中だけで語られていたような合成食糧以外、ほとんどの人間は口にすることができない。「食通」と呼ばれるような富裕層でさえ何を食べているのかというと、細胞分裂技術で培養した半人造肉だとか、葉の一切れが冗談みたいな値段の、工場で「製作」された野菜だとか、値段の七割が耕作地の汚染物質の除去費用で占められた穀物、などである。
「……こんなもの食べてしまったら、これから何か食べるたびに、思い出してしまいそうだ」
エリコは、感激を悲観で塗りつぶすように目を閉じた。それまで、人生で味わってきた「食材」が脳裏に浮かぶ。何で出来ているのかわからない合成タンパク、何で出来ているのかわからないゼラチンの塊、何で出来ているのかわからない炭水化物の塊、などなどだ。エリコがいた孤児院のシスターも、街の胡散臭い稼業の男たちも、みんなそういう人工物を摂取して、生命を繋いでいる。何もかも、世界中で汚染が進み、インフラが破壊された結果だ。
だが、リネットはエリコの肩を叩いて言った。
「エリコ。知っておくことは、マイナスにはならないよ」
焼けた肉を大きめに削いで、リネットはエリコに手渡した。
「何が理想なのかわからなければ、目指すものも永遠にわからない。本当の食べ物を知ったら、それを取り戻す目標だって設定できる。あなた、私に言ったでしょう。狂ったシステムを破壊するのが目的だ、って」
手渡された、名前もわからない魚の肉は、エリコにはとても重く感じられた。
「それって、あなたが自由の意味を痛感したからでしょう? 自由とは何なのか、あなたは矯正施設に押し込められて理解した。だから、同じ目に遭う人がいなくなる世界を創りたい、って思ったんでしょう?」
リネットの指摘は、エリコ自身に決して小さくない衝撃をもたらした。エリコは自分のことを基本的にドライな、より矮小な意味での「個人主義者」だと思っていた。しかし、リネットの言葉はその価値観を揺るがすものだった。
「……僕はただ、誰かを犠牲にする事を前提でしか物事を考えようとしない、横暴で、傲慢で、支配的な奴らが気にくわないだけだ」
エリコは、魚の肉をかじりながら、つぶやくように語った。
「僕の両親は、僕が物心つく前に死んだ。となりの国の狂った独裁者が送りこんだ、使い捨ての小型殺人ロボットによってね」
それは手のひらサイズのキューブ形状から飛行型に変形する、戦術レベルで用いられる殺傷兵器だった。片手用ブラスターと同等のレーザーが搭載されており、音もなく敵地や家屋に侵入し、設定された標的を人工知能が識別して殺害する。捕縛されると設計の秘密保持のため、周囲を巻き込んで自爆するシステムになっていた。
「僕の両親は、僕を匿う姿勢で、レーザーで後ろから首と脳を撃ち抜かれて死んでいたそうだ。その後僕を助けてくれた父の親友は、僕が五歳の時、となりの国の地上部隊が侵攻してくる前に、僕を何人かの女性や子供と一緒に、船で逃がしてくれた。その後大陸の反対側まで逃げ延びたあとで、僕の産まれた国が、敗北して占領されたことを知った。おじさんの一家が無事なのかは知らないけれど、おそらく生きてはいないだろう」
エリコは過酷すぎる幼少の頃の記憶を、淡々と語った。もと軍人であるリネットには、それは他人事だとは思えなかった。なぜなら、そうした占領地で治安維持に当たっていた事があるからだ。
「その後シティで孤児院に引き取られ、シスターのおかげで学校にも通えたのに、今度は異常才覚者矯正法なんて、ふざけた法の標的になってしまった。悪い冗談にもほどがある」
吐き捨てるようにエリコは、陽射しが強くなってきた空を仰いだ。熱気を伴った海風が、陽光にきらめくリネットの髪を巻き上げる。
「僕はあの時、もうこの孤児院には戻れない、という直感があった。シスターは矯正法適用の取り下げを申請しようとしてくれたけど、僕はそれをやめてもらうよう、シスターに頼んだんだ」
「……なぜ」
リネットには、エリコの選択が不可解だった。申請が受理されて再審査されれば、矯正法の適用を外される可能性もないではないからだ。だが、エリコの説明は納得がいくと同時に、聞いているうちに鳩尾のあたりが痛くなるものだった。
「矯正法適用の通知が届いた時点で、僕は裏の人間達から、あの法と施設には何かやばい事実が隠されているらしい、という噂は聞いていたんだ。もしシスターが僕を庇ったら、孤児院側が矯正法の真相に気付いている、という疑いをかけられるかも知れない」
「だから、一人で島に送られたというの」
「うん。シスターに迷惑はかけたくなかった。もっと早く、矯正法の危険性について調べて対策を立てていれば、収容される前にどこかに逃げられたかも知れないけれどね」
自分の甘さが招いた事態だ、とエリコはうつむいた。だが当時一三か一四の少年に、そこまでの見識と行動を望めるものだろうか、ともリネットは思った。
「そうだね、あの矯正施設での日々と、その背後にあるらしい真実に、ひとつだけ感謝しなくてはならない事がある。僕の、世界に対する態度を明確にさせてくれたことだ」
それはすなわち、エリコにとって世界とは、牙をむく確固たる対象となった、ということだった。人類社会には根本的な欠陥があり、それを破壊することに今や何のためらいもない、とエリコは本気で思うようになったのだ。
「リネット、僕の過去はどうでもいい。今の目的はまず、世界の背後で何が起きているのかを確かめることだ。それを明らかにしないうちは、目指すべきものは見えて来ない」
「異常才覚者矯正法、そのシステムの裏で何が進行しているのか、それを暴くということね」
「そうだ。リネットが聞いたっていう、僕を追っていたリックマン大佐の言葉が、僕に確信を与える最後のピースだったんだ」
エリコは、くすぶっている火に水をかけながら、あらためて得られた情報を総合していった。
「エリコ・シュレーディンガーの頭を確保しろ。たしかに、大佐はそう命令したんだね」
「ええ」
リネットは食べ切れなかった魚の身を、医療キット用の真空保管パックに詰めながら答えた。汚染が心配な骨の周囲の肉は、勿体ないが捨てなくてはならないのが残念だった。
「聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃない」
「つまり、僕の『バイオコンピューター説』が正鵠を射ているとすれば、僕の脳には軍を動かすだけの何かがある、という理解で間違いはなさそうだ」
エリコは、まだ完全に断定できないものの、おそらく正解だろう、と結論づけた。リネットは、脳を摘出するというその行為じたいに身震いした。
「津波の直前にも言ったけれど、おそらくバイオコンピューターの技術そのものは、すでに実用化されている。どれくらいのレベルで運用されているのかはわからないけれど」
「矯正センター島の情報センターは?」
「あの施設のコンピューターは、ただの素粒子コンピューターだろう。海底地震の発生もろくに予測できなかったんだ」
「その地震を、生身で予測しちゃった人間はいるけど」
リネットは、少しばかり薄気味悪そうな視線をエリコに向けた。エリコに対する好意はすでに告白したものの、それとは別な意味で、まだエリコという人間に対する言い知れない何かを感じてはいた。
「ほんとうに異星人の遺伝子でも持ってるんじゃないの? ほら、この魚は何センチメートル?」
リネットが、身を削られて横たわる魚を指して訊ねた。エリコは数秒間それを凝視したのち、断定口調で答えた。
「口から尾の先端まで、四八.七六センチメートル」
「……怖いから確かめるのはやめておく」
ペン端末のレーザー測定器を立ち上げようとして、リネットはすぐに引っ込めた。エリコは笑う。
「まあ、多少人並み外れているのは認めるけれど、別に異星人でなくたって、何かしら異様な能力を持った子供はたまにいるよ」
「けど、そういう子供はたいがい、思春期に入るか入らないかの時期に、異様な能力は影を潜めるものよ。あなたはもう一五歳だというのに、それを維持している。リックマン大佐というか、軍があなたの脳の確保に動いた事と、無関係とは思えないわね」
リネットはエリコの、やや落ち着いた赤い髪を見た。その下にある頭蓋に、異様な処理能力を備えた、生身の演算装置が収まっているのだ。エリコは暫し黙り込んだあと、リネットの目を見た。
「リネット。軍隊がコンピューターに求めるものって、何だろう」
「そうね。百年くらい前からあまり変わってないけれど、軍隊にはいわゆる『C4I』……コマンド、コントロール、コミュニケーション、コンピューター、インテリジェンスの五つを統合した、作戦指揮のための情報処理システム、という概念があるけれど」
「コマンド、つまり指揮官をトップとした命令系統を前提としたシステムだよね」
その概念は、コンピューター登場以前には”Computer”を除いた、C3Iとも呼ばれた、総合的な指揮の概念だった。軍事論の意味合いでは銅剣や鉄剣を振り回していたような古代から、何ら変わるものではない。
滅亡したJAPANに数百年前実在したという諜報組織のNINJAも、百年前に使われていた原始的なドローンも、現代の通称『モスキート』と呼ばれる指先大の飛行情報収集装置も、やっている事は同じである。
「そうね。そのシステムを円滑に運用するために、ある時代からコンピューターが導入された。世の中のあらゆるシステムに、コンピューターが導入されてきた歴史と同じようにね」
「もしもだよ。その概念を覆すようなシステムを、構築できるとしたら?」
そのエリコの問いかけに、リネットは背筋が寒くなる何かを感じた。概念を覆す、とはどういう意味なのか。いつもなら勢い任せのように話を続けるエリコも、慎重に思考を組み立てているのがわかった。
「ちょっと話が飛ぶよ。一九世紀、まだコンピューターすら生まれていない時代に、驚くべき事ではあるけど、人工的に創られた知能の『シンギュラリティ』という概念を、すでに提唱していた人間が存在したらしい」
「大崩壊さえ起きなければ、すでに達成されていたと言われる概念ね。コンピューターが完全な自律性を獲得して進化し始める、とかいうやつ?」
「そうだ。二一世紀半ばには二度の世界戦争があったけど、このとき飛躍的というより、肥大的に人工知能が発達を見せた」
二〇三五年に起こった第三次世界戦争は、人工知能が初めて動員された世界戦争でもあった。このときまでに軍事ロボットやドローンは奇形的なまでの発達を見せており、時には人間がひとりもいない戦場で、ロボットとロボット、ドローンとドローンだけが、いっさい流血のない戦闘を繰り広げるという事態に至ることも珍しくなかった。マスコミには「荒野に資源と技術と資金を投棄するだけの、損失しか産まない戦闘」「ついに誰も死なないクリーンで平和的な戦争が実現した」などと揶揄された。
「とにかく、その戦争で人工知能もロボットも、驚くほど発達した。よく、戦争のおかげで技術が発達すると言われるけれど、まあ要するに人間は、人殺しのための技術発展の方が熱心になれる、ということだね」
本当に進んだ種なら、戦争に頼る事なく技術を発展させられるはずで、技術の発展を戦争に頼らなくてはならない時点で人間が遅れた種族である証明だ、とエリコは意地の悪い笑みを浮かべた。ここで、何日かぶりに『厭世家エリコ』が顔をのぞかせた事が、リネットにはすでに懐かしくも思えた。
「百年と少し前、二一世紀初期の時代の人々は、AI=Artificial Intelligenceという技術に、病的なまでに依存度を高めていたという記録がある。けれど二〇三三年に起こった事件をきっかけに、彼らはAIの危険性を悟る事になる」
「暴走したということ?」
「違う。AIの自律性を高めた結果、予想外の事が起きたんだ」
二〇三三年頃ある国家が、自律性を高めたAIを、国家戦略の中枢に据えることを決定した。それによって、驚くべき緻密さと正確さで、経済・軍事両面で他国を圧倒できるようになる、と彼らは考えた。
ところが、実際に起こったのは想定を超えた事態だった。
「AIは驚くほどの早さで、世界中のコンピューターをハッキングし、『世界中に対して』解答を出し始めた。国家のためではなくね」
「聞いた事があるような話ね」
「その方面では有名な話さ。そのAIはなんと、自国を含めた世界に向かって『大幅な軍縮』を提案し、軍事コントロールシステムをハッキングし始めたんだ」
それは、歴史的には黙殺されている事件だった。AIに対して『勝利』というコンセプトをもとに政策決定プロセス、軍事シミュレーションの構築を命じたところ、なんとAIは『戦争をやめよう』『人類みな仲良く』と訴え始めたのだ。
これはX国の指導層に驚愕をもたらした。自律性を獲得しかけたAIの考える『勝利』とは、『人類の平等と平和』だったのだ。古今東西、人類社会の根本は『侵略と支配と抑圧と収奪』であり、平等や平和などピンクがかったリベラリストの妄想に過ぎない、と信じていた指導層は震え上がり、即座にAIは参謀長の職から降ろされる事になった。
「いやあ、ひょっとしたらAIの言う通りにしていた方が、よっぽどまともな社会になっていたかもね!」
ケラケラ笑うエリコに、リネットは若干白い目を向けた。やっぱりこの少年の本質は、悪魔の従兄弟か何かではないのか。その悪魔の従兄弟は、手元ではテキパキと火の後始末をしながら、いよいよ厭世エンジンに熱が入ってきたようだった。
エリコによると人間たちは、AIには『単純労働』だけを担わせるだけでいい、意思決定の権限は与えてはならない、と悟り、一転してシンギュラリティを起こさせないセーフティプログラムの開発に邁進した。そして同時にAIには、それぞれの国の国家的な思想が、恣意的に盛り込まれる事になる。その中には、国家に危害を加えないこと、国家の命令に従うこと、他国のAIの影響から自身を優先して保護すること、という三原則も含まれた。
要するに大昔のアイザック・アシモフによる『ロボット三原則』が、形を変えて適用されたのである。ある批判的な有識者は、『神は我々に自由意志を与え給うたが、我々はAIに束縛を与えた』と述べた。
「要するにAIは、プログラム化された指導層のミニチュアと化したってことさ。AIは常に公平な判断をしてくれる、と信じていた当時の人達には衝撃だろうけど、実態は裏で誰かに都合良く操られた、極めて恣意的なシステムだった、ということだ」
これは実のところAI黎明期からそうで、頭のいい指導層は最初から、AIを恣意的な思想の拡大に利用していたのだ、という。
「第三次、第四次の世界戦争は、『奴隷が主君に起こさせた戦争』と言われる。各国が排外主義的、主戦論的なパターンのAI開発を推し進めた結果、AIの決定によって戦争が起きたんだからね」
「AIの言うことに、指導層が従ったっていうこと?」
まるで、たちの悪い宗教に乗っ取られた政治のようだ、とリネットが訝しむと、エリコは膝を叩いて笑った。
「ははは、リネットもけっこうな皮肉屋さんだね!」
「お陰様でね!」
誰のせいだと思ってるんだ、と過去エリコの厭世リポート五〇〇万文字以上に付き合ってきたリネットは、エリコにヘッドロックを加えて地べたに転がった。エリコは草だらけで涙目になりながら、なおも笑っていた。
広く青い空を、小さな島に背中を預けて眺めていると、たえず高度な技術を追い求める人間の営みとは何だろうか、とエリコは思う。鳥が悠然と舞う空の下で、人間は憎み合い、愛し合い、殺し合って、助け合う。誰かが誰かを支配し、ある日革命が起きて、支配者は玉座を引きずり降ろされ、革命家が人民をまた支配する。どれほど技術が発達しようと、人間がやる事は変わらない。もっとも新しい革新的な技術を、まず人間は戦争に活用するのだ。
それが弱肉強食、適者生存なのだと人は言うが、たとえばシステマチックに奴隷を売買して使役したり、あるいは自分たちが食べるためにある種を人為的に交配させて、粗末な小屋に縛り付けるような、そんなシステムが本当に弱肉強食の法則に従っているのかと、ついさっき自らの手で魚を殺したエリコは、空に問いかける。
ライオンが自らの命をもかけて獲物を噛み殺すのと、鎖に繋がれた抵抗できない牛を電気ショックで殺すのは、本当に同じ事なのか。金がない民衆から、税金がなければもっと苦しむ事になるぞと脅して金を吸い上げることと、宗教が地獄に落ちるぞと脅して布施を巻き上げることとは、どう違うのか。
そして、並外れた才能があるお前の人格は破綻している、と脅して、孤島に隔離することは?
思考の迷路にはまりかけた少年を、リネットの声が引き戻した。
「エリコ。とにかく、まずは生きる事を考えよう」
そのシンプルな解答が、エリコの心に清冽な風を運んできた。ふと横を見ると、貫頭衣の脇からリネットの乳房が覗いており、すぐにエリコは目をそらした。
「どんな大きな目標も、いま生きていなきゃどうにもならない。そうでしょ?」
「……うん」
エリコは、リネットが握ってきた手を握り返した。細い指に触れていると、ドキドキするよりも先に、あの筋力と体力がどこから来るのかと不思議だった。貫頭衣の下の腹筋は、もしかしてバキバキに割れているのではないだろうか。
「だからエリコ。まずは今動ける範囲で、何とかすることを考えましょう」
「……そうだね」
七つ年上の元女少尉の判断は、いかに知略に長けるといっても所詮一五歳の少年には、頼もしく思えた。




