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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第一部
1/45

(1)エリコとリネット

プロローグ

 照り付ける太陽。一羽の鳥の影が、天高く輪を描いて舞っている。


 今日も同じ光景だ、とエリコは、大気由来二酸化炭素モールドのスコップを地面に突き立てたまま、茫漠たる空と木々が生い茂る丘を睨んだ。


 かつて、空は今よりも青かったという。百年以上前、二一世紀の風景写真に映る空は確かに、もう少し鮮やかに見えるけれど、当時のカメラが補正した結果かも知れない。エリコにとっては、今の空は十分に美しい。

 エリコの立つなだらかな丘の斜面には、柱状摂理で出来た六角の玄武岩が、規則的あるいは不規則に、積まれたり散らばったりしている。丘の頂上にピラミッド状に組まれた石は堅固なままだ。おそらく自然岩を積んで造られた、古代遺跡なのだろう。エリコの他に数名の少年達が、流れる汗に顔をしかめながら、ある者はスコップで、ある者は小さなシャベルで、埋もれた遺跡を掘り起こしていた。


 P7。それが、この島のコードだ。面積はエリコの推算だと少なくとも約一六平方キロメートル、もし細長い形をしていれば二〇から二五平方キロメートルはあると思われる。日の出と日の入りの太陽の位置、星座の配置および気候からして、島の緯度は北緯五度から十度、経度はちょっと難しいが、ざっくり東経一八〇度くらいだろうか。

 よく、発狂しないものだ―― エリコは、自嘲ぎみに思った。遺跡発掘と、内容もない座学に明け暮れる毎日。発掘といえば聞こえはいいが、やっている事はただ土を掘り返す事と、出て来た土器や加工品などに、タグをつけて分類する作業だ。


 先日、エリコと同じグループのチャールズは、作業中に心肺停止で倒れてどこかに運ばれて行った。その後どうなったのかは知らされていない。言語能力に秀でており、一六歳で七カ国語をマスターしていた。冗長なことこの上ない、ひとつの情報を伝えるのに三ダースの用語を持ち出すような男だったが、少なくとも退屈はしなかったし、いい奴だった。今、どうしているのだろう。

 エリコにとってこの小規模な石組みは、さほど心惹かれるものでもない。どうせならエジプトの、ギザの大ピラミッドでもじかに調査してみたい、と思う。数字が好きなエリコにとって、四歳の時、初めて写真で見た大ピラミッドは衝撃だった。ひと目で、これは異常な構造物だと理解した。数百年前から考古学者達が述べている定説は全て、そう、全て間違いだ。あれは数学と天文学の知識がない者には解けないし、設計した女性はそのように仕向けたのだ。


 この島を出て、いつかエジプトに行き大ピラミッドをこの目で見ることをエリコは想像した。行きたい場所を思い描いていると、今こうして無為な作業を強いられることが、なおさら苦痛に思える。こんな事が、何になるというのか。

 そんなことを考えていると、ふと地面がかすかに揺れたような気がして、エリコは手を止めて片膝をついた。地面と、遺跡の石組みを観察する。一部の石組みは土砂とともに崩れて斜面に流されているが、上部の石組みは堅固だった。

 ついでエリコは、斜面から遠くの水平線を見た。不気味なほど青く広い海の向こうに、かつてエリコが住んでいた街がある。


「ナンバー331、作業が停止しています。休憩時間は三二分後です。身体機能もしくは使用器具に問題がありますか?」

 右斜め後方に直立する、奇妙に生物的なデザインが気色悪い監視ロボットから、意図的に無機質に調整されている女性の合成音声が聴こえた。エリコは苦笑いで答える。

「僕に問題はないよ。けれど、人類文明は一度、医者に診てもらう方がいいかもね。なんならいい心療内科を紹介してあげるけど」

「警告します。秩序に対する皮肉とみられる暗喩表現が確認されました。言語に悪意を含めることは、秩序を乱すだけでなく、あなた自身の心身に悪影響を及ぼす可能性があります。同様の言動が繰り返される場合、レベル4異常才覚者矯正施設への移送が検討されます」

 矯正施設管理センターの人工知能中枢と直結したプログラムが、瞬時にエリコの発言を分析し、そこに含まれた皮肉を解析した。センターのロボット制御担当は安全で快適な部屋で、監視ロボットの制御だけを担当しており、発言内容の判断すらシステム任せだった。


 異常才覚者矯正施設。


 一六年前、西暦二〇九二年に世界の数カ国で同時に施行された「異常才覚者矯正法」と呼ばれる新法に基づいて、エリコ・シュレーディンガー少年は一年前、十四歳でこの島に隔離された。

 遠因は西暦二〇七一年まで遡る。二一〇八年現在すでに一部を除いて存在しない、かつて「JAPAN」と呼ばれた地域を中心として、世界に張り巡らされたエネルギーグリッドを通じた世界的な「大崩壊」が起こった。肥大化した地球各地の人工知能センターが電力供給を逼迫させた結果、JAPAN北部の島に設置された疑似ブラックホール発電試験施設の制御システムに深刻なバグが発生し、人工ブラックホールが台風のように巨大化して暴走を開始したのがその発端だった。


 JAPANの試験施設で起こった異常は、情報とエネルギーを同時に伝送できるエネルギーグリッドを介して、他の地域の疑似ブラックホール発電試験施設にまで波及してしまう。このバグの挙動は事実上のウイルスであるとされた。特に大規模だったイルクーツク、青海省、カザフスタン、トルコ、リビア、アリゾナ等の施設で制御を失った人工ブラックホールは、あらゆる事象を飲み込む負の暴風となって、地球上を這い回った。


 人工ブラックホールは宇宙に存在するブラックホールほどの完全性は持たなかったが、自然や都市を壊滅させるには十分すぎるほどであり、破壊することもできない戦略兵器として地球各地を侵食し、気候変動や地震、津波さえ発生させた。なおかつオゾン層、電離層の消失、剥離といった現象まで引き起こし、それが原因で現在も大気圏上空では電磁気の異常がみられ、高高度での航空機の運用は制限されていた。

 JAPANでは国土の八八パーセントが崩壊状態に陥り、一億一千万の国民が死亡し、さらに何十年も貯蔵されていた核燃料の廃棄物が国土中に露出してばら撒かれた結果、人間が立ち入る事はできない魔の汚染列島と化してしまう。JAPANの歴史はこのとき幕を閉じた。


 不完全だった人工ブラックホールは七日間ほどで消滅を迎えたが、その過程で大量の土砂と瓦礫が、世界中の空と海に撒き散らされた。大気は塵芥に覆われて太陽光線を遮り、その後二〇年以上、地球の平均気温は約六℃低下することになる。

 その結果、何十年も地球の頭痛の種だった人口増加問題は、皮肉かつ最悪の解決を見た。当時一〇三億の世界人口は、四六億まで減少したのだ。そのかわり生物が住める土地も四三パーセントが失われ、さらに世界各地に貯蔵されていた放射性廃棄物が、回収不可能な汚染源として世界中の海にばら撒かれた。一連の出来事に対して後の人類は、「大崩壊」という創造性に欠ける呼称を与えた。


 世界の人々は、この難局に手を取り合って立ち向かった……と言えるならば、精神的な側面においては、雀の涙の半分くらいは救いがあったかも知れない。しかし実際に起こったのは残された居住可能地をめぐる戦争と、互いに大崩壊の原因を押し付け、罵り合う論争だった。大崩壊に先立つこと数十年前、二〇三五年に第三次、二〇四八年に第四次の世界戦争を経て多大な犠牲を払っておきながら、人類が争いを捨てる事はなかったのだった。


 なぜこんな事になったのか。人類文明は、科学技術はその頂点に達したのではなかったか。人間たちは議論という名の責任転嫁に明け暮れ、ひとつの結論に辿り着いた。崩壊を招いたのは権力や資本主義の暴走でも、それを支持する馬鹿な大衆でも、不寛容な独裁政治でも、不完全な民主主義でもない。「天才」と呼ばれる人間達が、世界を崩壊に導いた原因だというのだ。


 天才と呼ばれる人間は、その能力と引き換えに正常な人格が欠落しており、彼らに発言権を与える事が世界の破滅を招く、という理論が、有象無象の学者達や評論家によって提唱され、驚くべき事ではあるが、政治と大衆はそれを支持した。彼らにとって「責任」とは、つねに自分以外の誰かが背負うべきものだったからである。


 かくして、「天才性」と「人格の欠落」が同居した人間を規定する国際的な定義と、それを判別する学術的、医学的なシステムと法律が整備され、世界は「真の秩序への記念すべき第一歩」を踏み出したらしかった。そして、とくに矯正が必要なのは若者であるとされ、より若いうちから矯正するため、一〇歳以上一五歳以下の人間は全て、教育機関で人格の判定が義務化された。ただし、富裕層の子供はこの判定の対象とはならなかった。


 新しい法律に基づいた判定によると、エリコは計算能力、空間および時間認識能力が異常なレベルに発達している一方で、九歳の頃から政治システムへの年齢にそぐわない批判的な発言を繰り返すといった、将来的に秩序を乱しかねない性向が認められた。

 そこでエリコは人工知能の分類と管理機構の決定に拠り、高度な才覚と危険思想を同時に持つ人間を、普遍的な人間に「戻す」ための隔離施設、「異常才覚者矯正施設」に収容されたのだ。


 この事態をエリコは予測できた筈だったが、精神的な未熟さゆえに知性よりも、反体制的な性格が勝ってしまったことが災いした。隔離が決定されたとき、エリコは当然不満にも不快にも思ったが、不思議だとも思わなかった。もともと戦災孤児で誰とも関わりはないし、学校ではエリコの話について来れる生徒がひとりもいなかったせいで友人もおらず、別離を惜しむ何者もいなかった。唯一、世話をしてくれた孤児院やシスターとの別離と、人工的ではあるが、とりあえず大気や水質汚染からは護られている都市を離れる残念さはあったが、ともかくもエリコは、どうやら同じような境遇となった少年達が押し込められている、この孤島に送られた。


エリコの方舟  【第一部】


 孤島に不似合いな洗練された人工的な矯正センターには、エリコと同じように収容された少年少女が、現在は六五人ばかりいるらしい。グループが分けられており、矯正プログラムも異なるので、グループ以外のほとんどの収容者との交流はない。

 エリコのグループが遺跡発掘をさせられているのは、単純労働をグループで行う事により、自我を押し殺して人格のバランスを矯正するためだという。その理論が正しいのかどうかはわからない。他のグループもそれぞれ、汚染環境下での食糧生産試験だとか、産業用機器の生産だとかに従事しているらしい。センター内の清掃員も、エリコと同じような少年少女だ。みんな死んだような目をしている。

 意味があるのかないのか不明な作業を終えたあと、センターに戻って「普遍的思考」という科目の座学が終わると、昼食をとりに食堂に向かう前にエリコは、ひとりの女性教官から呼び出しを受けた。


「警告はこれで一六ポイント」

 まだ若い、薄いグリーンの瞳の女性はため息をついて、やや落ち着いた金色のストレートヘアを撫でた。エリコと他数名のグループの担当教官だ。

「なぜ、警告を受けるような発言をするの? 他の生徒は、あなたのように不用意な事は言わないわ」

「言わないだけで、同じ事を考えてるかもね。十八年前に実用化されたバイオコンピューターも、さすがにまだ人間の思考を読み取る事はできない」

 エリコの返答に、女性教官は一瞬ぎょっとしたようだった。バイオコンピューターとは、人工培養した菌類による疑似生体脳を素粒子演算ユニットに組み合わせた、素粒子コンピューターを超える超高速コンピューターのことである。教官は皮肉には取り合わず、ひとつ咳払いして紙の書類を突き出した。そこには、見覚えのある文章が印刷されていた。

「歴史の座学で提出された、あなたのレポートを読んだわ」

 眉間にしわを寄せながら、教官はエリコが三日で書いた、二七万文字におよぶ「世界システムへの矯正」と題されたレポートの抜粋を読み上げる。


 ――人類文明はその時代ごとに価値観を変化させてきたかのように見えるが、実のところ古代から現代に至るまで、その本質はほとんど変わっていない。人類は常に、理念を建前に不合理を行う。彼らいわく、生物の法則は弱肉強食、適者生存であり、強い者が弱い者を虐げるのは自然の法則に則ったものだ、という。自分が虐げられる側に回ると、突如として人権を唱え始めるのは不思議ではある。

〈中略〉

 これは神が望まれた戦いだ、と唱えて隣国に無差別殺人ロボットを送り込むのと、これは民主主義のため、あるいは人民の解放のため、共栄圏の構築のための戦いだと唱えて侵略部隊を送り込むのと、どれほどの違いがあるだろう? 宗教も政治理念も、どちらも侵略の建前として絶好のツールだ。彼らが欲しいものは領土や安全保障や資源であり、理念でも正義でも神の真実でもない。清濁併せ呑む、と劣化した都合の良いマキャヴェリズムを共産主義者の赤い手帳のように掲げておけば、どんな汚い政治も許されると彼らは考えているし、大衆も結局はそれを支持する。

〈中略〉

 いっそ、私は悪の魔王だと宣言してしまう方が潔いではないか。正義の題目を唱えない侵略や圧政など、寡聞にして筆者は知らない。世界など、侵略、支配、収奪、抑圧、腐敗という汚濁の表面を、理念や信仰という名の偽善の薄膜が覆っているだけだ。

〈中略〉

 矯正が必要なのは人類という種そのものだ。過去二百年間で、人間の活動が原因で絶滅した生物種は、確認されているだけで五二二七種におよぶ。百年前の政治や産業界は、二十四時間休みなくエネルギーを燃やして、地球に悪影響など与えていないと言い張った。科学者の知識と良心は、利益と権力欲に駆逐され、民衆も結局はそれを支持した。

 大崩壊を生き残った人類は、なぜ科学者たちの警告に耳を貸さなかったのか、と互いを指差して罵りあった。その指が自分自身に向けられる事はついになかったのだ。


 ――そこまで読んで教官は、マリアナ海溝の次くらいに深いため息をついて目を伏せた。

「どうも、あなたにとって人間という生き物は、生物の進化史上最悪の種、という事のようね」

「それは過小評価です。宇宙開闢以来ですよ。よその銀河系の高度知的生命体はたぶん、驚愕の目で観察してるでしょうね。毎日ニュースで報道されるんです。ドキュメンタリー番組もあるかも知れない。【五千年経ってもまだ戦争をやめられない、驚きの生態】【政治思想と宗教が同じである事に、いつ彼らは気付くだろうか】【白いボールをより高く木の棒で飛ばした者、車輪のついた原始的な移動機械を一番先にゴールさせた者が、世界で一〇〇人の奇病を治癒すべく奮闘する医学者の、数千倍の報酬を得る社会】【我々は彼らを導くべきか否か】とかね」

 エリコのスピーチは、汚染された大気から回収した、特殊炭素素材で造られたテーブルを叩く教官の両手で遮られた。

「宇宙開闢以来の厭世家の論説はもう結構。あなたに矯正が必要な事はよくわかりました」

 教官がまとめてファイルに戻す紙を、エリコは楽しげに見た。

「その紙のサイズが規定されたの、知ってますか。西暦一九三二年のドイツです。A4サイズは210かける297ミリ、1対ルート2の比率。紀元前二世紀に発明された紙と、一七〇年近く前の規格を、まだ人類は使ってるわけだ」

 教官がすごい形相でジロリと睨んだのを、エリコは赤毛の髪をかきあげて笑った。

「怒ると、せっかくの美人が台無しだよ、リネット先生。それじゃデートに誘おうとは思わない」

「いい加減にしなさい!」

 細く白い面を紅潮させて、リネットは怒鳴った。

 そのとき、かすかに床が揺れたように、リネットは感じた。一瞬、怪訝そうに床や天井を見回すと、ひとつ咳払いしてエリコに向き直る。

「とにかく。あと四ポイントで、あなたは会議にかけられる事になる。シティに帰れる事を望んでいるのなら、きちんと矯正プログラムに従うことね」

「ふうん」

 エリコの、それまでの饒舌さが鳴りを潜めた簡素な返事に、リネットは肩をすくめた。すると、今度はエリコが訊ねた。

「矯正、矯正っていうけど。先生たちは、僕の何がどう矯正されればいいと思ってるの?」

 その問いに、リネットは一瞬たじろぐように沈黙した。

「……それは、矯正プログラムに沿って、あなたの突飛な思考が普遍的なものに矯正されることよ。他者への共感が大切だと、学習課程で習ったでしょう?」

「つまり、全人類が等しくあるべきだ、と先生は考えてるわけだ」

「私じゃない。世界がそう決めたの」

「世界って何?」

 エリコの目に、さきほどまでの微笑はなかった。エリコの透き通った金色の瞳は、リネットの瞳をまっすぐ捉えていた。答える事ができないリネットに、エリコは別な質問を重ねてきた。

「先生、もし二、三日以内に、この島を大津波が襲うとしたら、どうする?」

「えっ?」

 エリコの発言はことごとく突飛で唐突だった。ある意味で慣れっこのリネット教官は、またか、という顔で肩をすくめた。

「センターの防災システムは完璧。波が引くまで、地下シェルターにいるでしょうね」

「その、防災システムが完璧だという保証は?」

 エリコの表情に、皮肉の色はない。あまりにも真に迫っていたため、リネットは僅かに気圧されつつ、平静を保って答えた。

「百年前の建造物ならいざ知らず、現代の強化建材や建築構造は、津波や地震に対する心配はない。これは世界共通の見解よ」

「あの大崩壊の時だって、世界の科学者達はそう言い張っていたんだ。けれど実際は人工ブラックホールによって引き起こされた地震や津波が、当時の文明にとどめを刺した」

 エリコは、リネットの目を見据えて言った。

「こんな建物の中で死ぬくらいなら、せめて自然の中で死にたい。ねえ先生、海が見える所で、僕をレーザー銃で撃ち抜いてよ」

「エリコ!」

 リネットは、叫ぶようにエリコの手を握った。

「死にたいなんて言ってはいけない」

「なぜ? 死んだほうがマシだ。こんな、わけのわからない施設に押し込められて、自分を否定されて、発狂しないと考える奴の方が、よほど狂ってる」

 エリコの目が、はっきりとした熱を帯びるのをリネットは見た。

「ねえ先生。チャールズはどうしたの?」

 その、低い声の問いに、リネットの表情が重く沈むのをエリコは見た。わずかに、困惑の様子も見える。

「…彼は、心身に失調をきたして別な施設に移送された、と説明されたはずよ」

「その施設って、何の施設? 感染症の隔離施設だって、養豚所だって、公衆トイレだって施設だよ」

 畳みかける問いに、リネットの困惑の色は濃くなっていった。下唇をわずかに噛んでいる。エリコは、また皮肉めいた表情に戻って訊ねた。

「臓器売買のバイヤーに買い取られて、解体されたって事はないよね。若い人間の内臓は高く売れそうだ。百年以上前、そういう内容の映画が――」

 言い終わるか終わらないかのうちに、エリコの左頬に火花が散った。目を開けると、振り上げた手を震わせるリネットの険しい目が映った。

「体罰は国際条約で禁止だよ」

 エリコが涼しい顔でそう言うのと同時に、指導室のドアが開いて警備ロボットが二体現れ、リネットを後ろ手に拘束した。だが、視線はエリコを向いたままだった。

「なぜ、そんな残酷な事を考えられるの? あなた、狂ってるわ」

「狂ってる? 世界のシステムの方が、千倍狂ってると僕は思うけど」

「そこまでだ」

 開いているドアの奥から、白髪をなでつけた老齢の男性が現れると、リネットを拘束しているロボットに握った左手を向けた。手の甲の下に埋められた薄膜端末から命令が送られ、ロボットはリネットの拘束を解除すると、指導室を出ていった。

「リネット・アンドルー少尉、体罰を確認した。教員が不足している点を考慮し、今回は私の裁量で訓告に留めるが、続くようなら懲罰房が待っているものと思って欲しい」

 白髪の男性は、しわの入った謹厳そうな顔をリネットに向けた。リネットは直立して頭を下げる。

「…申し訳ありません、大佐。冷静さを欠きました」

「まあいい。今回に関しては、その冷静さを欠いた原因がいるようだからな」

 白髪の男性は、平然と立っているエリコをジロリと睨んだ。

「管理ナンバー331エリコ・シュレーディンガー、君のレポートは我々も確認したが、非常に排他的かつ偏向した思考の持ち主のようだ。今回の件でさらにペナルティポイントは追加される。何か反論はあるかね」

 叩き上げの大佐リックマンは、有無を言わせないという様子で迫った。リネットが、余計な事を言うな、と視線をエリコに投げかける。エリコは言った。

「慈善活動を引き受けてもよろしいですか」

 謝罪するでもないその申し出に、大佐は一瞬面食らいながらも答えた。

「なるほど、あれこれ言い訳するのは面倒というわけか。いいだろう、ペナルティポイント解消のための慈善活動を課す。アンドルー少尉、手続きをしてやるといい」

 それだけ言うと、広い肩をいからせてリックマン大佐は指導室を出て行った。


「さっきはごめんなさい」

 まず謝罪するリネットに、エリコは少しだけ申し訳なさそうに答えた。

「僕もチャールズの事で、熱くなりすぎた。ごめん」

「あなたが根は優しいってことは知ってるわ。痛む?」

 リネットは、エリコの左頬に手を添える。エリコは笑った。

「リネット先生なら、いいよ」

「…どういう意味」

 怪訝そうにため息を吐きながら、リネットは胸ポケットからペン型端末を引き抜くと、端末側面からホログラムスクリーンを展開させた。慈善活動の申請フォームを開くと、エリコにそれを見せる。

「慈善活動は施設内外の環境整備、清掃、設備メンテナンス補助作業から選べるけれど」

「一番楽なのは?」

「どれも同じよ。そう調整してある」

 意地悪くリネットが笑うと、エリコも一緒に笑って答えた。

「なら、外の環境整備にするよ」

「わかった。除草作業を申請しておくわね」

 必要な情報をインプットすると、「承諾」の欄にエリコの指紋をスキャンさせて、申請は完了した。エリコは、時間が押して昼食も面倒になり、食堂からランチのパックを受け取ると自室に戻っていった。

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