虫かごの中の虚構
「今日から一週間ペットを預かってほしくて」
2年ぶりに会った友人は、割り勘分のお金を電子マネーで渡している時にそう言った。残り少しの水が入ったコップに水滴がついていて、手がぬれてしまったのでおしぼりで拭きながら問いかける。
「ペットなんて飼ってた?」
「去年から」
「……まあ暇だからいいけど。なんのペット?」
なんとも急な話だ。準備とか色々あるし、予定があったらどうするつもりだったのか、とは思うところがあるけれど。喜んで笑顔を見せる友人を見ていたらその言葉は言えなかった。
はあ、とため息をついて仕方ないなと友人を見る。自分は大概この友人に甘い。
人好きのする笑顔で友人は言った。
「天使」
空気が重いと感じるほどの蒸し暑さだった。クーラーで冷やされた店から出たことで曇ったメガネを外して、服で拭いた。友人のアパートまで徒歩10分。通り雨でも降ったのか、アスファルトから雨特有のにおいがした。
初めて訪れる友人の家にあがりこむと、友人はそこでだらだらしといてとソファを指さした。その後奥の部屋から出てこない。エアコンをかけっぱなしの部屋にいても暑さが体に張り付いている気がして、耐えきれずバッグからハンディファンを取り出した。外を歩いている時よりも室内のソファに座っている今の方が暑い気がするのは何故だろう。とっくにぬるくなったペットボトルのお茶を一気飲みした。
ここまで来る間、天使ってなんなんだと聞いてもはぐらかされ続けたので、何が出てくるかと待ち遠しい。
──天使と言うぐらい可愛いということだろうか?
猫?それとも犬?鳥かもしれない。にしては何の鳴き声も聞こえないし、哺乳類では無い?いや、ハムスターとかならあまり鳴かないか。他には、トカゲとかの爬虫類?あるいは両生類?案外、蜘蛛とかかもしれない。金魚とかメダカとか……は確か1週間くらいなら絶食可能だから違うか。
飼ったことのない動物だと不安だなと思いながらも、そわそわしてしまう。自分は自他ともに認める動物好きである。当然のごとく友人もそれを知っていて、だからこそ白羽の矢が立ったのだろう。
持ち帰るものもあるだろうし、早めに何の動物か知りたいものだ。ペットタクシーは事前予約が必要だから、普通のタクシーの方に電話で問い合わせないと。持ち物が多いなら一旦帰ってまた車で来よう。
10分くらいして、友人は戻ってきた。
「ああごめん、ちょっと怒られて」
「あー、うちの犬も遅くなると怒るしあるあるだよ」
「いや、他人が嫌だって言っててさ…」
やけにはっきりとした意思だなと、不思議に思ったのも束の間。机に置かれたものを何だこれはと見て、それからそれをペットと紹介され絶句する。
「毎日3食なんでもいいから置いとけばいいから、じゃあお願い!好き嫌いないから大丈夫!」
「いや、これ……なに?」
「だから天使だって」
真っ黒な透明な箱だった。端の方でランプがちかちかと光っているかと思いきや、何かの粉が光を反射させながら箱の内側の底で光っているようだった。それ以外には何も入っていない。───友人は、怪しい宗教にでも引っかかってしまったのか。
「うーん、なんだかなあ…」
それもよこせというような目で見てくる犬をわしゃわしゃ撫でながら、とりあえず犬のおやつを透明な箱の上に置いてみる。引き受けてしまったことを後悔しても今更どうしようもない。なぜならもう友人は日本にはいないからだ。
あの後、早々に明日海外だからと箱を持たされ追い出された。海外とは聞いていない。どこの国なのかとメッセージを送ってみたが既読はつかない。あまりにも説明不足だと思いながら、そのままよく分からない箱を家に持って帰った。タクシーは当然呼ばなかった。普通に電車に乗った。
もう3日が経った。
「勧誘されなかっただけマシか……いや、これも勧誘の1部なのか?」
これは怪しい宗教か占いの類だろうかと、胡散臭い箱を眺める。
毎日3食。その約束を破るのはなんだか怖かったので、自分で言うのもあれだが律儀に、何かを置いておく。今回は犬のおやつを置いてみた。前回はご飯を茶碗に盛り付けてみた。
次の食事の時間が来たらそのままの食べ物をどかして新しいものを置く。何を置いてみたところで箱に変わった感じはない。最初こそ怖さと興味と好奇心があったものの、友人と同じように3日も梨の礫なので飽きてしまった。まったく、これではただ食べ物を無駄にしているとしか
ーーーーー
「ごめん」
───文字を打ち込んでいた手を止めて、通知を眺めた。メッセージアプリは開かない。
今は日にちが変わった1時46分。自室に置いてある水槽では、ネオンテトラが群れて泳いでいる。家族はもうみんな寝ている時間。ベッド傍の明かりだけでは目が痛くなるから、部屋の電気を完全につけている。シャッターを下ろしてない窓の外は黒色のグラデーション。
壁を挟んだ向こうにいる両親が起きてきて、私の部屋の電気がついていることに気づいたら一発アウトだ。さらにスマホを触っている所を見つかれば没収は免れない、と思いながらも続きを待つ。眠る気はさらさらなかった。ぐるぐると回る椅子に乗りながら回転する。ロック画面を見続ける。
「明日行けなくなった」
───3文字のメッセージの時点で、そう言われることはなんとなく分かっていた。ああやっぱりかという気持ちと薄らぼんやりとした悲しみや怒りが、膜のように私を包む。
久しぶりに会えるはずだった。今年の夏を逃せば、私たちはどちらも受験生になる。そうなればまた1年は会えないだろうし、それから先も忙しいことは分かりきっている、のに。
いやそんなことは、たしかに重要だけど、そうじゃない。私はただ久しぶりに会いたかった。明日を1週間前からずっと楽しみにしていた。明日のために新しい服を買ったし、どこに遊びに行くかも悩んで悩んで決めた。
何度か息をする。部屋の中は慣れきったせいか何の匂いもしない。さっきまで耳に入ってこなかった壁掛け時計の音が、水槽のフィルターから流れ出る水の音と混じった。
「そっか残念!またいつか会おうね!」
その後ごめんと送られたスタンブに、虚しさがこみあげた。
メッセージアプリから小説を書くアプリに戻したはいいものの、手元の文字列をぼうっと眺めるだけで進まない。書いている途中の物語は、あまりに適当なところのままだ。せめて、最後の文章だけでも、と思うが手はキーボードの上を動かない。なんだか頭がずきんと痛い。期待していた気持ちや楽しみという気持ちが、軒並みぷつんと切れてしまって、何もかもがどうでもいいような気さえしてくる。
ここからどうするんだっけ、天使は……。ああ、そうだ。
───私は、天使を見ている。
だから書き始めたのだ。大人になる前に。
幼いあの頃の彼女は、ごっこ遊びに混ざらず、かといっておにごっこに混ざるわけでもない、孤高の女王だった。異質で一人輝く彼女は、人を近づかせない圧倒的なオーラを纏っていた。
ずっと彼女のことを苦手と避けていたが、どうしてだったか、誰も他にいない時に隣り合わせでブランコに乗った。
「ねえ、ナイショの話なんだけど、ドラゴンって分かる?分かるよね?」
「うん、分かるよ」
「出るんだ」
「でる?」
「あそこの神社で、ドラゴンが出るんだ。一緒に行こうよ」
私は渋ったけれど、その日予定が何も無いことを知られていたので、ついていくことになった。彼女に一方的に話しかけられながら目的地を目指す道中は、果てしなく長く感じられた。
驚いたことに、本当にそこでドラゴンに会った。どこの神社だったのか?それは全くもって思い出せないし、思い出そうとすると頭が痛くなるけれど。
私は、感動とかよりも先に恐怖を覚えた。動物園で見た象くらいの大きさで、足で踏まれたらぷちっと潰れてしまうと思ったからだ。これで子供だと彼女が言うのを信じられなかった。ドラゴンはしっぽで器用に2つのまんじゅうを持ってきて、彼女はそれを平然と受け取った。私は彼女の後ろで猛獣に怯えていた。ん、と差し出されたものに首を振った。
「ごめん、ちょっと、お腹すいてないかも」
「え、なんで?食べてよ」
「ご、ごめん…」
つまらなさそうな、当ての外れた顔は今でもはっきりと思い出せる。じゃあ一口だけでも食べてよ、と言われて仕方なく食べたそれは泥の味でじゃりじゃりとしていたので吐いた。
彼女は一口も食べなかった。
「なんで食べなかったの!」
そう吐き捨てるように言われたけれど、自分も食べなかったくせにとは言えなかった。でもおかげでもう遊ぶことはないか、と思いほっとしたのは、束の間だった。翌日からずっと連れ回された。
それから、ファンタジーとの邂逅に怯えつつも、1年ぐらい経つと次第に楽しくなっていった。絵本で見て憧れた生き物たち。それが目の前にいたら、誰だっていつかは楽しまずにはいられない。
それと同時に、あれを全て食べていればよかったのにという思いがどんどん強くなっていった。
彼女が言うには、あれを食べなかったせいで、大人になったら出会った架空の生物たちのことを全て忘れてしまうらしい。あれを私か彼女かどちらかのみ残せば、残した方が恨まれるらしいので、彼女も食べられなかったと言っていた。
歳を重ねるにつれて、だんだんと、彼女とは疎遠になっていった。最初は忘れない方法をお互いに考えあったけれど、運任せのものしか思いつかなかった。だんだん、彼女は怒りを滲ませるようになっていったと思う。元々は、私が食べなかったせいだから。
それからは次第に距離を置かれるようになっていった。今回会う予定も、きっと断られるだろうなとは、思っていた。浮かんでしまった涙をふく。
だからこそ私は書くしかないのだ。運任せの、忘れない方法として、書くことを選んだのだから。
大人、というのが成人のことを言うのなら、もう猶予は全然ない。
私はどうしても忘れたくない。
エアコン直下で肌寒いほどだ。それでも心臓はばくばくと痛いぐらいに熱く震えている。
机の上の虫かご、その中で鱗粉を散らしながら羽ばたく美しい天使を眺めながら、手元の文字が増え始める。
お前たちを、書き残してやる。
いつか、昔は物語をよく書いていたなと思い出すその日のために。虚構でいつかの私に虚構を思い出させてやる。
私はただ、彼女との記憶を忘れないでいたい。彼女の友人でありたい。
ーーーーー
───思えない。
4日目になった。ようやく、友人が電話に出た。
「これってさ、何かの宗教?天使ってなんなのマジで」
「天使は天使だって!」
「はあ?」
「あ、ごめんそろそろ出かける時間だ、じゃまた!」
切られてしまった。会話時間30秒足らず。自分が友人に甘すぎるせいだ、一度怒ったほうがいいな、という反省をしながら今日も3食きちんと置く。そしてそれを何も変わらず廃棄するだけ。黒色の透明な箱をじっと見る。
何かに似てるような気がする──幼少期に見た覚えのある何か──あとちょっとで思い出せそうなんだけど──あ。虫かごだ!そうだ虫かごに似ている!フタの部分がないから分かりにくいけれど、遠目で眺めると虫かごに見える!
「……いや、だからなんだっていうんだ」
同調するようにわんっと愛犬が吠えた。
5日目。何も変わらない。
友人からマッターホルンの写真と、チーズフォンデュの写真が送られていたので、透明な箱の写真を送り返す。「可愛い!」と即レス。正気か。あといつもそれぐらい早く返事をしてほしい。
6日目。何も変わらない。
「明日で終わりか…」
結局、これは何だったんだろう。何のために3食用意したんだろう。何かの暗号で、何かメッセージが残されているとかだったら面白いのに。これではもやもやが残る。何か──何かあると信じたい。だってこれでは不完全燃焼だ。過去に関係するとか、何か、何かないだろうか。
「おかけになった電話番号は──」
この一週間で1年分くらい聞いたメッセージを最後まで聞かないまま消す。4日目に電話が繋がったことが奇跡とすら思えてきた。
昨日はスイスにいると知れたけれど、これは本当に稀で、友人が今どうしているのか分からない時の方がほとんどだ。小学生の時は自分が振り回してばっかだったので、まさか逆転するとは自分でも信じられない。訪れた眠気に身を任せつつ、昔のことに思いを馳せる。
天使と言い出した時、思い出したのかと思った。
幼い頃、私たちはごっこ遊びが好きで、ここに出るのはドラゴン!だとか言い合って遊んでいた。
友人が頭をぶつけた時、私はその場にいた。運ばれていく姿を見たあと聞いたのは、記憶が混濁したせいで、ごっこ遊びで考えた架空の生物を本物と認識しているということ。
カウンセラーのおかげか、成人する頃にはその記憶との折り合いがついて、もうあまり幻覚を見なくなったと聞いていたが──。
思い出してしまえば、脳に負荷がかかる。悲しかったが、私の存在自体が悪影響になるかもしれないと、落ち着いたと知らされるまで何年も会わずにいた。
どうか何も思い出さないでいてほしい。友人には健康でいてほしい。
天使と言う名の箱をそっとなでた。
お前が、宗教や勧誘の類いであるだけならまだ許そう。でももし友人の虚構の記憶を思い出させることがあれば、壊してやる。
………昔のことと言えば、私はよく物語を書いていたな。何を必死になってあんなに書いていたのだろう。
──今度実家に帰ったら読んでみるとしようか。