92 番外編 終幕の後
さて、佐々木少年の恋が実ったということは、破れた者も存在する。
今この街に、失恋で心を痛めている人間は一体何人居るだろうか。大都会の喧騒に、そんな心の痛みを癒すのは、横田一成。
「……俺、立ち直れないかも」
新宿のとある飲み屋で、青年横田一成は丸いテーブルに上半身を倒していた。
向かい側に座るのは、腐れ縁の三宮京だ。緑に近いマットな金髪も、抑えた照明の下では濃い色に見える。彼は面白そうに口角を上げて、グラスを揺らした。炭酸の泡が、小さくはじけては消えていく。
「へえ。そりゃよかった」
その一言に、横田は顔を上げた。彼に似合わず極悪そうな顔つきだ。
「ふざけんな。優しい言葉で慰めろ」
「……イッセー、解ってねえな。お前がその『薫の君』に夢中になっている間、何人の『殿方』が袖を濡らしたと思ってるんだ。お前の逢瀬を待ちわびて、何人の殿方がしとどに枕を濡らしたと思ってるんだ。万歳こそすれ、慰めなんてするわけねえだろ。俺だって、その一人だ。ざまあみろ、って思うね」
「薄情者!」
横田はテーブルを拳で打つ。
「俺だって、俺だってなあ……っ……、」
横田の喉が、何かを飲み込むようにこくりと上下する。三宮は、睨む横田の頭に手を置く。サラリとした黒髪に指を通してもてあそぶ。
「なあ、これでお前も失恋の悲しみって奴を知ったんじゃないのか? 涙が出るほどのやつ、酒も食事も喉を通らないほどのやつをさぁ?」
と、一口も手が付けられていない横田が注文した一杯、背の高いグラスを眺める。それは青と黄色のグラデーションを保ったままだ。店内の艶美な光を吸収して、海の断面図のように深い色合いに見えた。沈うつな横田の心を映しているようだ。
彼の言うとおり、横田はこのところ、まともに食事も取らず、睡眠も取れないでいる。そんな打ちひしがれて衰弱した横田を発見し、保護したのがこの三宮京だ。寝室のガラスを割って侵入したものだから、呆れる。
「俺がいつ泣いたよ!」
横田が強気の言葉を発した時、「あれ、これどっかで聞いたような」と思う。それは薫の発言だったと気づく。気づいた途端、覇気も根性も消え去って、再びテーブルに突っ伏した。
泣いていないわけがない。三日三晩は泣いた。
どうしようもなかった。横田の打ちひしがれた思想としては、どれほど自分が薫を愛しいと思っても、もう二度と会うことは叶わない。もう二度と、あの白い頬に触れることも出来ず、あの柔らかい髪に触れることも、抱き締めることも出来ない。自分が薫を忘れるしか、選ぶ道は無いのだ。彼らの人生が交叉することは、もう二度と無いのだから。
「俺、笑える。『失恋はいいことだ』なんて語っておいてこのざまだ。教授ぅ……あんた大した奴だよ。良いも悪いもあるか、クソ。生か死か。そんくらいの問題だろ、これ」
今ここにはいない恩師に向かって、横田は反論した。
「それは今、お前が昂ぶっているからそう思うだけで。五年もしたら、『失恋の痛みが解る男』になってるよ」
「五年!? ふざけんな!」
「そっちこそふざけんな。五年で癒えたら万々歳だ。一生抱えた人間だって居るんだからな」
「一生……」
サアと血の気が引く思いがした。
「むかつくなー……その反応」
三宮は、勝手に横田のグラスに手をつける。
「イッセーって、ホンッと自分本位だよな」
と、暢気そうに締めくくってはグラスを元に戻す。ゴクリと飲んだ後に顔をしかめる。甘、と舌を出す。
「何頼んだの。甘いんだけど」
「『マスターのおススメ』。失恋のときは、これだと相場が決まってる」
「どこの店の話だよ。ここはただのチェーン店だ、この恋愛バカ」
「だったら、気のいいマスターが『うんうん』、と話を聞いてくれるような素敵なバーに連れて行け。この役立たず」
「……俺のおごりだからって好き勝手言いやがって」
「京が勝手に拉致したんだろ」
「引きこもってて気分が晴れるかよ。一人で居て、考えが変わるかよ。少しは外の空気を吸え」
「第一、何で新宿なんだよ。顔馴染みに会ったらどうすんだよアホ」
新宿は、薫に思いを伝えた街だ。今、高島屋の看板を見たら号泣する自信があった。
「体馴染み、の間違いだろ。いいじゃん、慰めてもらえばぁ?」
「茶化すなよ」
机の下で、横田は三宮の足を蹴る。三宮はもう一口、眉間に皺を寄せながら横田の酒を飲んだ。
「たった一度の失恋のくせに。……甘えんなよ」
三宮は、最後一口を流し込み、席を立った。
「……でも、悪かったよ、勝手に連れ出して。そんなに落ち込んでるとは思わなかった。送るから、帰ろーぜ」
興を削がれた気分だ。
余裕しゃくしゃくで、飄々として、つかみどころの無い男。それがいつもの横田だ。ところが、この横田はつかめるどころか、抱えられるほどの正体を曝して、情けなさを垂れ流している。こんなみっともない姿は中学生の頃以来だろうか、と記憶を手繰る。
「……ろよ」横田は消え入るような声で何かを言った。
「は? 」
横田の手が伸びて、パンツの生地を摘む。
「……甘えさせろよ」
横田は、泣いていた。顔を伏せて泣いていた。
「もう少し、俺の話を聞いてくれよ、京。俺は今、凄く悲しい」
三宮はそろそろと腰を落とす。今度は、彼の隣に。
「京が来てくれて、凄く嬉しかった。俺は今、酷く悲しいから」
三宮は店員に向かって手を上げる。「メニュー表、ください」と言う。
その手を降ろし、彼は優しく横田の肩を抱いた。いつもは、逆だった。彼がいつも横田に抱かれるのだ。
三宮は、言うべき言葉をぐっと飲み込んだ。三宮の思想に立脚すれば、「諦めるにはまだ早い」、そう言うべきだった。
横田がこれほどまでに揺らされる男は、この先も現れないだろうから。
「薫の君」こそが、彼の運命だから。
自分が横田を思い続けているように、横田にもそれができるのだということを教えるべきだった。
しかし、三宮は思う。運命なんてクソ食らえ、と。愛の方が、ずっと形ある代物だ。
「……仕方ねー。薫の君は、やんごとなきお方だから」
慰めにもならない言葉を、三宮は零す。横田は鼻をすすって、呟いた。
「そんなの、俺が一番わかってた」
横田は差し出された鼻紙で「ぢーん」と鼻をかむ。涙に濡れた顔のまま、横田は笑った。「おれ、格好悪いな」と、そう笑った。
「……わかってねー。おまえぜんぜん、なにもわかってねーよ」
横田が格好つけているうちは、彼の恋は死んでいるも同然だ。体面も信念も捨て去った「罪悪」の範囲でなら、彼に勝機はあるのかもしれない。
しかし、そこに至る道を塞がんとするのが三宮だ。彼はもう、倫理も公平さも、総てを愛のために捨てているから。
「……なあ、イッセー。夏も一緒に宇治に帰ろうぜ?」
焦点のあわない目で正面を見たまま、腕の中で無き濡れている「兄」に言う。兄は、小さく肩を揺らして笑った。
「『帰る』だなんて。三宮は俺の家じゃない。俺にはもう、故郷がどこにもない」
三宮はしばらく黙って横田を見つめた後、静かに長いキスをした。技巧的でない、ただただ、慰めるような口付けだ。
唇が離れると、彼は横田の頭を左胸に押し付けた。そこは熱と涙で温かく湿る。右手は優しく、横田の背中を上下に走る。
「俺がイッセーの故郷だ。一緒に帰ろう」
「宇治川に身投げするぞ……」
嗚咽交じりの声に、困ったように三宮は笑う。
「俺が必ず引っ張りあげてやるから。隅田川でも、四万十川でも、糸魚川でも桂川でも。何度でも身投げしろ。お前の気が済むまで」
横田は愛の海に浸りながら泣いている。今までの何年かも、この先何十年も、溢れるほどの愛に浸っていることに彼が気付くのは、いつになるのだろうか。
三宮は思う。
イッセーが俺の愛に気づいた時には、今みたいに涙を流して自分を抱きしめてくれるだろうか。と。
オワリ。
全編通じて、稚拙な文章を申し訳なく思います。それをお詫びすると共に、最後まで読んでいただいたことに、最大の感謝と敬意を。ありごとうございました!