91 終幕 2
薫は、国立小野山大学に足を踏み入れた。その日は、後期日程試験の合格発表の日だ。自分の合格をいち早く確認した彼は、ポケットの紙片に指を這わせ、壁に寄り添って「その人」が現れるのを待った。
張り出されてから、二時間は経ったころ。薫の待ち人は現れた。
日に焼けた赤茶けた髪。目つきが悪くて、勝気そうな表情。制服に包まれてなお、強靭な肉体。何度も何度も、自分を抱きしめた腕。幾度も幾度も、自分を塞いだ唇。
全部が全部、愛しかった。もう離れないと、決めた。薫は足を踏み出して、その男の腕を力いっぱい引いて、彼を呼んだ。
「俊!」
***
東京が好きなんじゃない。ここしか、来る場所が無いように思ったんだ。
この街には全てがある。夜中遅くまで遊べる場所も、自転車も要らない発達した交通機関も、雑誌に載ってる海外メーカーの服も靴も、可愛い女の子も、みんな、ここにある。サヤカも居る。横田も居る。
でも、居ないのはお前だ、俊。
どうして、お前はここに居ないんだ。お前はいつか言ったじゃないか。
「何がどうなってもいい、馬鹿でもいい、俺を作っているもの全部放り投げても、薫ちゃんが好きだ」
こう言ったじゃないか。砂にまみれて、汗にまみれて、あの瞬間は、あの瞬間でしかない。でもそれはずっと俺の中にあって。
なのに、どうしてお前はここに居ないんだ。どうして、その笑顔を見せてくれないんだ。
だったら、俺がその手を引くしかないじゃないか。俺の傍で笑ってくれるように、俺はその手を掴むしかないじゃないか。
「俊!」
俺の右手が掴んでいるもの。固くて、たくましくて、かつて、うんざりするほど俺を抱きしめた腕。この腕に組み敷かれて、何度逃げたいと思ったか。その奔放な姿がないお前の腕なんて、お前の腕じゃない。
俊は振り返る。目は驚きに見開かれている。俊は、受験票をしわくしゃに握り締めていた。
「俺は、お前が好きだよ、俊。四年もお前が傍にいないなんて考えられない」
合格発表を見に来た受験生たちは、俺たちを囲むようにして引いていった。
……はは。何の映画のワンシーンだよ。俺がこんな馬鹿げたことするなんて、考えられない。
「な、んで……、薫ちゃん、東京……行ったんじゃねーの……、恋人……いたんだろ、」
俊がようやく発した言葉は、そんな、現実的なことだ。
俺は馬鹿だよ。
俺はようやく解ったよ、サヤカ。こういう気持ちが、好き……愛してるって奴なんだ。今まで何も解っていなかった。俊の笑う顔が、俺の名前を呼ぶ顔が、何より大好きだ。
俺は首を横に振った。
「好きなのはお前だ、俊」
「嘘だろ……」
今度こそ泣きそうな顔をして、俺の頬に手を伸ばした。そこいらにペンだこができた、固い手のひら。
……ああ、お前は頑張ったんだ。この大学に受かるように、お前は頑張ったんだ。
「ほんとに……ほんとに薫ちゃんかよ。コレは、薫ちゃんなのかよ……、」
確かめあうように、手を握った。額を打ちつけ合う。
「好きだよ。俺、薫ちゃんが好きだよ。離れたくねえよ。大好きだよ」
「離れねえよ。ずっと傍にいるよ。」
俺はそこでようやく、隠し持っていたものを突きつけた。
「ええ! 小野山大学の、受験票!?」
「別に! お前がココだからって受けたわけじゃねえからな! 学費安いし……家から通えるし、……んん!」
俺の「言い訳」は、俊の肩口で塞がれた。公衆の面前で抱きしめやがった。告白した俺も俺だけど。でも多分、後から来た連中はパッと見は合格に喜んでいる男子にしか見えないだろ。
「……ッッッ! 嬉しい! 俺、すっげー……嬉しい! 死ぬほど、嬉しい!」
俊は、最高に明るくて幸せな声で叫んだ。三月の空は、その声を高らかに吸い込むんだ。
◇
それから、俺たちは晴れて付き合うこととなった。それでも、一つ残念なお知らせがある。俺は小野山大学法学部新一回生となったわけなのだが。
……俊の野郎、落ちてやがった。
あんだけドラマチックな再会を果たした俺たちだが。コイツの合格の確認が済んでいないところに、俺は勢い込んで突進したらしい。様にならない話だ。
俊は今、浪人生としての勉強と、家計の助けになるようにアルバイトをしている。もちろん、予備校は通っていない。俺が家庭教師をしているからだ。時間があれば、弟たちのも見てやっている。俊とは違って可愛らしい弟たちだ。
しかし。確かに俊がいっぱしの国立大学に合格するはずが無いわけだ。勉強がまるでできていない。第一高校に合格するだけの頭脳は、サッカーのしすぎでどっかに置いてきてしまったようだ。
「ふざけんな。このふざけた模試の点数はなんなんだよ。小学生でもまぐれで取る点数だぞ」
「勘弁してくれよ! 俺、マジで生物苦手なんだよ! なんだよ遺伝とか意味わかんねえよ。っていうかハエが気持ちわりいんだよ!」
と、勉強机に突っ伏しながら呻く。
「……じゃあ生物はやめて、化学と物理にするか」
「今から!?」
「一年ありゃ、出来るやつはT大にでも行けるわ! 第一、高校生ってのは生物も物理も化学も履修してンだろ。出来ない方がおかしい」
そんなことで、実に親密な雰囲気で家庭教師を請け負っている。
そして時々、玄関チャイムが鳴る。俊の母親の陽気な声が部屋まで聞こえてくる。
「おっ! 昌平くん! いらっしゃーい! 今日は部活無いし……来てくれると思ってお菓子作ったよ」
「ほんとですか! ありがとうございます! いつもすみません! これ、みんなで飲もうと思ってもって来たコーラです! 冷やしておいていただけますか?」
「まあ、そーんな! 気を使わなくていいのに、でも、ありがとうね!」
俊はげんなりする。
「……またきやがった」
藤堂昌平は、時々俊や俺の家に遊びに来るようになった。俊が浪人しているのが楽しくて仕方ないのだろう。いや、励ましているつもりかもしれない。
「俊、」
「なに、」
俺は、こちらを見た俊の肩を掴んで、素早くキスをした。
「薫ちゃ……!」
俊は赤くなって口元を押さえた。可笑しな奴だ、いつもは自分から不意打ちしてくるくせに、俺からするとこうなる。
「邪魔が入る前に、したかったんだよ」
照れている俊なんか気味が悪くて見てられるか。明後日の方向に顔を向ける。
「……ああもう、大好き!」
俊は俺を抱きしめて、遠慮の無いキスをする。なんとか俺はコイツの体を引きはがそうともがく。
「ヤメロ馬鹿……! 藤堂がくるだろ、」
「俺が、どうかしましたか? お二方」
どさ、と荷物が降ろされる音がする。入り口には、いつの間にか藤堂が。
「「藤堂……」」
藤堂は軽く俊を睨んだ。腰に手を当てて前かがみになる。
「セクハラですよ、佐々木先輩! 真野先輩は先生なんですから!」
「ちげえよバカ! 今のは薫ちゃんから、」
「うるせえ! さっさと勉強しろ!」と、俺は横槍を入れる。
喚く俊は放っておいて、俺と藤堂は世間話に興じることにする。机に向かっていても、意識はしっかり、俺と藤堂に向かっているのがわかる。でも、相手してやらない。話も振ってやらない。
「そうそう、来月は俺の引退試合なんです! 市立体育館で試合するんで見に来て下さいますか?」
「行くよ」「行かない」
俺と俊の声が重なった。俺は軽く俊をにらむ。どうせ、行かないとか言って、絶対行くんだ。変なところで意地を張って天邪鬼なのだ。
でも、俺はそんな俊がすきだ。お前を甘えの海で溺れさせたいほど、大好きだ。
ああ、来月は、揃って藤堂のバスケの試合を応援に行くのだろう。俊はきっと、我を忘れて喧しく声援を送るのだと思う。
そのまた来月は、帰省してくる皆川や鴨川と一緒になって、海に行くのだろう。俺のとれたての免許が活躍する場だ。
次の月は……
そのまた次の月は……
そして、また、次の月は。
こうして、俺たちが傍に居続けることを祈る。
それでも時々、思い出したように胸が痛む。
皆川の言ったように、俊を選んでも後悔している。たとえ横田を選んだとしても、後悔はするのだ。この苦しさはいつまで続くのか。五年か。それとも、一生か。
それは、街の雑踏の中、綺麗な黒髪が揺れたときに。
ジャックパーセルの青いひげを見かけたときに。
何より、インド香の、切なくて情熱的な薫りが漂ったときに。
俺とあいつの人生は、もう二度と交わることはないのだから。
あんたはきっと、俺の運命だったのに。
そうして俺は、泣きそうになる。
あんたにもう一度会いたいんだと、泣きそうになる。
一成、
この小さくてささやかな田舎町には、この悲しさを癒すものが何もないんだ。
オワリ。