90 終幕 1
薫と横田は、京都駅に着いた。三時までは時間があるどころか、まだ正午過ぎだ。
彼らは食事をとることもせずに、駅の空中遊歩道から市内の眺めをぼんやりと見ていた。正面の京都タワーが、街の奥行きを消してしまっているが、三方を山に囲まれているのだということはよく知れた。まるで、箱詰めの街だ。
「横田の高校は、どれ」
横田は首を横に振った。
「ここからじゃ見えない。南の方だ」
会話は途切れる。
薫は、横田に全てを話した。自分が今、佐々木を好きだということ。自分は、小野山に留まることを決意した、と。
だから、横田と薫は、ここで別れるということ。
「あんたは、俺にとっては特別な人間だよ。あんたといるのも好きだし、気分が良いんだ。死んでいるような気持ちが、生き返ってくるんだ。……一成は不思議な奴だよ」
くどき文句だな、と横田は呟いた。
「でもそれじゃあ、俺は受動なんだ。そんなの、『楽』してるだけだ、」
横田の顔が見られなかった。見なくても解る。絶対に、彼は穏やかな顔をしているから、見られなかった。
「泣きたいのはコッチだよ、バカ」と、横田の手が薫の左頬を摘む。
薫は泣いていない。きっと、泣きそうな顔をしていたのだろう。
「俺、あんたの事だって、好きだったんだ」
横田は笑っている。笑っているのが、淋しかった。
「お前はただ、都会の一人の人間が眩しく見えただけだ。それだけなんだ」
違う、と薫は言いたかった。しかし、何を言っても、確かに薫の心は彼に恋として向いていないことを証明してしまう。それはきっと、横田には酷い仕打ちになってしまうのだ。
たしかに、正の方向にときめくこの思いが恋であったら、彼に悲しい思いなどさせなかったのに。この思いが恋でないと気付けていたなら、彼のことを深く傷つけることも無かったのに。
打ちひしがれる。
横田は絶対に、謝罪の言葉を受け入れはしないだろう。
よく気付いたな。成長したな、と頭を撫でるのだろう。
彼は決して、薫には涙を見せはしないのだろう。
◇
待ち合わせ時間よりも早かったが、薫は仲間らよりも一足先に小野山へ帰ることにした。今の気分では、佐々木にも、皆川にも顔を合わせたくはなかった。
東京まで帰る横田も、共に新幹線の改札まで向かう。改札で乗車券と特急券を通し、出てきたものをズルリと引き抜く。切符を通した後に、横田が後続していないことに気が付いた。
「……何してるんだよ」
横田は未だ改札の向こうに突っ立っていて、内側にはこようとはしなかった。
そこに、外国人の団体客がなだれ込んできた。薫は隅に体を寄せて、人の波をやり過ごす。この大群をやり過ごしても、今度は到着した新幹線からはき出される人の群れがやってくる。
横田も、薫の向かい側の隅でやり過ごしていたようだ。
「早く来いよ、一成」
促しても、彼は首を横に振るだけだった。
「……おれ、もう少しここに居るわ!」
彼はポケットに両手を突っ込み、踵だけで不安定な立ち方をした。
「だから、ここでお別れな?」
「なんだよ、一緒に来いよ」
「バカ。甘えるな」
横田は片手を差し出した。一メートルと離れていない彼らの間には、ただでは超えることの出来ない柵がある。
「さよなら」
薫も近づいて、手を取った。
「……さよなら」
しばしの沈黙が、二人を包む。秋の東京で出会った時から、今の瞬間。一緒に過ごした時間を計算するとしたら、恐らく、たった数十時間だ。その、短い共通した記憶を巡らせて、苦しくなる。まだ、全然言い足りなかった。まだ、聞きたいことも、教えてもらいたいことも、笑いあいたいことも沢山あった。
頭上ではごうごうと音が響き、博多に向かって新幹線が発車した。春休みを心待ちにした大勢の観光客が、階段を降りて改札を抜けていく。彼らは一様に明るくて、幸せそうだ。
改札の端の柵で握手をしている青年同士に目を向けるものは殆どいない。見えない手に押されるように、二人の上半身は互いに近づきあった。段々、彼らの姿が見えなくなってくる。人の流れは勢いを増す。
人の勢いが弱まり、改札も空き気味になった頃。
青年二人は、姿を消していた。そこには何の跡も残っていない。
駅は、繰り返される別れの内の、取るに足らない一つをただ見下ろしていただけだ。そこにどんな激情があろうと、別れは別れで、終わりは終わりだった。
駅は無感動に、場所を貸しただけだ。
◇
多くの人間が大きな旅行鞄を抱え、やスーツケースを引きずるなか、その男は目だって身軽だった。いや、目立つのは身軽さからではない。それを言うなら、鞄ひとつの人間はその駅には大勢いた。
清潔な黒髪、高い身長、美しい面立ち。全てが彼を際立たせている。
南北を貫くトンネルにも似た黒い通路を抜け、東西にせり上がる大階段を足早に登る。何かに急かされるように、男は足を交互に動かす。
その頂上は展望台だった。こまごまとした、小都市の絶景が広がる。数組のカップルがそこで肩を組み、腕を組む。たった独りでそこに姿を現した黒髪の色男に、とあるカップルの男の方がカメラを差し出して近寄る。男は急いでいる様子で、彼の傍を無言で通り過ぎる。カップルは男に対し、態度が悪いと囁きあう。
しかし、男は何も見えていなかったのだ。目に溜まった涙のせいで何も見えなかったのだ。
男は、南端に手を付いて身を乗り出す。
「ああああああああああああ!!!!!」
男は叫んだ。体面も何もかもが、気にならなかった。
涙がどっと溢れた。唇を食いちぎるかと思った。漏れそうになる叫びを、此処まで我慢した。
もう一度、叫ぶ。誰にも聞き届けられないから、叫ぶ。
その頃には、能天気なカップルたちは姿を消していた。
南に向けられた彼の悲痛な声は山に遮られること無く、古都を走り去るのだろう。
新幹線が山を突っ切って走り去っていく。二度と会えないところへ、彼の愛しいものを連れ去っていくのだろう。
愛しくて、苦しくて、彼は泣いた。
帰る場所が無くて、彼は泣いた。
――おれはいったい、これからどこへ向かえばいいんだ?