83 新幹線のなか
卒業旅行は結局、総勢十五名の大所帯になった。
十五人ともなると、卒業旅行どころか修学旅行の色合いが強い。新幹線の中では、他の乗客への迷惑にならないかと肝を冷やすほどのはしゃぎっぷりだ。彼らは椅子を回転させ、互いに向き合っては無邪気な話を飽きもせず続けている。
それでも女子と男子は完全に別世界だ。それもそのはず、特に仲がいいわけでもない女子のグループとセットだからだ。そのへんの奇妙な人脈は、皆川のなせる業だ。
「ねえ、まずはここに行ってからさ……」
「いいね、私はそこへ行きたい!」
計画好きの女子たちは、そろってキャラメル色の頭をつき合わせてキャッキャと笑う。卒業式を終えたばかりなのに、彼女らの髪形は既に女子大生のようだ。ということは、既に進路が決まっているのだ。
他方、薫の目の前で大口を開けて眠る佐々木は、「この数日間不眠不休で頑張りました」ということを隠すことも出来ないほど憔悴していた。頬は僅かにこけているし、赤茶色の髪も心なしか艶がない。健康に気を払わなかったツケが今回ってきているのだろう。
その彼の様子を薫と一緒になって見ていたB組の鴨川が、ぼそりと呟いた。
「俊、ひでえツラだな」
「……ほんとに。準備不足にも程がある」
とは言っても、彼の必死の努力を二人ともが認めている。
F組の皆川を筆頭に理系クラスの面々、加えて、B組の鴨川・佐々木にA組の薫。加えて、女子が六人。聞くところによると、十五人以上で適用される割引があるらしく、女子の旅行に男子が名義を貸した形らしい。(便乗には違いない。)皆川が言っていたような男女混合という色合いは薄い。
皆川の、「佐々木と過ごす時間を作ってやる」との言葉は、「鎌」だ。その鎌にまんまとひっかかり、後は本音をつらつらとぶちまけたのだ。思い出しても胸焼けしそうな会話を交わした。そのせいで、佐々木が近くにいても、皆川の視線を感じても、落ち着かない。
仲間との最後の旅行なのに、いつもの一人で過ごしたい病の発作が起こってしまっている。それも悪くなかった。幸い、若い男が一人でまわっていてもおかしくない観光地だ。ビュンビュンと過ぎ去る田んぼを横目に、新幹線の機械的な走行音に耳をすませ、次第に瞼を閉じていく。
宇治に行こう。
ふとそう思った。
◇
「なあ、真野。薫、って名前は『源氏物語』の『薫大将』からきてるのか?」
高校一年の夏休み。補講の休み時間時のことだ。古典の成績の奮わなかったものが一堂に会する、憎き補習の授業。そこで、クラスの違う佐々木と薫は顔を合わせた。春季の遠足の時点で顔見知りだったものの、まともに会話をするのは初めてかもしれない。
「あ、俺、佐々木。佐々木俊。よろしく」
付け足すように、彼は名乗った。名乗られるまでも無く、彼は有名人だったので薫でも知っていた。
「……知ってる」
薫は、赤茶色の髪の変人をまじまじと眺めた。(この頃の髪の色は染めたものであって、今よりも数段明るかった。)上級生や教師たちにに目を付けられている、ろくでもない生徒だとの噂は聞いていた。そのわりに、けんかをしただの、誰かを殴っただのと言う話は聞かなかった。彼の人相の悪さも手伝って、噂が一人歩きしていたのだ。
椅子に座っているのはいるのだが、足は机の上に放り出されている。休み時間だからといってクーラーを止め、窓を全開にしたせいで教室は暑い。それに早々と音を上げた佐々木は、上半身を裸にしていたのだ。どこぞの商店街かが作った団扇を仰ぎ、首筋に垂れる汗を拭おうともしない。細身だと思っていたが、彼のからだは隆起と窪みがハッキリしていて、無駄な肉がない。長距離ランナーのようだ。彼のような好く出来た肉体なら、教室で裸になることを厭わないのだろうな、と内心妬ましく思う。女子などは、教室の一番後ろの彼の裸体を眼に入れないように健気に正面を向いたままだ。当の佐々木は、周りの反応など微塵も気にしてはいないのだろうが。
「名前のことだけど。……違うよ。五月生まれだから、『薫風香る』的な意味で。別に、体が香ったなんてメルヘンなことは無い」
「へえ、」
へえ、と言いつつ意味が解っていないような間抜けた顔で、佐々木俊は頷いた。
「そりゃそうだよな、名前をもらうには『薫の君』はちょっとダッセエよな」
と、手元の『源氏物語』の児童版をぱらぱらめくって言った。児童版、と言うのも、古典の教師が「読め」と差し出したのだ。
「俺なら、匂宮の方が好きだな、」
「薫君とか匂宮って確か、宇治十帖……終わりの方だよな? もうそこまで読んだのか?」
薫も同じ本を与えられたことには与えられたのだが、全く読んでいなかった。何しろ、本が嫌いだ。古典を学ぶ上で、それすらも放棄して、ひたすら構造的な理解を得ようとしていた。
「でも、昔の話ってイメージわいてこねえよ。俺の頭ん中では、ぜんぶ小野山市内の風景で再生されるし」
薫は、浮船が市内の河川に身投げする様子を想像してみた。草がぼうぼうと生えた河川敷、捨てられた成人向け雑誌、ダンボールハウス、コンクリートの橋。どうも情緒的ではなくて、物語性も皆無だ。
「あ、」佐々木は本を掲げて小さく声をあげた。
「なんだ、一番初めのカラーページに、宇治の写真あったじゃねーか」
「どれ、」
薫は椅子を引きずって、彼の傍へと寄った。突如頭に沸き起こった「小野山市内の川に身を投げる平安の女」のイメージを刷新したくて、彼の示すページを覗き込んだ。
「キレイだな……」
佐々木の指差す先、そこには風光明媚な宇治川の様子があった。同じ川なのに、都付近と片田舎とでは、天と地ぐらい美観に差があるようだ。
「あ、」佐々木はまた小さく、声をあげた。
「今度は何、」
見上げると、彼は頬を赤くしている。半裸の男が顔を赤らめる様子というのは、なんとも不気味だ。
「……引くなよ?」
もう引いてる。いろんなことで。
そう思ったが、言わないでおいた。代わりに、「ハッキリ言えよ」と乳首を親指で押してやった。彼は身を捩じらせて笑い、やめろよ、と手を払った。
「真野が近づいたら、石鹸のにおいがした。『薫』って名前、お前にピッタリだ」
「……洗剤、の間違いじゃねえの」
くんくん、とシャツの肩口を嗅いでみたが、汗臭いだけだ。気持ち悪い奴、と思ってしまった。
それを感じ取ったのだろう、彼は慌てて写真に目線を戻して大声で叫んだ。
「行きてえな、宇治!」
◇
夢の中の懐かしい佐々木の声と、現実の佐々木の声が重なって、薫は目が覚めた。
「え……? 今なんか言った?」
向かいの佐々木はお目覚めだ。薫は目を擦り擦り問うた。
「ん? 俺、城行きたい!」
宇治、と言った気がしたが、それは夢の中の台詞だったか。と、薫は少し混乱する。佐々木が市内を回っているなら、宇治には一人で向かえそうだなと思った。
あまり彼の傍に居たくない。惜しくなって、混乱して、想いがもっていかれる。冷静でいられなくなる。
「……ああ、そう」
欠伸交じりに意味の無い相槌を送り、再び目を閉じる。
このときばかりは、自分の名前を皮肉に思った。ひょっとしたら・ある意味では、自分こそが浮船かもしれない、と。