76 試験前夜の湯豆腐
二月の中旬のこと。横田家の玄関には、本人の靴ともう一足、生真面目なローファーが並ぶ。
当の横田は、台所で鼻歌を歌いながら味噌汁の味見をしている。ご機嫌さは最高潮だ。
一方、ローファーの主である薫は、炬燵に足を突っ込んで、つまらなそうな顔をぶら下げている。彼の手には使い慣れた鉛筆、開いているものはこれまたぼろぼろになった英単語集。
――明日は、赤川大学の一般入試だ。
薫は東京の会場で受けるため、上京して横田の家に一泊することにしたのである。
「薫! そろそろ出来るから机片しとけよ!」
台所から母親のように指示を飛ばす横田に、薫はクスリと笑う。出会った当時から思っていたことだが、横田にはどこか、兄貴のような、父親のような、それでいて母親のようなところがある。言うなれば、傍に居て安心する人間なのだ。それは人間として非常にいいことだ。傍に居て疲れるだけの人間もいるが、ほっとさせてくれる存在感は、誰にも好かれる。
はあい、と間延びした返事をして、机上を綺麗にする。やがて彼は立ち上がって台所へ向かう。インド香の香りは、料理の臭いで消されてしまっている。今夜のメニューは湯豆腐だ。「トンカツだ、」と言われなくて少し安心している薫だった。
横田家は相変わらずの奇妙なインテリアで、こころなしか本が増えた気がする。たしかに、本は増えはしても減りはしないものだ。売らずにどんどん溜まる。本という媒体自体が好きな人間にはよくある現象だ。
「なんか手伝う?」
「じゃー、ゴハン。よそって運んでやー」
漆塗りの小さな盆を手渡される。質の良さそうな代物だ。
そういえば、横田の家の台所周りには上等なものが揃っている。薫はその方面に関しては大した知識も無いが、彼が使っている包丁に刻まれた文字は、確か有名どころのものだとわかる。
(でも、コイツが揃えたわけねえよな。)
その通りだ。
「何ぼうっとしてんだよ」
上半身を捻って、横田が見てくる。薫はしゃもじを掴んだ手で、慌てて炊飯器をあけた。
◇
二人は向かい合って食卓につく。
「……ウマイ」
湯豆腐など、誰が作っても同じ味だと思っていたので、薫は素直に驚いた。茹で加減は勿論のこと、豆腐をつけるタレや湯の出汁がいいのだ。豆腐と薬味は、素材自体が優れている。
横田はにんまりと、満足そうに微笑んだ。
「だろ?」
謙虚さがないのは横田の特徴だと解ってはいるが、すこし意地悪な気持ちが這い上がる。
「……横田さぁ、器用貧乏って言われるだろ」
「よく言われる。え? でも、褒め言葉だろ?」
意味を解ってて言うのだから、呆れる。その証拠に、悪戯っぽい笑みが張り付いている。
「……皮肉だよバカ」
手元の七味を振りかけながら、薫は低い声で言う。横田がコタツの中で足を蹴ったものだから、七味を振りかける手がぶれて、彩度の低い粒が机上に舞った。はた、とその手を止める。
「……京都産だ」
この落ち着いた色合いの七味は、薫の母親が好きな老舗のものだ。そう言えば、横田の食事の味付けは関西風、むしろ京都風だった。
この男は関西出身なのか、と思うが、彼の言葉は、アクセントも純然たる標準語のそれだ。
「なあ、横田って出身はどこなんだよ」
横田は箸を止めて、しばし思案する。
「出生地、って意味?」
「? まあ、そうなるのか?」
「そんなら、東京だけど」
ふうん、と微妙な音で返事をする薫。あまりしっくりきていないようだ。
「母親が京都出身だったりする?」
「いや? 埼玉だけど」
ますますワケがわからなくなる。七味は全国どこでも買えるとして、染み付いた料理の腕は習わない限りは身に付かない。
(父親か? 父親だよな?)
家のことをずけずけと聞くのは躊躇われた。普通の人間の場合、聞きもしないのに勝手に話すのが「家族のこと」だ。しかし、彼が優先して話してこないところには、「面白くない何か」があるのだろう。佐々木も、自分の家庭のことを率先して話したりはしなかった。
そのもやもやを感じ取ったのだろう、横田は口を開いた。
「……京都なら、高校の時あたり、暮らしてたよ」
彼のめずらしく落ち着いた声に、薫は顔を上げる。しかし、横田は豆腐の浮かぶ鍋に夢中だった。
「……独りで?」
ぽちゃり、と豆腐を取り落とした音がする。熱い湯が魚のように跳ねる。彼は豆腐を追うのをやめて、薫を見て首を振る。
「まさか。正しくは中三の夏からだ」
「へえ。いいな」素直な感想だ。「綺麗なところなんだろう?」
薫にとって京都とは、金閣や銀閣、清水寺しか思い浮かばないが、なんとなく紅葉が綺麗な印象があった。しかし、横田の感想は微妙なものだ。
「さあ……俺は市内でも南に住んでたからな。あ、でも、高校の脇にはデカイ寺があったな!」
「へえ。雅だね」
「ちなみに、男子校だった」
と、何故か自慢げだ。横田にとっては楽園だったとしても、薫からすれば男の園など羨ましくもなんともない。
少なくとも解ったことは、横田一家は転勤族なのかもしれないということだ。
「ああ、でも、その時俺は『横田』じゃなかった。……『三宮』だ」
「え?」
今度は薫が湯豆腐を取り落とす番だった。上品な豆腐は下品な音を立てて池に沈んでいく。
「……ちなみに、薫がこの前会った俺の義弟、京の苗字が三宮。どういうことか……おわかり?」
薫はクリスマスの時に、横田の弟を名乗る、京という人物と顔を合わせている。性格や喋り方が横田と酷く似ていたことを覚えている。京都弁ではなかったのだが。
ぼんやりと、派手な色の頭の変態男の容姿が思い浮かぶ。どう頑張っても、横田が中三の時に生まれた弟には見えない。ということは、彼らには一切の血の繋がりがない。
「え! あの、変態が……え……!?」
薫は、京を横田の実の弟だと思っていた。というのも、京が苗字を名乗らなかったからだ。しかし、京はあえて姓を名乗らなかったのだが。
(でも……それって……)
じわじわとショックを受けている中、横田は勢いよく椀を机にうちつけた。
「変態!? 変態ってなんだよ! アイツに何かされたのか!? そういうことは先に言えよー!」
触発されて、薫も興奮して声を荒らげる。
「あ、あんたこそ! そういうことは先に言えよ!」
「そんなのどうでもいいだろ! やられたのか!? やられたのかよ!?」
「大事なのはそこかよ! アンタこそ! アイツとやったのかよ!」
半ば立ち上がった薫の叫びで、居間がシーンと静まり返る。横田は責める表情のまま、固まったように口を開いている。それはある意味、図星を突かれた動揺だ。
「なんだ……やってんのかよ……」
へなへなと腰を落とし、上目遣いに睨みつける。
「別に、なんとも思ってないからな。自分のこと棚に上げて人のこと責めるほどガキじゃねえし」
やきもちを妬いている、などと勘違いされたくは無かった。
「どうせ、アンタのことだ。今まで死ぬほど遊んでたんだろ。一々気にしてたらキリがない」
半笑いで、今度は煮物に手を伸ばす。関西風の出汁の利いた味わいだ。この味はきっと、三宮家のものなのだろう。ひょっとすると、家事道具も三宮の計らいかもしれない。
「……今は、違うぜ?」
横田も、にんまりとした表情で食卓に肘を突いた。すかさず薫は、顔を顰めて彼の肘を叩く。彼は叩かれた肘をさすりさすり、明るく笑った。
「それから、俺が『横田』だ、っていうのも、もう変わらない」
――「もう」変わらない。その微妙な言葉のニュアンスが孕んでいる過去と、彼の真っ直ぐで綺麗な瞳を、眺めていた。幾度と無く、彼は自分の「姓」というアイデンティティを、ふわふわと形ないものとして見つめていたのだろう。