73 義兄弟
結局、鍋は三人で囲む運びとなった。その後も宣言通り、男が帰宅する気配は無い。
薫が風呂に向かったので、居間は男と横田だけになる。
「あの子が、前言ってた片思いの相手か」
「あ・た・り」一文字一文字を区切って発音した横田は、みかんに手を伸ばす。「でも、片思い『だった』子な。今は恋人同士だ。つまり、今晩は『初夜』だ。頼むから、無粋な真似すんなよ」
要するに、「さっさと帰れ」ということらしい。
「ヤダ。寒いし、帰るの面倒くさい」
炬燵の台に顎を乗せて男は文句を垂れる。白い目で見下ろす横田は、諦めたように息をついた。
「勝手にすれば? 喘ぎ声が聞こえてきても、文句言うなよ」
「あの子は、俺が居たらヤらないって。そういう子だよ。つまんねえな。三人で出来そうもねえし」
炬燵の中で横田は男の足を蹴る。
「お前、最悪。昔ッからそうだ。俺の邪魔ばっかりする」
「イッセーに言われたくねえよ。強引で、自分勝手。他人をどうこう出来ると思っているところとか、頭くる。あの子だって、無理矢理モノにしたに決まってる」
横田は確かに顔を曇らせた。しかし、その表情は一瞬で消える。
「『自分勝手』って言われてもさあ、京がだらしねーから俺が面倒見てやってるだけ。この前のプレゼンも結局、俺が仕上げたようなもんだ」
彼は手の内のみかんを食べるでもなく、その肌を撫でていた。
しばらく、二人は沈黙していた。小さな流水音が時たま聞こえてきて、その空間を埋めていった。
男はライターを取り出すと、煙草を吸い始めた。本の山で狭くなった八畳間は、煙草の匂いに埋め尽くされる。微かなインド香の香りは、一瞬で殺される。
「……仕方ないねー、京ちゃんは! 俺は此処で寝るから。薫は客間で、京は俺のベッド。よろしい?」
「ああ」男は全く悪びれないし、遠慮もしない。
「ただし、薫を襲ったら殺すよ? お前リバだから心配なんですけど、」
「あ、釘刺しちゃう? お前が寝てる間に、あの子のを搾り取ってやろうと思ってたんだけどなあ、」
ニヤニヤと笑う男に対して、横田は高踏的にくすりと笑う。それを見た男は途端にむっとした表情になる。素早い変化だった。
「だから京ちゃんは憎めないんだよ。本当に俺を苦しませたかったら、黙って薫をつまみ食いするのが筋だろ。……おわかり?」
男は憤然とした面持ちで横田の握っていたみかんを奪取する。思い切りその皮をめくり、飛まつを横田の顔に浴びせかけた。
その一滴は、まともに彼の目に飛び込んだようだ。横田は七転八倒して床でのたうつ。
「何すんだよこの、バカ宮!」
「バカ宮じゃねえ。三宮だ」奪取したみかんを食べ始めた「……自分の昔の苗字も忘れたのかよ」
「まさか。……今は『横田』だろ、その前は『三宮』、そのまた前は『雨谷』。生まれた時は多分、『石川』。母ちゃん、婚姻と離婚の度に俺の戸籍もどうにかしてたから、全部揃えようと思ったらきっとエライことになるぜ。……まあ、とにかく、ホラな、忘れてないだろ?」と、指折り挙げる。
「そういう話じゃねえだろ……」
「そういう話だろ?」横田は目を擦りながら炬燵から這い出る。「さて、と。ワガママ王子、『三の宮』のお着替えを用意しますねェ」
ふん、と鼻息を漏らし、男はそっぽを向いた。彼にとっては、どこと無くうきうきしている横田の背中が憎たらしかった。
◇
入れ違いで、タオルを頭から被った薫が風呂から戻ってきた。頬が上気してピンクに染まっている。タオルから覘く髪も濡れたままで、酷く艶々している。浴衣は、内に在る薫の体を逆に生々しく現前させる。
「あ、お先いただきました」
こちらを窺うような目で、薫は頭を下げた。男は、薫が自分を不審に思っているのをひしひしと感じる。それが面白くて仕方ない。入り口に突っ立ったままの薫に、男はにっこり笑って受け答える。
「あ、どうもどうも。次、俺も入るわ」
「はあ……、」
よっこらせ、と席を立つ。
「邪魔者が一瞬消えるからって、するなよ?」
すれ違いざまに、男は薫の胸を親指でぐりっと押していく。まるで廊下の電気のスイッチを押すようなような気軽さで。「う、わ!」と、薫は短く驚嘆の声をあげる。電流が走ったかのような勢いで肩を縮めた。
「……何なんだよ、あんた」
「俺?」振り向くと、浴衣の胸元を掴んで頬を赤くして睨んでいた。その純な反応は上々の収穫だ。「俺はイッセーの義弟の、京」
「弟……」
「義弟」も「弟」も、「おとうと」としか聞こえない。「元」義弟で血もつながらない赤の他人だ、という説明を省いている。しかし、そこで薫は納得した安心顔を曝し始める。京は踵を返し、薫に向かう。
「何、」――突然だった。
薫の口を手で塞ぎ、勢いのまま壁に押し付けた。頭が壁にぶつかる鈍い音がした。
「なんだよ、今の緩みきった顔は。俺は注意不要ってか?」
下半身は大腿で押さえつける。押さえ込んだ男の手の中で、くぐもった呻きをあげる。男は空いている方の手を、無防備な下半身に伸ばす。薄い布越しに的確に刺激したらどうなるか。オマケに、ここまできたら直接触れるのも容易なことだ。浴衣を屈辱的なまでにゆっくりと割り開く。火照った内腿に、冷酷な手が走る。
「…………駄目?」
しかし、冷え冷えとした手はゴムに手を掛ける。薫の肌は冷たさに粟立つ。危機に際した薫は、怒りの形相で呻きのボリュームを上げる。
「なんちゃって、」
一転、コロッとした笑みを浮かべて男は「降参」のポーズで体を離す。薫は解放されたのだ。
薫は怒りを通り越して恐怖の表情を浮かべる。震える腕で垂れた唾液を拭うと、緊張からか、喉がこくりと上下した。男は意地悪そうに目を細める。
「あっれー? 怖かった?」
「……殴っていいか? て言うか、殴られて当然だよな?」
「ヤだよ。ほんの遊びだろ」大げさに顔を顰めて首を振る。
「……お前ら、本当に兄弟だ。話し方も性格も、そっくりだ。変態なところまで、全部同じだ」
「それって嬉しくねえな」
「だって、褒めてないし」
薫の反応に満足した京は再び体の向きを変えると、上機嫌に風呂場に向かう。