72 分岐点
全くもって渋谷という街に縁が無い。
横田もこの街でクリスマスを過ごそうなどとは思ってはいないらしい。さっさと私鉄に乗り込むと、彼らは横田の下宿先のある駅へ向かった。郊外へ向かうこの列車は、比較的空いていた。
数分間電車に揺られ、駅に到着した。駅前の商店街は、クリスマス一色だ。といっても、数時間後にはこのゴテゴテした西洋風の飾りも取り払われ、正月飾りに変わるのだから妙なものだ。
横田は買い物もせずに、まっすぐ家に向かった。
「着いたぞ」
酷く久しい横田の家。相変わらず古臭くて居心地良さそうな家だ。横田は鍵を穴に差し込んでぐるりと回す。ガチャリと小さな音がして、
「あれ。閉まっちゃった」
「閉まった?」
横田はきょとんとした横顔を見せている。もう一度、反対に回して鍵を開けた。
「鍵、閉め忘れてたのかよ。危ねー奴」
「いや……? そういうヘマはしないけど……」
不審そうな顔になって、進もうとした薫を制する。横田は戸を開くと、用心深く中を覘いた。その隙間から、インド香の香りが漂ってくる。
「……居る」
「は?」
「人が居る」
「例の客間の客じゃねーの」
「薫が来るのに貸すわけねーだろ」
「そう、」薫も横田の腋の下から顔を突っ込んで、玄関の様子を見た。そこには、男用のショートブーツがどんと存在を主張している。これはどう見ても、泥棒ではない。
「……誰?」
薫はちょっとだけ不機嫌になって聞いた。横田の友人が忍び込んでいると考えた方が妥当だ。
(友達と過ごす予定があったなら、俺の来訪なんて断ればよかったのに。)
横田は豪勢なため息をついた。
「……ただの不法侵入者だ」
「は?」
二人は揃って居間に向かった。そこから明かりが漏れていたからだ。
横田は力いっぱい戸を開き、開いたと同時に低い声で唸った。
「何してんだよ」
彼の目線の先の居間の炬燵には、黒尽くめの男が温まっていた。横田の怒声にも動じず、狡猾そうな笑みを浮かべた男だ。髪だけは白に近い金だった。一度脱色したのちに色を入れたのであろうが、酷く美しい髪質だ。どこか現実感無い様子が、彼につきまとう。
「お帰り」
「『お帰り』じゃねーだろ。何でお前が居るんだ」
締まりの無い表情で微笑む男は、黙って鍵を振っている。横田は「失策った」と言わんばかりに額を打った。
「駄目じゃん『先生』。生徒に合鍵なんて持たせちゃ、」
「先生?」薫は思わず、横田を見上げた。
「遊びに来たらさぁ、お前の生徒が上がりこんでたぞ? 鍵を返しにきたんだと。彼はもう帰ったけど」
「見ればわかるし」
横田は投げやりに答えた。男は訳知り顔でニヤニヤしている。その目は油断無く薫を観察している。
「へえ。それが噂の『薫の君』か。イッセー好みの男だな」どうにも厭な感じの男だった。「君、イッセーの恋人?」
「……そうだよ」
薫は声に出して言っていた。静かな決意を秘めた声だ。男も横田も、薫を見た。
横田の体が、薫に向いた。
薫が恐る恐る横田を見上げると、彼は妙な顔して下唇を噛んで見ていた。決まり悪くなって、薫は顔をそむけた。
「……いつから、」男は薫に向かって聞いてきた。
「今からだよ。悪いかよ」
「別に?」
男は、いまだぬくぬくと炬燵に浸かって立ち去る気配が無い。
しばしの沈黙を破ったのは、横田だ。
「マジ……。マジで俺と付き合ってくれるのかよ、薫」
「二度は言わねえぞ」
「一回で充分だよ。はっきり聞いたよ」
薫は、炬燵の男がこちらをチラと一瞥し、みかんに手を伸ばしたのを見た。しかし、その視界は横田の体で遮られた。横田が薫を抱きこんだのだ。
「……ああクソ!」
横田の嬉しそうな呻きと共に、二人して床に倒れこんだ。いや、押し倒された、の方が正しい。
「何すんだよ……んんッ!」
薫の口は、横田によって塞がれた。自分の上の肉体は、温かい。自分を押さえつけているのではない。包むようにそこに在る。薫はそろそろと腕を持ち上げ、横田の髪に手を絡ませ、首に腕をまわした。
横田の攻勢に対しては、こちらは「合わせる」も「技巧」もへったくれもない。その余裕を与えないほどの支配力だ。
「……あのさあ。俺が居ること忘れてるだろ?」
炬燵の男は不機嫌そうな声を漏らす。
「はぁ」と密度の濃い吐息を漏らし、横田はようやく離れた。
「久しぶりのチューの味はどうですか?」
「……ヤバイ」
実のところ、キス自体は久しぶりでもなかったが、思わず素直な感想が漏れる。横田の潤んだ瞳が、水菓子のように綺麗だった。
「……京、お前、帰れ」横田は顔を上げて男に言う。
「厭だ」
「邪魔だって言ってんだよ」
「だって、今晩は鍋だろ? 鍋は少しでも人数が多い方が楽しいだろ」
「何で鍋だって知ってるんだよ」もそもそと上半身を起こした。
「台所見た。葱だろ、肉だろ、葛きりだろ、豆腐とか……。な?」
男は、指折りしながら発見した食材を挙げていく。
「……図々しい」
横田は忌々しげに言うと、未だ床でへばる薫を柔らかに抱き起こした。濃い攻撃を受けて、力が抜けてしまったのだ。
彼は薫の肩を掴むと、申し訳なさそうに言った。
「この空気の読めない男は、ただの腐れ縁だ。気にすんなよ」
「で、今晩は俺も泊まるから。よろしく」と、男は手を挙げる。
「ふざけんな。帰れ」
「なあ、良いよな?」
横田の言葉を無視し、今度は薫に向かって疑問符を投げつける。
「……はぁ」薫はよく意味も飲み込めずに適当な音を発した。
「ホラ、『薫の君』も良いって言ってんだろ」
(良いとは言ってないけど……)
男はみかんを半分に割ると、大口あけて放り込んだ。
なんとも決まらない状況ではあったが、横田と薫はめでたく結ばれたのだ。