69 12月25日
12月25日の早朝。
騒々しい音と共に、玄関が開かれた。二人の男女が声を落としもせずに話しながら入ってきた。足音はどたどたと廊下に響き、薫の部屋の前を通過し、客間の前を越え、両親の寝室でようやく止った。
「あ……何事……?」
薫は寝ぼけ眼を擦って携帯電話の画面を確認する。人工的な白い光が目をさす。
「……五時……?」
頭はゆっくりと起動し始める。九十年代のコンピューターなみの起動速度だ。部屋の空気は冷たく、手を布団から出しただけでも限界だ。叱咤して体を這わせる。寝巻きの上から半纏を羽織り、部屋を出る。
間違いない。両親が帰宅したのだ。今日に限っては、暢気に寝ている姿を見られてはかなわなかった。
居間に向かい、暖房と炬燵の電源を付ける。
「あら、薫。起きてたの?」「早いんだな」
間抜けな声と顔の両親が、揃って居間に現れた。
「双子ちゃんは?」
「まだ寝てるに決まってんだろ。何時だと思ってるんだよ」
五時ね? と藤子は壁掛け時計をそのまま読んで、口をすぼませる。
「解ってるならデカイ音立てて起こすなよー……」大あくびに襲われる。
「まだ寝ていても良かったんだぞ?」と、光一。
「……暢気なこったな。この忙しい時期に旅行なんて、」
母親に対する嫌味だ。彼女は決まり悪そうに肩をすくめ、茶の準備をしに居間を去った。
何も知らない父親は、どっかとソファに腰を下ろした。
「ほら、土産だ」そう言って手渡すのは、小野山市土産だ。「ふざけてんのか」と叫びたいのを堪える。実際にふざけてるのだ。相手にしても始まらない。
「あのさぁ、」
「何だ」父親はニヤニヤと笑っている。
「……何でもねーよ。……あ、土産。土産ありがとう」
「へいへい」父親は大あくびしてソファに身を倒した。
「あともう一つ」
「んん?」
「学校終わってから東京行くから。今日、午前中までだし」
「お! サヤちゃんちに行くのか?」何故か光一は嬉しそうだ。
「……さすがにクリスマスだし行けねえよ。友達の所に泊まる」
光一は薫の頭をぐりぐりと撫でた。
「さすが俺の息子だな。何人か『コレ』を抱えてるって訳か!」
指を立てて顔を近づけてきた。今時、「恋人」をそのサインで表す人間はいないだろう。
「違……」
「まるで自分が抱えてるような言い方ね」
刺々しい様子で藤子が戻ってきた。コン、と音を立てて急須や湯のみを机上に並べる。双子の分まであった。光一は豪快に笑った。
「昔の話だ! 若い時は遊べるだけ遊べ! そのうち、大切な一人にブチ当たるから!」
言いながら、藤子の肩を抱く。「邪魔よぉ」と、藤子は光一の手を叩き落として茶を淹れる。
(……なんだかなぁ。俺は道理に外れてるような気がしてきた)
軽く脱力した。
いや。この際、性別は関係無い。「病めるときも」、「死が二人を別つまで」誰かを愛することができるのだろうか。
若すぎて、それは幻のように遠い話だ。
藤子と光一は、愛の名の下に自分を此処まで育てた。十八年、それは自分にとって途方も無い年月に感じる。二人に聞こえないように、「ありがとう」を小さく言った。親に感謝できる程度には、薫も大人になったのだ。
◇
午前八時。
薫と双子は揃って玄関に立った。
「藤子ちゃん、伯父さん、また新年に!」「良いお年を!」と双子。
双子の荷物は、ほんとうに財布と携帯電話だけだ。「拉致された」という表現は正しかったようだ。藤子は、こっそり二人に追加のバイト代と交通費を渡した。一万円は手付金だったらしい。
「おう! 今度来た時はゆっくりラオスの話を聞かせてくれ!」光一は声が大きい。藤子は傍でにこにこ笑っている。
「「任せて!」」
双子の猫かぶりには、いつも舌を巻く。
双子は深々とお辞儀をして敷居を越える。薫も後に続こうとした時。
「薫」
父親が自分を呼ぶ。
「……何、」
薫はぞんざいな口ぶりとともに振り向いた。
「もう大丈夫か」
払う間も無く光一は薫の頭を撫でた。本来、邪険にしたくなる接触だが、抵抗し損ねた。恥ずかしいことに、「うん」と頷いてさえ見せた。
「親父、」
「何だ」
「……頭。崩れるからやめろ……って、うわ、」
彼は、力任せに薫の頭をかき混ぜた。整髪料の力も借りて、薫の頭は見事にぐしゃぐしゃになった。雨上がりの野良猫のようだ。光一は、バン、と薫の肩を叩いた。
「何すんだよ」
「男前はどんな髪でも男前なんだよ!」
「……クソ親父」
「ははは、色ボケ息子」
薫は父親の手を払って家を飛び出した。光一と藤子は、顔を見合わせて笑った。実のところ、見送ってる場合ではないのだが。今日は、特別だ。
曾祖母らに挨拶を済ませた双子は、庭先で待っていた。薫が自転車に跨ると、歩き出した。ただし、体はこちらに向けてバックするように進んでいる。金髪と銀髪がクリスマスツリーのオーナメントのように美しかった。
(いっそのこと、あいつらツリーにぶら下がっていればいいのに……)
「チビ助、おせーぞ!」「早くしろ。田舎は電車の本数が少ねーんだから」
「解ってるよ……」
薫が追いつくと、二人は踵に重心を置き、くるりと前を向いた。
「「いいこと考えた!」」双子は顔を見合わせる。こんな時は大抵ろくでもない考えだ。「お前、自転車降りてみろよ」
「なんで、」
「いいから」
半ば奪うようにして、薫の自転車を柏が乗っ取った。
「何すんだよ。まさか、こんなところで自転車でアクロバットなんてしないよな……」
「衆! 乗れ!」柏は薫のぶつくさを遮って叫んだ。
「合点!」葵は、薫が反応するよりも早く、荷台に飛び乗った。
薫は二人の意図に気が付く。しかし遅かった。
葵が地面を蹴って助力する。二人は絶妙なコンビネーションで自転車を発進させていた。
荷台に手を伸ばす。しかし、振り切った指先は数センチ足らず、車体は走り去る。
「ふざけんな! 返せ!」
薫は自転車を乗っ取った双子を追いかけ走り出した。学校とは反対側だ。それもそのはず、双子は小野山駅に向かっているのだ。
葵が振り向く。憎たらしいほど赤い舌を出して笑った。「バーカ!」
柏も大声でそれに被せる。「バーカ!」
葵の突き上げた中指と、柏の地面に向かった親指が揺れる。
「転んじまえ! この無職ども!」
しかし、三人の罵倒は徐々に爆笑に変わった。あれで二十六歳のいい大人なのだ。間抜けで仕方ない。 そしてほんの少し、楽しかった。