6 大崎涼 その2
散々だった一日を思い出しながら、自宅の玄関をくぐった。まだ両親は帰宅していないが、隣の曾祖母らの家は、既に灯りが煌々とついて和やかそうだ。
薫は予備校に通っていない。周りの者の大半が通っていたが、彼は自学と学校で十分自分の目標は達成できると踏んでいる。無駄なことはしたくない、と妙に面倒くさがりなところがあるのだろう。昨年まではサヤカが家庭教師をしていたが。
終業後は早々と帰宅するか、教室で居残って学習するかのどちらかだ。そこで、今日は居残る気分ではなかった。自室に戻ると制服も脱がずに畳に寝転がり、苦手な白い蛍光灯をまともに見上げる。
何気なくポケットに手を突っ込むと、指先に例の連絡先が書かれた紙片が触れた。苦々しい気持ちになってそれをくしゃりと一度は丸めたものの、不穏な表情で睨みつけてきた大崎の顔が脳裏を過ぎった。
――『恨むから』
身震いしたいきおいのまま、断りの連絡だけでもしようと電話番号を押した。面倒くさがりの自分にしてはすばやい行動だ。メールでは、数回に及ぶであろうやりとりが面倒だと思っただけのことかもしれないが。
通常のプルルル、という呼び出し音で暫く待たされた後、囁き声、「はい、ナカムラです」ときた。
「ええーと、第一高校3年A組の真野薫と申します。……えー…。大崎涼さんの紹介で電話を。お時間よろしければ、少々お話できますか」
相手方は、名前を言った辺りで「ヒッ」と小さく叫んだ。敬語には自信が無かったが、そこそこ丁寧に切り出したつもりだった。
《はい……、中村奈緒と言います。同じく一高3年のC組です。涼は……幼馴染なんです》
「成程」薫は、彼女が同級と解ると、一歩退いた言葉遣いをやめる。「なんで俺に君の連絡先が渡されたの? 聞いた感じでは、君も戸惑ってるみたいだけど」
《……私、確かに涼に頼んでました。真野くんに渡して、って》
「あ、そう」拍子抜けした。意外と直球を投げてくる子だ。大崎の友人だというのも頷ける。「あのさ、先に言っておくけど、」
《い、言わないでください》
中村は薫の言葉を遮った。内気らしい喋り方と声のわりに図々しい指示に、若干眉が動く。
《あの……私と友達になってもらえますか》
間抜けながらも、「友達」をまともな意味か、そうでないほうの意味で捉えるかを迷って言い淀んだ。
《あの……真野くんと仲良くなりたいんです》
どうやら、まともな意味らしい。しかし、彼女の言葉には友情以上の関係に発展することを望む気色が漂っている。そんな下心にはいつもいらいらさせられる。もしかしたら、しおらしい声も媚なのかもしれない。
「人の言葉遮っといて『友達になりましょう』だなんてあるかよ。それに、俺、君のこと知らない。御免だね」
長い沈黙の後、電話口の向こうで彼女が泣き出した。これだから女の子は――、と思うにつけてやるせない。言い逃げして電話を切ってしまえば良かったと後悔したがもう遅い。いらいらしていたせいで、かなり厳しい物言いになったことを反省したが、かと言って、どうフォローすればいいかわからなかった。
「頼むから、泣かないでくれよ。そんな切羽詰って友情求められても困るよ!」
この際ハッキリ下心を認めて欲しいのだ。
中村は小さな謝罪の言葉を繰り返したあと、電話を一方的に切った。フォローの機会は奪われた。しかし、もう一度掛けなおしたり、伺いのメールを送るような誠実さは持ち合わせていない。
ため息をついて、携帯電話の着信履歴を見ようとボタンで切り替える。
――横田と話がしたい。
横田の連絡先を知らない薫は、先週の金曜日の着信録から彼の番号を呼び出すしか方法が無い。
ところが。
着信履歴はまるごと綺麗さっぱり消えていた。いつの間にか削除してしまったようだ。
「……マジかよ。って………あ、サヤカに聞けばいいじゃねーか」
ところが、サヤカも横田の連絡先は消去したと言った。完全に横田との連絡手段が失われた。薫は途方も無い脱力感に襲われ、うつぶせに体の向きを変えて畳に顔を埋めた。
そのまま、夕飯時に母親にたたき起こされるまで薫は眠り込んでしまった。
その件があったが故に、中村奈緒のことは完全に、薫の脳内から締め出されてたのだ。
それを思い出したのは、翌日の学校で、大崎が腕を組んで薫の席の脇に立ちはだかった時だ。彼女は呆れ顔で聞いたぞ、と言った。
「真野、よくも奈緒にこっぴどい仕打ちしてくれたね。泣いてた!」
「……なんで大崎がそれを知ってるの」
「奈緒は私のたった一人の親友。! 悩みや思いは全部共有してンの!」
「……ゴメン」
「私に言われても困る。……ま、でもこれで、あの子も目が覚めたかな。真野は最低な奴だって。何度言っても聞かないんだから」
大崎は、しらけた顔をしながら耳の下で括った髪を片手で弄んでいる。
「……それはつまりさ、」
「そうだよ。あんたが好きなんだよ、奈緒は」
秘められているべきはずの事をあっさりと言ってしまった。
「……だから、私は真野が嫌い」
ぼそりと言い残し、縛った髪を弾ませて向きを変え、去っていった。
この時、薫の中で不可解さが一本の線になって繋がった。彼女が女子とつるまない理由も、薫に厳しい理由も、男子に媚びない理由も、説明できる気がした。
自分のことは棚に上げて、少しショックだった。いや、彼よりも、他の男子がショックを受けそうだった。大崎に確認するまでも無かった。いや、確認なんて無粋なまねは慎むべきだ。
そしてまた今朝も、佐々木は薫に飛び掛るために、朝の平穏な3年A組の教室へやって来る。
そんな隣のクラスのお調子者に、クラス全体が大きなため息を漏らしたのだ。