59 逃避と回復
ようやくおさまった涙に安堵し、ため息をつく。
自分が思っているよりも、じくじくと不満やストレスはたまっていたらしい。
恥ずかしいことに、両親はそれを気づいていたに違いない。だから、気晴らしの相手として双子を遣わしたのだ。(結局彼らは役立っていないが。)
あの親のことだ、「何があった?」や「言ってごらん?」などと肩に手を置くことができなかったのだろう。たとえ聞かれたとしても、親にこころを語ることができるほど、薫は大人になってはいなかった。
何より、両親は少し不謹慎に楽しんでもいる。それは逆に、薫を気軽にする。
再び教室に戻る気はしない。そのままの足で保健室へ向かった。
「おかしいな……、」
何も考えないつもりでいても、処理しきれない・割り切れない思いは塵のように積もっていく。「単純さ」などの根本的な性格とは別に、薫が「深く考えない事」は大人びているからではなくて、単なる逃避だ。
パン、と両頬を叩いて保健室の戸を開く。勿論、軽薄そうな笑顔も忘れない。
「せんせえ! 具合悪いからベッド貸してください!」
「五十分」
ピシャリとした声が返ってくる。養護教諭は、書きものをやめて向き直る。
薫はおおげさに顔をしかめた。
「解ってるよ。毎回言うのはやめてよ」
「『やめてください』」
彼女はいつものように薫の語尾を訂正する。
ベッドはどれも空いている。寒々しかった。
そのうちの一つに飛び込み、カーテンを閉める。やはり、強張って冷たいシーツだった。
薫は保健室の常連なので、養護教諭は世話を焼かない。彼が体が不調でないことなど見抜いている。同時に、心の不調も見抜いている。
「先生、俺寝るからね、話し掛けるなよ」
教諭は呆れた声を出す。
「いつも真野君が話しかけてきているんでしょう。先生からは話し掛けていませんよ」
見抜いていても、いつも通りの反応をしてくれる彼女が有難かった。彼女は絶対に物分りのいい態度をとらないから、ここへ逃げてきたのだ。
教師に「解るよ」など言われたくはなかった。誰にも「解る」なんていって欲しくなかった。
薫は、枕を抱いて目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは佐々木の屈託のない笑顔だった。と同時に、藤堂の言葉を思い出す。
<……重い話、暗い顔は見せちゃいけないんです。こんなの、言う本人にとっては、一番簡単で楽な話だから>
<……自分語りは、誰にとっても気楽なんです。その割に、人って他人の内的な話には興味ないんです。不毛な話題です>
――夜の公園のベンチで、自分は藤堂に向かって何と言った?
実におざなりで陳腐なことを言ったはずだ。
そのくせ、まさに「他人の内的な話には興味な」かったではないか。
(……ったく、大した奴だよ、藤堂は。俺のこと、見抜いてたに違いない)
佐々木は、自身のことは笑い話として大声で語っていたのだろう。それがどんなに深刻で暗いものであろうと。現にあの女生徒は深刻そうに薫に伝えはしなかった。
(忘れよう。寝たら、またどうでも良くなっている)
本気でそう思った。単純さが今の薫には必要だった。
考え方や美学というものは、そう簡単に変わるものではない。少しずつ、世界と折り合いをつけて調整していくのが現実だ。
しかし、ストレスが溜まる度に子どものように感情を爆発させているわけにもいかない。横田に縋るのも違う。これから先は、逃げ込めるベッドもなければ、逃げを許す環境も無くなるかも知れない。
あるいは、どこまでも逃げられるが故に立ちあがることを忘れてしまうかもしれなかった。
いずれにしても、どこかで強くなることが求められるのだろう。立たねばならない日は遠からずそこに横たわっている。
静かに、彼は睡眠の沼へと降りていった。
◇
五時限目の終了を告げるチャイムの音で目が覚めた。寝始めてからまだ五十分は経っていない。しかし、彼はもそもそと体を起こした。カーテンの隙間から顔を突き出して小声で言った。
「せんせえ、ありがとう。俺、もう行くわ」
養護教諭は顔を上げて微笑んだ。
「そう。自分から起きられるようになって感心感心」
「茶化すなよ」軽く睨みつける。「せんせえ、ベッドどうもありがとう。また来るよ」
「……お大事に」
彼女はふわりと笑った。心地いい笑みだった。
少しだけすっきりして、保健室を後にした。
六時限目は地歴だった。各人、選択科目によって教室移動がある。
クラスに戻ると、友人らが「大丈夫か」と声を掛けてくる。もう、大丈夫だ。
席に戻って、世界史の教科書と問題集を引っ張り出す。
地歴・公民は、教師の努力よりも生徒自身の努力がものを言う科目だ。当然だが、単発的な知識の記憶ではなく、体系的な理解の方が効率がいい。
おまけに薫としては、センター試験ではほぼ十割取らない事には武器にならない。得意科目にはなってもいいが、間違ってもこれで足を引っ張ってはいけない。
もう何度出合ったか解らないほど繰り返した問題を解いていく。解く、というよりは処理をする、の方が近い。
教室にはカリカリ、コツコツという芯が磨り減る音が響く。
この受験生の仮面を被ったクラスメートの中で、何人が「下らない悩み」を抱えているのだろうか。
一体何人が、仮面の下で涙を流しているのだろう。
そんな人間は、酷く少ない気がした。
(まったく……大したもんだよ)
今日はそんな言葉で感心してばっかりだ。