58 落涙
チャイムが鳴ると、生徒らはバタバタと席に着き始め、現代文の問題集を引っ張り出す。
そんな中薫は、ひやひやとした心持が落ち着かない。咥内が乾いていた。
(俺は、俊について何も知らなかったんだな)
それが頭を占めていた。友達としても、彼のことを知らなすぎた。
(俺は、多分、こう思ってた)
淡々と、心地悪い気持ちの源泉を掘り起こそうとしている。
(俊は俺の後を追うために勉強しているんだ、って勝手に思ってたんだ。俊は当然、俺を追うものだと思ってたんだ)
自分の不遜さと、そこはかとない依存心を発見した。
佐々木はこの先も、自分の傍で「呆れるほど」明るく笑ってくれるのだと、「呆れるほど」愚直に信じきっていた。
気付いた途端、泣き出したいほどに心細くなった。当然だが、佐々木は佐々木で彼の進路と状況がある。
もし佐々木がただの友人だとしたら、大した動揺も無かっただろう。佐々木の薫に対する想いが特質であるため、薫の佐々木に対する感情も特別だった。自分で意識しているよりも、薫は佐々木の存在と気持ちを「ありがたく」思っていたらしい。
理屈でも道理でもなく、捧げて薫を包むもの。溢れて零れて、薫を溺れさせるもの。佐々木の想いは、そういう性質だった。
更には、独り立ちできている人間だと思っていた自分への疑念。これっぽっちの別れで、心は酷く痛んだ。
処理能力のキャパシティを超えて、感情がどっと溢れる。割り切ることが不可能な気持ち。
シャープペンシルも、問題集も、教室も、全部が全部、居心地悪く感じる。
(あ……なんだよ、これ。全部、全部、全部、全ッ部、厭になった)
(俺は、一体どうしたかったんだよ)
普段だったら、絶対に思い悩まないことだった。
無意識に募った受験勉強へのストレス。自分へのショック。佐々木への淋しさ。双子への苛立ち。恋しさ。芋づる式だった。沈殿していたものが、ぐしゃぐしゃと音を立てて姿を現してくる。
この心細さはどこに向かっているのか。誰に向かって開放すればいいのか。と言うより、誰に縋りつきたいか。
――横田。
その胸に飛び込めたらどんなに良いかと思った。
飛び込んで、「俺は友達と離れたくない!」と叫べたらどんなに良いか。その背中をきつく暖めてくれたらどれほど安堵するか。
彼の声で「大丈夫だ」と言ってくれたら、どれほど救われるか。
一本の電話でも繋がれば少しは楽になるかもしれない。しかし、薫が今まで信用してきた自分は、その甘えた行動を許さないだろう。だから今まで、その気になれば手に入れられるはずだった連絡先も、求めずに今日まで時が経った。
弱くて格好悪い自分を、もう認めたくない。誰かに縋るような真似は、出来なかった。
そこまで考えたとき。
(……あ、ヤバ……)
解いている最中の現代文の問題用紙に、パタタと二滴、透明な液体が音を立てて落ちた。
(うわ……)
止らなかった。
これほどまでに押し出すような涙を流したのは初めてだった。ぼろぼろと、まさにうろこが落ちるように溢れてきた。同時に、感情も溢れる。嗚咽も込み上げる。
「……ッ!」
がたん、と彼は目を押さえて席を立つ。
必死に問題と向き合っているクラスメートの大半は、薫の動きに無反応だ。
「どうした、真野。もう終わったのか?」
教師の声は暢気だ。それに妙に腹が立つ。更に、今薫を苛むような葛藤や苦しみ、淋しさを乗り越えて教卓に立ち、「経験した者」としての顔をさらしている教師に無性に腹が立った。
「……鼻血が出ました。保健室に行ってきます」
震える声で、それだけを言う。それを聞いたクラスメートが茶化す。
「薫ちゃん、佐々木のことでも考えてたのか?」
勿論、何も知らない者の冗談だ。その冗談に乗るほど、今の薫は余裕が無かった。そして今一番気に障る分野の冗談だ。それを無視して薫は教室を抜け出す。
その無視は彼の記憶には残らないだろう。彼にとっては、鼻血に焦るクラスメートにしか見えなかったのだから。
今のクラスメートも、教師も、佐々木でさえも、この程度の事では泣かないに違い無い。にも拘らず、心細くなって、恋しくなって少女のように涙を零す自分が不甲斐なかった。
なぜこれしきで涙が溢れるのか皆目見当もつかない。どんなに悲しかろうと、泣くつもりなど無かった。誤爆のようなアクシデントだ。
惨めだった。格好悪かった。
「……なんで、」
戸を出て直ぐに、我慢しきれず、しゃがみ込んで膝を抱えた。
涙が、スラックスに染み込んでいく。