53 招かれざる客 その5
「戦略失敗だね、睦月くん。時間を一年ばかり巻き戻して、今と同じように迎えてくれたら、ご褒美に抱いてやるよ」
「無茶言うなよ!」
「無茶言ってるのはお前だ」
ぴしゃりと横田は切り捨てた。
「馬鹿じゃねーの。先生がやりまくってようが、貞操を守ってようが、片恋なら関係ねえだろ!」
「関係あるよ。胸張れなくなったら終わりだ。相手がどう思うかが問題じゃない、自分の問題だ」
道徳的・倫理的な問題ではなく、美学の問題。
「先生が今更それを言ってもな、」
訳わかんねえ、と睦月は頭を振る。横田はその両頬を掴んで顔を向かせた。
「……お前、男としたことあるの」
彼の返事は無い。横田は手を離してため息をつく。
「なあ、どういうことするのか解ってるのか」
「解ってる」妙に仏頂面になって横田を見た。
「葉月……俺の従兄も『そう』だから」
「葉月」は宗家の長男だ。彼らが険悪な仲であることは聞いている。彼への愚痴をよく聞いた。しかし、彼の「嫌いだ」はある意味で「好きだ」なのかも知れない。横田はそこに、一応の解答を置くことにした。
そこまで考え、彼を退けるための次の一手の策をめぐらせている横田は無防備だった。
小生意気な少年の奇襲を、いとも簡単に許した。
睦月は上半身を伸ばし、空気のように軽く唇をのせた。
余りに優しいそれは、羽が触れたものだと勘違いしそうになる。
横田は思わず目を丸くした。キスに驚いたこともあるが、その不意打ちは、ある甘い既視感を呼び起こした。
「お返しだ」と、そう聞こえてきそうだった。愛しくて堪らない一人の人間の面影が過ぎる。ビルの向こうに消えた、少年の残り香が漂う。
(……あ、ヤバい)
思わず体が熱くなる。彼は焦って睦月の肩口を掴んで引き離す。
「何すんだよ。……びっくりした」
「ざまあみろ。アホ面。いい気味だ」
何も知らない睦月は得意になる。彼は席を立ち、外套に腕を通した。鞄やマフラーを掴み、横田に向かうと人差し指を突きつける。
「先生、今をもって解雇な」
憮然として言う睦月を、横田は肩肘付いて眺めた。
「いきなりかよ。第一、雇用者はお前じゃない」
「うるせえ、俺が解雇って言ったら……」
少年の子供っぽい言葉は、強引な力によって阻害された。横田は睦月のネクタイの結び目に指を差込み、自分の腕の中に抱き寄せた。睦月が体を強張らせたのが、厚い外套越しに伝わってきた。
横田は笑う。
「なんだよ。誘ったくせに怖いの。でも、俺は今のキスだけじゃ物足りねー。それに、やられっぱなしは寝覚めが悪い」
なぞるように、唇を優しく重ねた。それだけでは終わらない。
巧妙に唇を割り開き、横田が主導権を行使する。甘えるように、睦月の口は横田を受け入れる。
心細い苦しげな呻きをあげ、睦月の拳が横田の服をきつく握る。横田の手の侵入を催促する。
しかし、横田は卒然と少年の体を引き剥がす。睦月は支える力も無い様子でその場に腰を崩す。
横田の方は、相変わらず余裕の笑みは消えていない。楽しげに口の端を舐め上げた。本来、彼はこういう人間だ。
「ど? キモチイイ?」
「…………」
少年はまゆ毛を下げて脱力している。彼のキスを食らったものは大抵こんな顔になる。横田は睦月の口の端を親指で拭く。大人しく、されるがままになる睦月。
「キスだけでそんなになってちゃ、セックスはしてあげられないね」
睦月の下あごに手を差し入れて、うっとりするような笑みを見せた。
「餞別。」
たったこれだけの行為で、少年の体がどんな状態になったかを横田が知らないはずが無い。しかし、あえての「拒絶」をする。
睦月は、黙ったまま荷物をまとめ、コートのボタンを閉める。熱を持った箇所はそれによって隠される。彼は頭を振って、更に髪を乱した。
横田は微笑みのまま、睦月がローファーに足を突っ込むところもきちんと見守った。彼が戸に手を掛け、泣きそうな顔で見上げてきたのも笑って受け流す。
「達者でな、」
それにも睦月は何も答えない。ピシャリと引き戸を閉めて、冬の外気へと姿を消す。小さな足音は、彼が走っていることを伝えた。
やがてエンジン音は遠ざかり、彼にまつわるいろいろ全てを運び去ったことを知る。
睦月が自分に「誰か」を重ねていたように、横田も睦月に「薫」を重ねていた。
横田は迷う。今のは決して、正しい別れ・大人の対応ではなかった。自分は好き勝手にやってきて、他人にはそれを許さない。何より、翻弄する立場でいたい自分が、易々と心情を吐露したのが許せなかった。自分が煽られたのが、悔しかった。
自分が幼稚で、我侭なことに気づく。
(じゃあ、どうすればよかったんだ。)
(大人の対応って、どんなだよ。)
(迷わず抱いて、なんでもないような顔することが大人なのか?)
(何も言わずに、ただ断ることが大人なのか?)
(性に惑わされないのが、大人なのか?)
何もかも、横田の方法ではなかった。何をとっても、「楽しい」とは思えなかった。
(そんなの全部、嘘くせえ)
からかったつもりは無い。大人にあしらわれる事の腹立たしさは、横田自身解っているつもりだった。
一つ、小さなため息をついて玄関の鍵を閉める。
「……あ」
しょうもないことをしくじったことに気付く。横田にしては、迂闊だった。
少年はことごとく、横田の平常を破っていった。
本日でようやく横田くんのお話は一区切りです。
たった数十分の、同じ話題の会話に何日・何文字かけているのか、という感じだよ!
次回からは、薫に話を戻したいと思います。