52 招かれざる客 その4
「白鷹家に電話して、迎え呼んだから。迎えが来るまで勉強な」
ばん、と過去問集やら参考書やらを机上に置いた横田。酔いはいつの間にか醒めていた。睦月は怪訝な顔をする。
「なんなら予備校で解らなかったところを聞けばいい」
「てか俺、『K大特進コース』なんだけど。なあ先生、知ってるか。こういう大学に合格する奴は、三年になった時点で確信してるんだよ。今はみんな、有意義なことをしてるぜ? お・れ・も・な!」
「……っとに可愛げのねーガキだな……」
横田はオレンジジュースを一気に飲んだ。喉に刺さるような果汁百パーセントだ。
「迎えとか……余計なことすんなよ」 睦月は苛立った声を出す。
「あのさ。俺、今晩は場合によっては帰ってこなかったんだぜ? その時はどうするつもりだったんだよ。ケータイに連絡もしねーし」
「夜中に電話掛けるつもりだった。先生はここに帰らざるを得ないし、深夜に俺を家に帰すような非常識もしないだろ?」
もし横田がサキの家へ行き、そこで睦月から電話がかかってきたら、帰らざるを得なかった。いくらタクシー代がかかろうとも、人様の子供であり顧客である人間を放っておくわけにはいかない。
(こいつ……都内のタクシーの深夜料金とか考えてくれてないよな?)
「……お手上げだよ」
横田は、相手を煙に巻くことはしても、自分がそんな目にあうのは真っ平だった。
倒れこむように炬燵の上に顔を伏せた。疲れていた。授業の後は、サークルのイベントで幹部として走り回った上に、この押し掛けだ。本当なら、帰宅して風呂もそこそこにベッドに飛び込みたかった。
「……落とせると思ってたんだよ」
「は?」横田は顔を上げる。
「先生のこと、落とせると思ったんだよ。興信所の奴が言ってた。先生は、男を連れ込むし、女の家にも泊まるって。倫理が無いんだよ、あんた。だから、生徒だってだけで拒否されるわけねえし。俺の友達なんて、カテキョの女とやりまくってるって、」
横田は、色々を訂正するのが面倒になった。大事なのは、今はそうではないということだけだ。
彼は姿勢を正さないまま喋った。
「なあ睦月、知ってるか。受験生は禁欲的であるべきなんだよ」
「俺に言うことかよ。これだから年上はクソなんだよ。解ったような口ばっかききやがって」
「うわ、俺そういう風に見えた? ジジくさ!」と、横田は笑う。
「そういう風に、俺の文句も受け流すところが嫌いだ!」
その不平を聞いて、横田は楽しそうに微笑む。
結局、彼らは勉強もせずにだらだらと無駄話を続けていた。主に、睦月の愚痴を聞いているようなものだったが。
横田は身を起こして伸びをした。道路がスムーズなら、そろそろ迎えが到着する頃だ。
「睦月くんはさ、クリスマスはご家族で過ごすの?」
彼は首を振った。妙にしおらしい。
「……従兄の友達の集まりに混ぜてもらう」
睦月の話によく出てくる、「従兄」。嫌いだ、嫌いだと喚く割には付きまとっているようにも思う。彼は、驚くほど素直だと思ったら、うんざりするほど天邪鬼だったりした。
そこで、睦月の携帯電話が震える。彼はすぐに通話ボタンを押す。すると、爆笑したくなるほど生真面目な切り返しを聞くことができた。よく訓練されたマナーだ。
頬を膨らませて笑いに耐えている横田を、睦月は小突く、受話器は宛がったままだ。
「……あ? なんだ、山内さんかよ。……え? もう着くの? ああ、そうそう、庭がある一戸建て……そう、九龍城みてえな一軒家」
今度は逆に、横田が睦月の頭を小突く。
「ああ? いいよ、だってカテキョの先生だもん。うん? そう、待ってればいいから」
何らかの了解を得たところで、彼は電話を切った。
「あーあ。タイムアップだ。迎え来ちまったじゃねえか、先生のせいでよお」
「残念でした」横田は冗談めいて肩をすくませる。
重厚なエンジン音が近づいてくる。外車特有の音だ。ヘッドライトの明かりがカーテンの隙間からちらつく。
「なあ、考えてみてくれよ、先生」睦月は呟いた。
「考えた」横田は即答する。
「あんまり誘うなよ。俺だって人間だ、睦月みたいな上玉見てたら食いたくもなるし、『大人の退け方』なんて、まだ知らないね。だからバカ正直に『好きな人が居るの!』って言うしかない」
横田は奔放に過ごしすぎたせいか、新しい餌(古参には耐性ができている)に対する我慢の仕方を学ばずにここまできた。誘うことと落とすことばかり覚えてきた。
「じゃあさあ……!」
反論の為に口を開いた睦月を、笑顔と片手で制止する。
「たーしーかーに。想い人がいたって『俺は』欲情する。そんなの、慰安の手伝いに何か見るのと同じくらいありふれた気持ちだろ? それを否定するのは嘘っぱちだし、ごまかす奴を軽蔑するよ。でも、欲望に従うかどうかになると、個人の美学だ。試してみる奴もいいし、流される奴も構わない。ただ『俺は』、しないってだけ。ほんとに、そんな薄っぺらいモノが俺を引き止めてンの。『好き』って気持ちとは別の働き。だから、もうすこし容赦してくれよな」
苦笑する横田の傍で、睦月は黙って今の言葉の意味を考えている。
横田にしては珍しく、はぐらかさずに本音を語った。睦月の必死さに対する誠意だろう。
「俺も、前半は自覚してるよ。……でも、俺は試す人間だ」一旦言葉を区切り、睦月は乾いた笑い声を上げた。「これさあ、俺が彼女に同じことを言ったら、絶対納得してくれねえと思う。なーんで、綺麗な物事しか許さないのかな、」
「自覚」。恋を否定しておきながら、想い人がいることが前提の言い分だ。こういうところが、まだまだだ。横田はそこに気づかない振りをして、頷いた。
「睦月、お前のそういうところが俺は好きだ。話ができるから」
ただし、と言葉を続ける。
「もし、今夜お前を抱いたら、俺は明日の朝には自己嫌悪で神田川に入水自殺する。宇治川でなくて何よりだ」
と不謹慎なことを大真面目な顔で言う。睦月は薄く口を開く。
「……先生、そんなに好きなのかよ、その人間が」
「ああ、好きだね。今すぐに抱きしめて、ふっかふかのベッドに一緒に横になって、前髪をさらっと分けて、おでこにチューしたいくらい大好きだね。その後は瞼にチューしたいね」
横田は手を伸ばして、睦月の前髪を持ち上げる。つるっとして綺麗な額だ。ただし、眉間には不愉快そうに縦皺が刻まれている。
「……どうしてだよ。そんなに想いを深める何かがあったってのかよ! 偶然みたいなもんじゃねえか」
おおよそ、横田に向けられた言葉ではない。本来の想い人に向けられた言葉だ。
何かがあったから、「好き」が深まるものではない。それはただ。
「ほんと……偶然みたいなもんだよ」