50 招かれざる客 その2
横田が教えているのは、やはり(?)文系科目全般だ。
理系科目に関しては横田の知るところではないが、成績表や模試の答案を見る限り、可愛げが無いほどの安定感だった。
横田の使命は主に、僅かに不安定になる国語科の強化にあった。数学が得意なら、国語も同様に安定するはずだ。この科目も、当然に緻密な解法と鍛え方があるのだ。
語学的な勉強で補完できる古文はさておき、現代文が問題だった。凛聖学園で鍛えられた睦月の基本的な資質は平均のはるか上なので、充分な偏差値は取れていた。しかし、読書をするような惰性で解いているうちは安定感が無い。
試験問題として耐え得るような文章の多くは、一言一句・助詞の一文字にまで神経がいきわたり、構造的に作られているものだ。故に、理系頭脳の人間こそ、型にはまれば威力を発揮する。横田はそれを教えたかった。
ただし、睦月は文系に進む。個別試験での国語の配点は高い。高レベルの世界の戦いでは、僅かな歪みが足を引っ張る。彼の志望する大学は、文理問わず、とにかく広範な理解と応用力が求められた。
今となっては、横田の助力はほぼ必要ない。そのせいだろう、睦月はとうとう彼を選んだ「当初の目的」のために動き出しだのだ。
そんな事情を思い、横田は言う。戸惑いで硬かった態度も、段々といつもの軽い調子に戻ってくる。
「あ。もしかして、最初から『そういう』つもりだった? おかしいと思ったんだよねー。K大志望のお前が……、あの『白鷹グループ』の跡取り候補のお前が、俺程度を指名したなんてな」
当然、現役大学生に教わるよりもプロの手を借りるべきだ。そして彼の家にはその経済力があった。
「嫌味かよ。俺はもう跡取り候補じゃねえって」
「『今度は』、嫌味じゃない」
横田は相変わらず居間に腰を落ち着ける様子が無い。睦月少年と、充分な間が取りたいかのようだ。
睦月は平然として言い放つ。
「抱いてよ」
実にストレートで、気軽だ。それは横田の気に入る態度だが、頷くわけにはいかない。
「ずっと、それだけ頼みたかったんだ」
横田は苦笑して頭を振った。彼も彼で気軽だ。
「睦月は賢いし、見た目も悪くない。魅力が無いんじゃない、むしろ抱くにはもってこいだ。でも、客相手にバカやるほど、俺も阿呆じゃねえよ。……ったく、知ってるのか? 会長や親は、お前の趣味を」
「会長」とは「白鷹グループ」の会長のことで、睦月にとっては伯父にあたる。
「『両刀』だから、誤魔化してンだよ。紹介できる彼女だっているぜ、ちゃんと」
要するに、睦月には裏も表も無く、性別も関係ない。オールラウンダーなのだ。
「だったら何も、蛇の道を選ぶなよ」
「『両刀』ってのはそのまんま機能の話だって。俺、精神的には男のほうが好きなんだよ。女はバカだし、情緒が強すぎるだろ。面倒じゃん」
「全てを見たような生意気言っちゃって」
ついでに、「お前もバカだろ?」と言いたいのを我慢する。
「そんなに心配すんなよ。俺、恋とかそういう馬鹿げた病気には罹らねえし。先生の迷惑にはならねえから、」
懇願するような瞳を急に見せる睦月。横田は、外套を抱えた。室内は暖房で暖かくなっていた。睦月が長い間暖めていたのだろう。
「へえ。『恋は馬鹿げてる』、ですか。詩的ですね。フランス映画みたい」
「だって、そうだろ! 恋は一時的な病で気の迷いだ」
横田はぶっとふきだして笑った。
「はは、睦月。陳腐なこと言うなよ! 『恋は素敵で無敵』だぜ?」
「どっちが陳腐だよ!」
お互いに顔を顰める。ただし、横田はふざけている。
「確かに、百年の恋も冷めれば馬鹿らしくなる。熱中している人間を見て、それしか語らない人間を見て、無駄だとも思う。でも、馬鹿げていても、落ちるときは恋に落ちるんだよ。真実だろ? 見下しているものに落ちるのが、怖くて許せないんだ」
「俺は絶対に恋なんて……!」
横田は首を振って微笑む。決して睦月を論破しようという種類の気持ちではなく、あくまで漂うような言葉だ。
「なあ、恋だって人間活動の一つだ。それが睦月にとってはムダで、誰かさんにとっては罪悪で、神聖でもな。在るものは在る、でいいだろ。ま、そうは言っても、『否定』が睦月の『平生の主張』なら、俺がどうこう言うハナシじゃないね」
横田は知っている。睦月はむしろ、恋しているからこそ、そんな自分を否定したくて必死なのだ。それはおそらく、自分への恋心ではないことも感じている。彼の抱える「苦悩」だ。
かと言って、「恋の素敵さ」を説き、凝りを解してやるほど傲慢なつもりも無かった。睦月自身が決着を付ける物事だ。あるいは最終的に、「恋愛は無駄だ」と発見するかもしれない。そういう考え方だって、在っていいに決まっている。
横田はようやく足を踏み出して、彼に背を向ける。
「生憎、俺はその『馬鹿げた病気』とやらに罹ってるから、お前を抱かない。それが一番の理由!」
睦月は去り行く横田に叫ぶ。
「じゃあさぁ! つまり俺は、先生にとって、抱くに足る人間ってことだろ!? 理性でセーブするくらいならさあ! なあ……そんくらいは自惚れて良いだろ!?」
睦月の「認めて欲しさ」に、横田は心が痛む。間違った方向性だとも思うが、それはそれで睦月の思考なのだ。
睦月はまだ叫んでいる。
「なあ! 先生だって人間だろ! 恋してたって、別の人間としたいと思うだろ! 格好つけんなよ! 俺を惨めにするなよ!」
横田は自室のドアを閉めた。
俺だって惨めだよ、と横田は独り呟く。
抱きたい人間がいるのに届かなくて、据え膳に手っ取り早く食いつきたくて身を震わせている。そこに心は無い。それを見事に言い当てられている。それでも構わない、と睦月は言う。「戯れ」だからだ。
(はは。コレじゃ、俺もサキちゃんと一緒だな)
惨めだった。