4 トイレの個室は逢瀬の場
「ばッか……!」
咄嗟に叫びそうになったものの、何故か声をひそめてしまった。むしろ騒げばよかった、と思ったときには、佐々木は猿のように身軽に上り詰めている。そのまま見事としかいえない身のこなしで、猫のようにしなやかに着地した。部活を引退してもランニングと筋トレを欠かさない彼にはなんでもないことだ。
降りてくるなり、蓋の閉じた洋式便器の上に薫を座らせ、手を差し込んでやや強引に顎を上向かせる。
「お前……普通に入ってくんなよ。もし俺がまともに『使ってたら』どうするつもりだったんだよ」
「それはそれで……見ものだよな」
「下品だよバカ野郎!」
自分で話題を振っておきながら、叱りつけるしかない。睨みつけても佐々木はへこたれない。むしろぐっと顔を近づける。普段からそうだったな、と気付いても、何故だか今は不快感が込みあがる。
「なぁ、さっきの本気だぜ」
「何だよ、さっきのって」
分かりきっていたが、あえて確認する。
「だから。薫ちゃんとしたいんだって」
「……断る。ばらしたいならばらせよ。俺、どうでも良いし」
「そんなのどうだっていいよ、俺だって」佐々木は、薫の顎を解放する。
「ずっと狙ってたんだよ、薫ちゃんのこと。初めてを誰かに奪われたのは気に食わないけど、男とできるンなら、俺もう遠慮しねえし。俺さあ、こんなんだから、さっきので気付いたんだよね」
ころりと笑う。なにも重いことなど考えなさそうな軽薄さでもある。
「はあ……? ちなみに、それは俺が好きって事?」
「んー? ちょっと違うなあ。……分かるだろ、好きじゃないけどそそられること、あるだろ。薫ちゃんキレーなんだもん」
「そりゃあ……あるけど」男の心と体は別物、とかいう陳腐な言葉を意味しているのだろう。薫は、それを実感することはあるものの、動物的で気に食わなかった。それでもお前には何も感じないよ、と言い加えた。そこは、勘違いされては困る。
「……佐々木、そもそも女と寝たことある?」
「ないけど」
――きっぱりと、堂々と言ってのけた。
まじまじと佐々木を見上げると、彼はいい顔をして自分を見下ろしている。
「……マジで童貞だったのかよ……。サッカー部のネタかと思ってた……。まずそっちを試してからにしろよ、筆下ろしが男とか……それは、いいの?」
「女の子誘うの難しいんだよ。ふにゃふにゃしててコエーって」
「どう考えても男の方が難しいだろ! 第一、お前彼女いただろ!」
佐々木は、ぽりぽりと頬を掻いた。
「や……なんか拒否られてから誘えなくなって……もう別れたしなあ、」
薫はがっくりと項垂れた。
「お前……意外すぎる。それより、どう考えても佐々木はまっすぐな男だよ。『キレーだからしたい』だなんて、女への欲望が間違って俺に向けられただけじゃねーか」
「でも、俺、自分でするとき、薫ちゃんを思い出しながら、」
「ああああ! もう、そういう下品なことは言うな! だから女子に嫌われるんだよ!」
すると、佐々木には似つかわしくない、微妙な表情で薫を見つめる。あえて形容するなら、悲しそう、その範疇だ。
「なぁ、『間違って』ってさ。男が男に欲情するのは間違ってるわけ?」
薫は言葉に詰まった。実際に自分が経験したからだ。
「……狙った相手と交渉成立する確率が限りなく低いって意味では間違えてるよ。女でもいいなら女にしとけよ。間違いないから」
「俺バカだから差別だなんだだののはよくわかんねーから、薫ちゃんの気持ちは気にしないとして。とにかく、俺、セーカクに言うなら、『女』としたいわけでも『男』としたいわけでもなくて、薫ちゃんとしたいわけ」
「それは俺がお前とする理由にならねーよ。俺は主体性の無いセックスはしない主義だ」
(唯一、それを破られたのが横田だ)
――トイレに入ってくる者がいる。暢気そうに鼻歌を響かせている。誰でも構わない、この男をどうにかしろよ! と泣きつきたい気分だった。
と、実際にはそういうわけにもいかない。反論しかけた佐々木の口を手で封じた。個室に二人で閉じこもっている場面なんて人に知られたくないというのが本音だ。
「お? 大便してんのかぁ?」
案の定、彼らは個室のドアを蹴る。この高校の男子生徒の悪い癖だ。
「おい、くせーぞ!」
向こう側の人間は、ひひひ、と不愉快な笑いを漏らす。どうやらクラスメートの人間らしいと判明する。
「俺だよ! 失恋の悲しみに打ちひしがれてるんだ! ほっとけよ!」
彼らは、「なんだ、薫ちゃんか、悪かった、」と言って個室から注意を逸らした。
ほっとするのもつかの間、佐々木は口に宛がった薫の手のひらをチロチロと舌先で舐めだした。
(ばか…何してるんだよ! 止めろ!)
佐々木は目だけで笑うと、薫のシャツの襟を掴んで引き寄せた。
(手って意外と敏感なんだぜ? 想像してみろよ、どッかの尖りが舐められてる様をよ、)
佐々木は手を引き剥がし、直接下唇に吸い付く。――光の早さだ。抵抗する間も無く薫の唇に傷をつけるが、出るはずだった悲鳴を飲み込んでしまった。
身を離し、ジワリと血が滲むのを佐々木は満足そうに眺めた。
「じゃぁ、薫ちゃんが自分からおねだりしてくるようになるまで俺が頑張ればいいんだな?」
「何、言ってンだよ……、」
まだ結ばれていない薫のネクタイを緩く巻いて、彼は耳元で囁いた。
「覚悟しろよ」
その言葉と共に、ネクタイが締められる。目を剥いたままの薫を残して、佐々木は個室を出て行き、手を洗っている最中の先ほどの悪戯人間の肩に飛び掛る。
「あれ、俊も個室の中にいたの」
「ああ、余りにも薫ちゃんが泣くもんだから慰めてやってた」
「はは、意味が二つに取れるぜ?」勿論、彼は冗談で言っている。
「当然、コッチの方」
佐々木がまた下品な仕草をしてると思うと腹が立ってきた。彼らは、噴出して笑う。
「お前ら、なんか怪しいもん。洒落にならねー。いつも乳繰り合ってるもんな」
「おいおい、みんなの薫姫だぜ? 抜け駆けすんなよ?」
乳繰り『合ってる』なんて言い様は心外だった。佐々木が勝手に絡んでくるのに。
「はは……冗談だって」
三人は笑いながら去っていった。冗談。冗談ならそれでいい、そう思ったのだが。