3 昼休みが始まる
気がかりなのは佐々木のことだった。
自分の行為を蔑んだのかと思いきや、誘い文句を漂わせた。その言葉を裏をかかずに理解するとしても、来るもの拒まず……という訳にはいかない。女性でも、サヤカ以外は断ってきたのだ。佐々木が強請っているとしたら、大人しく屈するわけにはいかない。言うなりになるなど、靴を舐めさせられる下僕のようなものだ。それは自尊心が許さない。
(一昨日のことが佐々木によってバラされるとして、どうせ高校生活も残り僅かだ。気味悪がられて友人がいなくなろうが構わない。そんな噂で消えるような友人なんてこちらからから願い下げだ)
そう考えると随分楽になった。階段を二段飛ばしで駆け上がった。
残り五分の現代文の授業に滑り込んだ。教師は、黒板に向いていた面を薫に向けて渋い顔をした。
「真野。もう終りだぞ。何してた」
同級生が余計な野次を飛ばす。
「先生、こいつ、失恋したんで保健室で泣いてたんです!」
男子はどっと笑い出す。女子もくすくす笑ったりと密やかに会話を交わしている。思わず顔が赤くなる。おおっぴらなからかいの対象なることに慣れていなないのだ。
一方、クラスメートにとっての薫は彼らを見下ろす「高踏派」。その彼が自分たちと同じように苦しんだと言う事実は一種の親密を作り出す。それを利用するか打ちやるかは彼の自由だ。
「……保健室のベッドのカーテンレールで首つろうかと思いました」
薫の不謹慎な言葉にも忍び笑いが漏れ、教師は困った顔をする。
「分かったから、座れ。ジャージのままでいいから」
座っても、ちらちらと視線を送ってくる連中が後を絶たない。薫は、辛うじて力なく微笑んでみせる。中には食べかけのメロンパンをまわしてくる奴もいた。意図がさっぱり分からない。
今日は、散々な目にあいそうだ。やがてチャイムがこの拷問の終りを告げた。
ジャージ姿のままの薫は、制服を抱えて教室を出た。昼飯時に着替えで埃を立ててはまずい。
女子達はグループを作って弁当を食べ始める。男子は、殆どが早弁を済ませていて、好き勝手にギターをかき鳴らしたり、持参のボールを抱えて体育館やグラウンドへ向かっている。昼休みまで受験勉強についやす者もいるから驚きだ。
戸に手を掛けた薫に一人の女子が話しかけてきた。
「真野、失恋したって本当?」
小柄で髪の長い、3Aで評判の女子、大崎涼だ。
薫が何でもなさそうにあっさり頷くと、「ご愁傷様……、」と言いつつそうは思ってなさそうな表情で薫を見上げる。
彼女は自分でも可愛いことを承知していて、どんな人間にも気後れすることなく話しかける。それでいて媚びない態度は、案外、内気な男子にも好まれるのだ。薫は、そんな彼らの視線をこっそり感じる。
「どうも。本当はどうでも良いけど、みんな楽しそうだし、悲しいフリしとく」
大崎は華奢な肩を揺らして笑う。朝、一生懸命巻いたであろう毛先の巻きもそれに倣って弾んだ。校則違反だが、髪をほんの少し染めている。
「じゃぁ学校中に『真野薫は狙い時だ』って言いふらすよ。『友達』の後釜狙ってる子がいるかもよ」
ついでに佐々木のせいで『猫疑惑』も走り回るだろうな、と心の中で補足する。
「……下世話な話をするなよ。なんで大崎がそれを知ってるんだ」
「下世話、って自分のことでしょうが。彼女は作らないの?」
「大崎が彼女になってくれても良いよ」
「あんたみたいなもやしはお断り。出直しな!」
つんけんした態度で言って欲しいことを言ってくれる。背中に刺さった緊張感のある男子の視線が柔らかい同情のこもったものに変容して、ほっとする。
手厳しいな、と言って教室を後にした。大崎は、私より可愛い男なんて認めないと追い討ちをかけた。
教室を出たところで、最も会いたくない人物と出合った。佐々木だ。個人ロッカーの前で、人の迷惑も省みず、リフティングをしていたが、薫の姿を見ると、そのボールを彼に向かって蹴ってきた。思わず制服をぼとりと落としてキャッチする。服に廊下の汚れが付く、と気付いた時にはもう遅い。
「ナイスキープ!」
「……あぶねーな」睨むようにして彼を見た。
「でも取ったじゃん。まだジャージなの?」
「着替え損ねたんだよ」
サッカーボールは佐々木に返さずに掃除用具入れに突っ込む。そして地に落ちた制服を拾い上げる。案の定、ブレザーが白く汚れた。
「意地悪すんな。ボール! 返せよ」
「こんなところでやったら邪魔だろ。お外でしなさい」と、廊下の奥を指す。佐々木は、肩をすくめて笑った。
「……ハイハイ。薫ちゃん、廊下で着替えるの?」
「いや、トイレで」
「ふうん。ズボンの裾とか床につけるなよ」
佐々木は笑って薫を見送るだけだ。彼に先ほどの違和感は無かったので、つい安心してしまった。
教室の近くのトイレの個室に入って着替えを始めたのだが、個室の戸をガンガンと蹴るものがいる。扉がガタガタと揺れてはドアノブがガタつく。冗談にしては激しすぎて気色悪い。限度というものがあるし、いい年をして幼稚なちょっかいに呆れてため息が出る。
(個室を使うとすぐコレだ。個室を使う理由なんて排泄以外にもあるだろうが)
「おい、うるせーよ。着替えてるんだ」
返事が無い。が。抑えた声が上方から降ってくる。
「しー! 静かにしろ!」
……佐々木が戸をよじ登って侵入してきていたのだ。