26 どこかで逢ったかな
グラウンドのど真ん中にいながら、誰の目線も浴びることがない。
その滑稽で爽快な瞬間に、二人は顔を見合わせて笑った。
「大地さ、せめてジャージに着替えてりゃよかったのに。制服姿で手伝いもくそもあるかよ。汚れるぜ? おばちゃん、制服汚したら怒りそう」
薫は大地の制服の袖を摘んで顔を顰めた。
「母さんは、カオが『おばちゃん』って呼ぶことの方が怒ると思うけどなぁ……。それに、ジャージ……学校に置きっ放しにしてたはずなんだけどさ、無かったんだよ」
「体育着忘れた奴が勝手に使ってるのかもな。よくあるよくある」
薫は自分のジャージのを脱ぐと、大地の頭を覆うように上から掛けた。
「寒くないの?」と戸惑う大地に、薫は下に着込んでいたセーターを見せ付ける。彼は少し驚いたあと、ありがとう、と言ってブレザーの上からジャージを羽織った。
必要以上の遠慮も配慮もいらない関係が心地いい。
「……使ってもいいけど、ちゃんと返して欲しいなぁ」
「『洗濯して返せ』ぐらい言えよな。ヤローの汗付きジャージなんて勘弁して欲しい」
「別にいいよぉ。どーせ洗濯するのは洗濯機だもん」
「そういう問題じゃねーだろ……」
大地は終始このような調子でどこか抜けている。
既に第一レースは終了し、第二レースに入ろうとしている。最速のタイムを競うのがルールなので、それぞれこの走りに全力をかける。そこかしこで、屈伸などをしている少女らへ励ましの声が飛ぶ。少し緊張気味にそれに手を振って応える様子は、彼女らを可憐に見せた。
「……運動できる女の子っていいよなぁ……」
薫は歩きながらグラウンドの周囲の様子に目を走らせていた。大地はいつもの怯えた猫のような様子に戻り、びくびくしながら周りを見ている。その手は薫の腕にしがみつきたくて震えている。そうして彼は頭の中が混乱し、見当違いの言葉を返すのだった。
「……え? あ、うん、でも、別に、カオも運動音痴じゃないでしょ?」
「いや、能力の問題じゃなくて……華やかさの問題……」
大地は常に全力なのだ。
それでいて、そのエネルギーは気付かないところに開いた穴から少しづつ漏れている。結果的に、彼は緩くなる。薫もそれは解っていて、そんな彼を好いていた。
二人は、リレーの部署を担当している顔なじみに声を掛けた。誘導係の彼女は、トラックの内側で走り終えた選手らにねぎらいの言葉を掛けていた。
薫に気が付くと、陽気な笑みを見せた。
「ああ、真野くん、お疲れ様。本部の方はいいの?」
「女御に迫害された桐壺更衣の気分。かくまって」
冗談めかしてそう言うと、彼女はぶっと息を吹いて笑った。
「……厚かましい。どうせ役立たずなもんでこっちに流されたんでしょう。藤堂委員長で使いこなせない男を私がつかえるとでも思う?」
「だから『女御に』って言ってるだろ。藤堂は俺を寵愛する桐壺帝だもん」
彼女は一々笑うのだが、あっけらかんとして媚びている様子ではない。
「あーもう、解ったから! ……とりあえずこっちも足りてるし、男子のリレーのときにゴールテープ持ちでもやってよ。二人ともね?」
と、彼らを交互に見る。
「人足りてるんだ。結構スムーズに運んでるなぁ」
それは今日の行事全体の進行についても言えることだった。特に問題らしい問題は起きなかった。例年、ジャッジへのクレームや、練習場での争い、進行の遅れなどが起きるのだが。
「当たり前でしょ? 球技大会の華って言ったら選抜リレー。それだけに手違いが起きたらみっともないもの。それに、今年はその藤堂委員長がオリジナルのマニュアル作ってくれたからね」
「「へぇ……」」
薫と大地が揃って感嘆をもらした。
ふっと、彼女は目を緩めて嬉しそうに微笑んだ。
「今年は、大分いい球技大会だったよ。……藤堂のおかげだね。文化祭でもいい働きだったけどね」
「君も文化祭実行委員やったのか。うちの副委員長もそうだし、本当、お祭り好き人間はいるもんだね」
呆れながら薫は言った。しかし、祭りの土台に関わった身としては、満足している生徒がいるというのは悪い気はしない。
「うん! 文化祭では真野も藤堂のお世話になったんじゃない?」
「そうだったかな……? 俺、基本的に行事嫌いだからあんまり覚えてないや……」
むにゃむにゃと何かを言いかけたところで、ピストルの音が響いた。
第二レースが始まってしまったようだ。大声援が再び彼らの会話を中断させる。
「うわ、始まっちゃった! 今回、うちのクラスが走るんだった!」
彼女は大声を上げると、胸の前で手を叩いた。そのままトラックの内周に走り寄り、声援を送り始めた。
取り残された薫と大地は、ゆるやかにため息をついて、レースを観戦することにした。
「……俺、文化祭で藤堂と顔合わせたかなぁ?」
「……さぼったおれに言われても。そもそも『藤堂』を知らないし……あ!」
困ったように首を傾げていた大地は、急に顔を明るくした。小鹿のような目をぱちくりと瞬かせると、にんまりと笑って、頬から胸元に掛けて、人差し指を縦にくるくると回した。それはまるで……
「……縦ロール……?」
大地はにっこりと笑った。
「そう。一年生のとき、おれたちクラスでやったでしょう? お姫様の格好」
(……一年のころの話を何で今するんだ?)
「でさ、当日も一々実行委員の立会い許可を貰わなきゃいけなかったんだ。……ほら、ゲリラ的に問題起こすクラスがあるし。だから、公序良俗に反しないか、父兄に見られても恥ずかしくないか、チェックされたじゃないか」
「……あ!」
薫の中で何かが解けた。大地はぶっと噴出した。
「……カオのクラス、今年は『文学喫茶』だったじゃない?」
うすぼんやりと、当時の記憶をかき集める。「文系クラスならではの出し物にしよう」、と(珍しく)意気込んだ担任が、女子の意見を纏め上げた結果だ。
「古典文学・純文学の書物を教室に並べ、休憩がてら読んでもらう喫茶」という企画は、比較的好意的に実行委員に迎えられた。働く身としても、客の回転率が悪くなるその設定は有難かった。
そして、生徒らはある装束で給仕にあたった。
「俺……たしか、書生コスプレした」
「でしょ? 出回ってた写メ……貰っちゃった。 多分、チェックに来たのが『藤堂君』だったんだよ。それ以外でカオが実行委員と関わるなんてありえない……」
言葉の後半ぐらいから、ニヤニヤ笑いに耐え切れなくなったようだ。ぶふふ、と、可憐な大地には不似合いな声をあげる。
すかさず薫は、大地の耳たぶを思い切り引っ張った。
「いたたたた……! ごめんごめん! 」
大地が高い声で騒ぐ傍で、薫は藤堂の姿を思い出そうとしていた。
しかしそれは徒労に終わる。やはり薫は藤堂のことを覚えてはいなかったのだ。
目の前で、一位の走者が白いテープを切った。
その白は、どうしようもなく潔く、美しい印象を薫の中に残した。