24 すきなひと
一方で薫は、体育館脇のじめじめした通路にいた。彼は前方不注意のまま、ずかずかと足を進めている。そのような調子なので、彼のあとを小走りにつけて来ていた男子生徒には気付けなかった。男子生徒は、悪戯心を持って薫の肩をにポンと手を置く。その人差し指だけはまっすぐ前を向いていた。「か〜おるちゃんっ」と言いながら。
ところが、少年の心積もりに反して、薫はためらいもなく勢い良く後ろに振り向いた。
「何だよ」
自分の頬に何かが刺さった感触がした。痛みを感じるよりも早く、頬よりもやわな「何か」はくしゃりと折れて振り向いた首の動きに殺されてしまった。
「ったぁぁぁ……」と、呻いたのは薫ではなく、悪戯を仕掛けた本人だ。
驚いて声の主を見下ろした。全校球技大会だというのに、そこで座り込んだ男は制服姿だ。彼は手首を握って俯いているが、上空を指すように人差し指だけぷるぷると立っている。
「あ……ワリ……俺、何かした?」
少年は泣き笑いの中途半端な顔で薫を見上げた。
「バチ当たったよぉ……。ほっぺに指を突き指してやろうと思ったら、……カオってば思い切り振り向くんだもんね、」
「……大地!?」
制服の男子生徒は、薫の幼馴染の浅野大地だった。めったに高校に現れない人間である。薫が驚くのも無理は無い。特に、このような学校行事の日は必ずと言っていいほど欠席した。
薫は不機嫌な顔を脱ぎ捨てた。大地に目線を合わせるようにしゃがみこむと嬉しそうに彼の頭を撫でまわす。
「何だよ、来るなら言えよ! 一緒に登校すりゃよかったのに。指は大丈夫か。俺、今イライラしてて思いっきり振り向いたわ。ゴメンな、痛かっただろ、」
「大丈夫大丈夫! ……それより、どうしたの、イライラしただなんて。やっぱり実行委員は大変なの?」
こんなときも、大地は自分のことよりも他人のことだ。
「いいや。凄く楽だよ。なのに…………、」
「どうしたの、」
大地は薫の顔を覗き込む。彼の子犬のような潤んだ瞳は、優しい。甘えてしまおうか。
「俺、さっき酷いこと言った……」
「……めずらしい。カオが、言った言葉で落ち込むなんて」
「心ん中とは違うこと言った。本当のこと言えなくて、どうでもいいこと持ち出して、そいつを責めた」
大地はゆるりと微笑んだ。そのまま何の躊躇いもなく薫の頭を抱え込む。母親が幼児を抱き抱えるように。
「……言ってよ。どうした?」
バランスが崩れないよう踏ん張っていた足元の力をふう、っと抜いた。そのエネルギーは大地に流れる。しかし、細身な大地がびくともしなかった。安心しきってそのまま大地に体を預けた。
「多分、俺が悪いんだ。あいつは、みんなを楽しませるような阿呆だったのに、今は俺のことばっかり言う」
「カオの所為じゃないよ、」
「……させちまおうか。それとも、拒否するか」
「は?」
「何でもない。俺のせい、だなんて自意識過剰だよな。考えすぎだ」
自嘲し、大地の腕の中から顔を上げる。
「はぁ……。大地、お前、話全然見えてないよな、ゴメンな」
そう、彼は何も知らないはずなのに、何の言葉も挟まずに聞いてくれる。彼はくすくすと少女のように笑った。
「解るよ。だって、カオはいっつも女の子にモテモテなんだから。でも、こんなに神経過敏になってるケースは稀だよね。アレでしょう。告白して開き直ってるタイプの子。カオはハッキリした子が嫌いじゃないしね。……でも、迷惑を顧みず人前でもどんどんアタックしてくるんでしょ」
大地の思っている性別とは違うからこそ困っているのであるが、状況は全くその通りであった。薫は苦笑するしかない。
「俺調子良すぎ。どうすりゃいいんだろ」
「好きにしなよ」
縋るように幼馴染を頼っても、彼は肝心なところは踏み込まない。
「大地なら迷わず食っちまうんだけどな、」
真顔で言った。とうぜん、冗談だ。
「何の話」
「何でもない。大地は何か無いのかよ、」
「まさか。学校もさぼり気味だし。何も無いよ。それにおれは誰かを好きになったりなんかしない」
「俺のことは?」ふざけて問う。
「カオを好きな『好き』とは種類が違うでしょう」
「違いなんてあるのかなぁ……最近解んなくなってきたよ」
「カオはいないの? 特別に好きな人」
「好きかどうかはわかんねーよ。特別な人ならいるけど」
「特別が、好きでいいんじゃない?」
大地はしなやかだ。ちょっとしたガッカリにかくりと首を傾げた。
「でも、俺、大地も特別だぜ?」
「……浮気者」
大地は薫を軽くにらみつけ、……そして笑い出した。薫もつられて笑い出した。
二人は肩を組みながら、卓球場へと歩き出した。
◇
薫は結局、3Bがサッカーで優勝する瞬間を見ることは無かった。
選手らが半裸で狂喜する中たった一人、神妙な顔をして押し黙っていたのは、MVPに輝いた佐々木だった。
全ての種目の決着が付いた後、クラス対抗選抜リレーが始まる。ほぼ全ての生徒がグラウンドを囲むようにわらわらと集まってくる。グラウンドに面した教室のベランダに張り付いている生徒もいる。
各クラスの花形が集まることへの期待と、爆発的な声援の前のささやかなざわめきが夕方の空気を暖めるのだった。