2 誘い
体育の種目はサッカーだった。
自分の体が本調子でないことに今更ながら気付いた。やる気の無い生徒らと共に、ボールを追いかけずにゴールの周りでだらだらと燻っている。中にはテニスコートの女子を堂々と見ている者もあった。
そんな彼らに教師の怒号が飛ぶ。
「おら! お前ら楽してねーで走れ! 出席付けねーぞ!」
「うるせー!」「黙れ独身39歳ー!」
「お前らもどうせ39歳になるんだからなー! 受験勉強のフラストレーションは動いて晴らせー!」
生徒らは生意気なことを口々に叫ぶが、教師も負けじと楽しげに応酬する。薫はそれらを横目に見ながら欠伸も我慢せずに、ぼりぼりと腹を掻いていた。
ところが、不意に敵方のロングパスが伸びる。ゴールの危機が迫ると反応せずにはいられない。破れかぶれに繰り出されたそのパスはやすやすと薫の足元で大人しく収まる。弾みをつけて、味方へ伸びやかなパスを放った。
センターライン付近まで上がった薫の背後に足音が近寄り、臀部を思い切り叩きのめすものがいた。
それは、思いのほか響いて痛いものだ。
「ナイス!」
……佐々木だった。彼は、走るのを止めて彼の隣で佇んだ。息は僅かに弾んでいる。始終走り回っている男が、うずうずとしたサッカーへの関心を抱きながら自分の傍に留まっているのは居心地が悪い。蹴り飛ばして突き放したい衝動に駆られる。
「……いいのかよ、サッカー部がゲーム放っておいて。俺ら負けてるぞ。」
A・B組混合チームで対戦しているのだ。今回は薫と佐々木はチームメイトだ。
冷え冷えとした調子で言っても、佐々木は返事をせずにじっと薫を見ている。あの話題は流れたわけではなさそうだ。だから、何かを話したそうにしているのだろう。
「……お前、『女』にされたんだろ」
ぎょっとした。自分と同じくらいの身長の男の雄雄しい横顔がそこにある。
「女……?」
日に焼けた赤茶色い髪は猫ッ毛で、頭にふわりと乗っかり形のいい後頭部を強調した。細くともメリハリの利いた筋肉質な身体は、体操着を華やかに見せる。野蛮さのある彼は多くの女子には蔑まれていたが、一方で、その陽気さによって人気もある男だった。
雄の象徴のような友人を見て、「女」の意味するところを察した。――女役をやったんだろう? そういう意味だ。
「……だったら。一回、俺ともしてみろよ」
それだけ言うと彼はボールに向かって走り出した。混乱している薫を置き去りにしたまま。
「は……?」
間抜けな音は、グラウンドにぽつねんと落ちた。
◇
不安な気持ちで一杯になりながら、体育の片づけを抜け出して一足早く校舎に戻ることにした。背中に浴びせられている、教師の「戻って来い、まだ終わってねえぞ!」の叫びも無視をする。教師に対して、基本的には従順で問題を起こさない薫なので、心の中で「ごめんなさい」と呟く。
校庭に面した保健室のドアから校内に上がりこむ。途端に、養護教諭の呆れた声が飛んでくる。
「こら! 真野くん! 玄関から上がりなさい!」
このおばちゃん先生は、分け隔てなく人に接する人柄でみんなに好かれていた。薫も、他の女教師のように自分にひいき目や色目を使ってこないため、彼女が好きだった。そのせいか、彼は彼女にだけは甘えた歳相応の態度を取ってしまう。
「先生、俺、調子悪いから寝させてくれよ」
「何度も言うけど、50分だけ! それでも良くならなかったら帰りなさい」
上がろうとした薫を追い出して、「昇降口から入り直しなさい!」と言いながらその戸に内から鍵を掛けた。無作法な生徒に甘くないところにも、彼は一目置いていたのだ。
保健室は珍しく誰も使用してなかった。薫は飛び込むようにベッドに横になった。勿論、眠いわけではなかったので寝付けない。カーテン越しに養護教諭に話しかける。
「先生、俺の話聞いてくれる?」
「もちろん」
「ビックリすんなよ?」
「『しないでください』」
薫はその訂正を受け流しベッドにうつぶせになった。誰か来たら言って、と言いながら。このような砕けた様子は友人にもなかなか見せない。
「俺……男の人とエッチしちゃった」
カーテンの向こうでは何の反応も無い。
「なぁ……恥ずかしいから黙らないでくれない?」
彼女は深くため息をついた。
「本当に驚いた。……全く。受験生が何してるんだか」
「それだけ? 先生、教育的にその意見はどうなの?」
「教育者としての言葉が聞きたいわけじゃないでしょう?」
「違うけど……でも、誰かに言わなきゃなんかおかしくなりそうでさ、」
「無理やりされたんじゃないでしょうね」
「違うよ、同意の上」
「……それじゃ私『個人』としては言う事は何も無いねぇ」
「え、無い? 男同士とかおかしくない?」
「どうして? 別に構わないじゃない。好きなんでしょう?」
「好きとか良く分からない」
「……呆れた」
「仕方ないじゃん」
そこで、ガラリと保健室の戸が開いた。
急遽、薫は黙り込んだ。彼女も何事も無かったかのように生徒に応対し始める。いつものように穏やかな声で「どうしました、伊藤くん」と声を掛けた。彼女は全校生徒の名と顔を把握している。
枕に突っ伏し、深々と息をついた。誤魔化そうが、解っているのだ。奔放さで横田と共にしたのではなく、惹かれていたからだということを。しかし、それを認めるにはまだ準備が出来ていなかった。
(……好きだとして、どうすればいい? 何が変わる?)
キッチリ50分の後に、放り出されるように保健室を出た。
間も無く、昼休みが始まる。